見出し画像

今井真実 第8回 瞑想は煮込み料理で――とろとろポトフのおいしい秘密


第7回へ / 第1回へ / TOPページへ

 鍋のふたを開けると、濁りのない澄んだスープが出来ていた。かれこれ2時間ほど、ことことと煮込まれている。とろとろの牛スネ肉に菜箸を刺すと、なんのとっかかりもなくすっと入った。
 まずまず。これは成功と言っていいだろう。味見をするために小皿によそい、そっとすする。ああ。なんて豊かな味だろう! 思わず「いいねいいね」と声が出る。食材の命が丁寧に抽出され、透明なスープに溶け込んでいる。

 次に塊のまま煮込んでいた牛肉を取り出し、まな板に載せてスライスした。なんていい眺めなのだろう。しかし、切り口から立ち昇る香りは、なぜだかあまり食欲をそそらない。一切れつまんで口に入れ、咀嚼していくうちに、すーっと血の気が引いて頭の中が痺れていく。これは……これは全然だめ。このレシピはボツだ。
 反射的に牛肉だけを別の鍋に入れて、たっぷりの水を張る。火を点けて、思いつくだけの香味野菜を突っ込んだ。セロリ、にんにく、生姜、日本酒。これらと一緒に煮込めば、どうにかならないだろうか。さっきの試食はなかったことにして、しばらく放っておこう。

 キッチンからよろよろとソファに向かい、だらりと寝転ぶ。どうしよう、ポトフのレシピ。私のなにがいけなかったのだろう。今回は牛肉のなかでも煮込み料理に向いているとされている、牛スネ肉を使用した。解凍方法が悪かったのだろうか。冷蔵庫で1日かけてゆっくり解凍したのに。
 良かれと思ってやったこと、やらなかったこと、すべての工程を思い出し、どうしたらもう一度時を戻せるのだろうかと、頭を抱えてしまう。作り始めた時はあんなにキラキラした気持ちだったのに。

 冷蔵庫にはもう1セット材料がある。もう一度最初からやり直そう。撮影はあさってだから、まだ間に合う。その前に問題点を洗い出さなくては。
 スープは良い状態で出来ているのだから、問題は牛肉の下処理だろう。私がした下ごしらえは、肉の重量に対して3%の塩分で塩漬けにして、一度下茹で。沸騰したら灰汁が出るので湯ごと捨てぬるま湯で洗い、野菜と一緒に煮込んでいった。しかし、牛スネ肉には向いていなかったようだ。

ここから先は

2,091字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!