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高田大介『エディシオン・クリティーク #2』――読み切り完結🔎

WEB別冊文藝春秋

古代ギリシア語辞典に挟まれていた、上下逆さまに記された一葉の紙片。
文献学者嵯峨野修理さがのしゆりの推理によれば、
これはある「奇書」にまつわるものだという――

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四、奇妙な正誤表のこと

 そもそも引きつけない希仏辞典なんかを繙いていたのは、戯れにその版面を覗き込んだらまったく解読が付かなくって驚いて、これはその筋の者なら意味を成すのかと訊いてみたかったからだ。せっかく辞書解読には一日の長のある修理がいるんだから、もう一つけんあんがあったのを思い出した。

「そう言えば、この『希仏辞典』……『バイイ』とやらにへんなメモが挟まっていたんだよね」
「メモ?」
 取れそうな裏表紙をめりっと開くと一葉の紙片。それを修理に手渡した。

「これさあ、なにかの正誤表だよね……」
「あぁ……はいはい……そういうことか……はぁー……」
「途中で切れちゃってるけど、『バイイ』の正誤表じゃないよね、だってギリシア語じゃないし」
「うん」
「これ、なんだろ。前の持ち主が書いたもののはずだよねえ」
「前の前の持ち主かもしれないけど。これは挟まっているところが違うよな」
「そうでしょう。続きもあるはずだし」
「もとの場所に挟み直してあげないとな」
「そういう話になる?」
 修理は紙面をしばらくじっと眺めていた。
「何の正誤表だったのかな」
「『ガフィオ』だな」
「一目かよ! 一目で判るのか」
 やっぱりあれこれ悩む意味はなかったな。
「『ガフィオ』って、さっき言ってた羅仏辞典のことだよね。ラテン語の辞書だとは思ったんだけどさあ」
「フランス語も入ってるじゃないか。明らかに羅仏辞典だし」
「そうなのか。羅仏辞典だと、他に可能性はないの? 『ガフィオ』に決まりなの?」
「間違いないね。使ってた人が気がついた誤謬を書き留めておいたんだな。『バイイ』を持っている人なら、まず必ず『ガフィオ』は持っているからな。『ガフィオ』に挟んであったコリゲンダが蔵書搬出のどさくさで、隣の『バイイ』に紛れ込んじゃったんだろう」
「そんなところかも知れないけど、状況証拠っていうか、想像の域を出ないんじゃない?」
「いや、間違いないよ。これは『ガフィオ』の正誤表だ。« agnicula, œ »が« agnicula, æ »に訂正されているだろう?」
「一行目ね」
「これ、『ガフィオ』では有名な誤植なんだ」
「有名な誤植?」
「もともと『ガフィオ』の旧版っていうのは、電子製版の現行ヴァージョンとはちがって、活字製版で『挿画入りイリユストレ』って謳ってたんだよね」
「イラスト入り?」
「現物を持ってきてあげるよ」
 そう言って修理はふらりとサロンから続きのウッドデッキへ出ていこうとする。
「いいよ私もいくよ」
 二冊の『バイイ』を抱えて、当然のごとくに修理についていくタビ氏のあとに続いた。
 母屋から離れて蔵造りの一棟へ向かう。修理が書斎として常用する手前の一棟では、蔵戸前の観音開きは平生開け放たれており、その内の防火用のうらじろ、格子の網戸が取り払われて、二重ガラスの片開きサッシが嵌まっている。これは故嵯峨野算哲氏の注文になるものだ。
 修理がサッシを開けて入っていくと、足下にはタビ氏が当然のようについていく。私が後ろ手にサッシを閉めると、蔵の中はしんと静まり返ってすでに秋の夜長にひんやりと冷えきっていた。修理がフロアスタンドの灯をともし、書見台の脇のオイルヒーターを点けた。それから作業机と称している大きなテーブルの向こうにまわると、そこにあるのが常用の参考図書の書架で、平たく言えば修理の辞書棚だ。

 東京都の電話帳を三冊重ねて頭を強打すると、ほとんど外傷もなく人を殺傷できると物の本に読んだことがあるが、その伝で言うと修理の辞書棚には、人を殺せる鈍器の類い、片手で持つのはちょっと厳しいという大きさ厚さの字引きがぞろっと並んでいる。いったい何カ国語に及ぶのかは判らないが、さすがに父君の算哲氏の遺産も目立つので、『グラン・ロベール仏語辞典』、『グラン・ラルース仏語辞典』といった十巻もの、二十巻ものの超大辞典が棚の下の方で睨みを利かせており、すこし英仏勢が優勢といった趨向か。この辞書棚には和書は少ないが、辞書マニアの私としては『諸橋大漢和』と『日国』の旧版が完本なのが嫉ましい。

 そういえば修理は国語辞典はいつも何を引くのかと訊いたことがあるが、もう電子版しか引かないとのことだった。それというのも『精選版日国』、『大辞泉』、『スーパー大辞林』、『三省堂』、『新明解』といった主要辞書を一遍に引きたいということで、串刺し一括検索の出来るソフトウェア態勢を整えてあるのだという。文献学者というものは、異本をずらっと並べて同時に読み進むばかりではなく、辞書までも幾つもいっぺんに開いて比べてやらなければ気が済まないものらしい。業の深い話である。目も手も二つしかないんだし、まして頭は一つしかないんだから、一冊の本と一冊の辞書があればそれで満員御礼ってことにはならないのかな。

 修理は作業机にタビ氏と並んで腰掛けた私に、問題の羅和辞典を抜き出してきて渡した。
「ほら、これが現行版の『大ガフィオ(Dictionnaire latin-français : Le Grand Gaffiot)』、それから前世紀の『ガフィオ(Dictionnaire latin-frainçais)』だ。

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