高田大介「エディシオン・クリティーク――ディレッタント、奇書を読む」#001
東京で編集者として働く真理。
彼女の幼なじみにして「元」夫は、
群馬の山奥で失われたテクストの復元に勤しむ
文献学者・嵯峨野修理である。
修理と離婚した後も、修理の母・妙を慕って
嵯峨野邸に入り浸る真理だったが……。
一、例ならず嵯峨野家呼び出しのこと
下は好事家には名高いヴォイニッチ写本の一葉である。何の因果か、こんな訳の分からないものを読まされることになった。と言っても実際に「読まされた」のはもっぱら元旦那の修理だったのだけれども、ことの起こりは私と修理の現在の関係について、実家と婚家の両の母親から膝詰め談判で問い質された家族会議の席であった。
なんとなくなし崩しにつねづね寄りついている修理の実家であったが、真面目な口調で「元」義母の妙さんが「話がある」との仰せなので、珍しく所定の日時に呼び出されるかたちになった。私は愛車のポンコツ四駆を駆って上州甘楽郡の山中にある嵯峨野家を訪った。日時に指定があったのは、この家族会議に見込まれるもう一人の出席者、私の元旦那である嵯峨野修理の予定と折り合いをつけるためだった。隙を見せると修理は逃げ出しかねないからだ。
頃も年の瀬をにらむ師走の半ば、おそらく出講予定は新年にはなく、期末の試験はレポートの形にしたことだろう、加えて非常勤の修理には勤務校の入試関連の雑事が降りかからないから、一朝からだが空けば何処へともなく新学期まで出奔してしまう可能性がある。
妙さんは一体もったいをつける方ではないから電話口で「話がある」の概要はとっとと伝えてきていた。要するに別れながらもずるずると交渉を切らないでいる私と修理の関係は、今後どういうことになっていくのか、本人達の見込みを明らかにせよということである。
妙さんご自身は我々の婚姻関係とその破綻の経緯についてはすでに重々ご案内である。というか離縁に先駆けて私がずっと相談していたのが他ならぬ妙さんだ。私は義母に向かって、あなたの息子と離婚したいんだけどどう思いますか、と厚かましくも縷々悩みを訴えていたのであった。したがって我々の離婚も、大いに慰留されたものの、妙さんにとっては相談尽くの話だったはずだ。
それがここに来て「それであなた達は今後どうしていく積もりなのか」との問責が俄に持ち上がったのには、実は私の実妹の佐江の動向が関わっていた。
「泣かせちゃったのよね」と妙さんは溜め息を吐くのである。
要するに佐江は「どうしてお姉ちゃんと修理は公的に別れたのにずるずると縁を切らないでいて、しかも折に触れてはいちゃいちゃしているのか、おかしくはないか」と妙さんに注進に及んでいた。私としては「いちゃいちゃ」している積もりもないが、たしかに婚姻関係にあったころより修理とは仲が安定しているというか、気心がしれているというか、むしろ良い関係になっているような認識はあった。
だが、それが佐江には我慢ならないのである。納得がいかないのである。
この佐江の憤懣は一朝一夕に湧き上がってきたものではないので、少々わが実家岩槻家と婚家嵯峨野家の関係について振り返ってみなくてはなるまい。
元を正せば両家の関係は、そもそも私の実母、汐路と妙さんが中高一貫の女学校で同学年であったことに端を発する。各学年5学級ほどの女子校だが一度も「同級生」になったことはないとのこと。
しかし二人は同じクラブに所属して初めから意識し合っていた。互いに一目ぼれだったといってもよい。という証言を得たのは当の妙さんからで、まさしくその時に隣にいた実母は「やめてよ気持ち悪い」と妙さんを窘めたが、その仕草がすでに堂に昇り室に入るたぐいの老練の芸に達していた。
中学の頃から演劇クラブで、すでに宝塚歌劇団でいうところの「路線に乗っていた」二人は、当然のように赤学年(高校2年のことだとか)の文化祭では「英語劇『ハムレット』」でデンマーク王子ハムレットに母、侍従長の息子レアティーズに妙さんが扮して、劇終盤の悲壮な絡みで全学を熱狂の渦に巻き込んでいたのだという。
「汐路と妙」は、片や高校の数学科の教員、片や英文学の研究者として、進路は異なりながらもその後も緊密な交際を続けていた。汐路は良く言えば聖職を得て職業人として充実した生活を送っている間に、悪し様に言えば教員としての激務と職員室での身も蓋もない軋轢に擂り潰されながら、着々と「いきおくれていた」のだが、とある堅物の物理担当の同僚と結婚することになった。妙の方はといえば、ほぼ純粋培養式に女子大で英文学を修め、大学院ではイギリス詩の研究を続けた。かくして、ミッション系の中高から、学部、院を経て、またミッション系の女子大に奉職することになったのだが、その頃にフランス文学者の嵯峨野算哲氏と出会って、一回り以上歳の離れたこの教授と結婚することになった。
岩槻家にまず私が生まれ、やや遅れて嵯峨野家には修理が誕生した。それから3年後に妹の佐江が生まれることになる。そもそも学生の頃からの長い付き合いのあった二人が、互いに年ごろの近い子供を持つこととなり、両家の付き合いはいきおいさらに親密なものとなった。まだ嵯峨野家本宅は武蔵野にあったし、岩槻家は任地に合わせて城北から埼玉南部へと荒川沿いを転々としていた頃だったので、折おり子供を預け合うような昵懇な関係が続いたのだ。子供たちは親戚の家よりも頻繁に両家の間を往復していた。
だいたい私は修理を子分のように扱っていた。修理はまれに頑固なところをみせたものだが、大枠としてはしごく従順だった。佐江も修理に良く懐いていたので、私たちは仲の良い三たりの同胞のように育っていたわけだけれども、佐江が特に付き従っていたのは修理の方で、実姉の私に対してはやや張り合いがちだったのは栴檀は双葉より芳しというやつかもしれない。
わが岩槻家には理系の両親が揃っていたので、どうやら理系に適性があったらしい修理はうちに預けられると、様々な図鑑や百科事典やブルーバックスの並んだ書棚に嬉々として張り付いていたものだ。父と母が、学習指導要領の改訂にともなって高校の数学範囲から行列が追い出されることになったと嘆いていたときには、「なにそれ、なにそれ」と興味を示し、面白がった父母はまだ中学にあがったばかりの修理に線形代数の基礎を教え込んでいた。私が「こっちに来て遊ぼうじゃないか」と水を向けても、こうなると梃子でも動かない。
だいたいこうした科学少年、数学少年はそのまま猛スピードで突っ走っていってしまうのが普通で、修理自身も、彼が進んだ中高一貫進学校のご同輩でも、大概はそうしたものだったそうだ。高校に上がる頃には大学受験範囲の網羅型参考書はすでに二周目、見直しに入っており、高校の間中『大学への数学』なんかを冷やかしながら、線形代数や解析学や複素関数論や微分方程式やらの大学数学を摘み食いして暮らし、試験の前になると試験範囲がどこかをちょっと確認しただけで試験に臨んで満点、というような「数学貴族」みたいな存在になっていた。
一方の私はどうやら生まれながらに文系気質みたいなものがあったのか、嵯峨野家にあって家内に飛び交う外国語交じりの家族語がたいへんクールなものに思え、算哲氏の書斎に入れてもらえることこそなかったものの、家中に溢れる「外国語の本」の数々にかなり憧れを抱いていた。最終的には国文学を専攻することになったが、英語はずっと私の進路選択を支え続けてくれた得意教科だったし、なにしろ妙さんが憧憬の的だった。
さて、妹の佐江であるが、こちらは理系に進むことになる。佐江の憧れは、さして勉強しているようにも見えないのに定期試験では理系科目で満点を連発していた修理の方だったのである。
修理は「数学は一度得意科目にしてしまうと裏切らない(学部数学までは)」と嘯いていたが、その言のとおりに「数学や物理で満点を取れば、あとはどうでもよかろう」みたいな態度で受験も進学振り分けも苦労なく理学部数学科に進んだ。ところが私からすると意外なことに、修理本人の意識の上では、数学は長らく試験科目としての得意教科であっただけで、これを窮めていく適性は欠いているという自己判断があったというのである。それなのに数学科に進んだのは何故かといえば、ここまでは行けるというぎりぎりの際までは見てみたかったからだと言う。
修理はぬけぬけと大学院から文系に転じ、西洋古典の泥濘から文献学の底なし沼へとずぶずぶ身を沈めていくことになる。数学科から言語や古典に転ぶ例というのは結構あるものらしいが、なんだか身過ぎ世過ぎとか、そういうことを全く考えない奴で、そういう娑婆っ気の薄さを従前は好ましく思っていたのだが、今となっては癪に障るところだ。
この修理の「文転」に一番驚いたのは佐江だった。妹としては裏切られたような気すらしたかもしれない。佐江はずっと理系を志していたが、それは親が理系だったからでも、自身理系が得意だったからでもない。単に修理が理系だったからだ。佐江は高校時代、まだ数学科の学部生だった修理に家庭教師を依頼し、額を合わせるようにして理系科目の琢磨に努めていた。佐江にとってはそれが蜜月時代にあたったのかもしれない。その頃にはさすがの私も気がつきつつあった。佐江はかなり本気で修理に惚れており、真剣に修理の後ろを追っていこうとしているのだと。
下心の為すところとは言え、じっさい成績の向上は著しく、佐江は志望校への合格を果たした。公平に言って修理の家庭教師は効果があったとすべきところだろう。
それから佐江は言うところの大学デビューを果たし、見た目も「いけている」系の出で立ちに変態を遂げ、やがて女子密度の希薄な理学部情報科学科の姐御みたいな立場に君臨して、常に数多くの「友人」を侍らせていた。なんというか極妻系というか、悪の組織の女幹部系というか、ようするに「やっておしまい!」なんて一言発すれば、「友人」というより「部下」みたいな扱いの取り巻きが号令一下飛びかかっていく、という具合の立場である。もとより母譲りのクール系の面立ちで、無愛想で取っ付きが悪く「誤解されがち」な立ち居振る舞いでありながら、一皮むけばこれが重度のITオタクで「情報処理ガチ勢」なのである。モテないわけがない。
とはいうものの、もともと物事の仕組みというものに関心があって、機能ばかりでなく機序にも目を配るというのは、佐江特有の理系マインドの発露というよりも、岩槻家の家風のなすところだったと言うべきかもしれない。つまり物理屋の父も、数学教師の母も、世のことどもの仕組みとか法則とか原因とかいった問題に非常に敏感で、原理に立ち戻ってものを考えることが家訓として涵養されていた。
ちなみに生活の中で逢着するありとあらゆる不具合の原因究明に、子供らのなかでもっとも明るかったのは、私でも佐江でもなくしばしばお預かりしている嵯峨野さんちの修理くんであった。ある時、私が演劇部の朝練で早出をしなくてはならない時に限って何度か連続で目覚まし時計が働かず、父に新しいのを買ってくれと申し出た。そうしたら横で聞いていた修理が、寝る直前じゃなくってもう少し前、たとえば夜ご飯を食べている時にでも目覚ましをかければいいのにとあっさり言ってのけたことがあった。
修理によれば……私の目覚まし時計は、ベルを打つ機構の発条と、針を回す機構の発条の2系統の動力を持っており、その針を回すほうの発条が「曜日と日付」の小窓の中の円盤2枚もドライブしており、11時半から0時半までの間だけ、日中よりも負担が多くなっている。その負担が大きくなっているタイミングで、目覚まし時刻を合わせると、ぎりぎりの公差で動作している歯車の嚙み合いが一時的に悪化して、ロックしてしまう……ということだった。これには父も相好を崩し、子供の頃から「考えるだけでラジオを直した」と称された理論物理学者リチャード・ファインマン(父にとってのヒーローの一人)の逸話を引き合いに出して、修理の炯眼を誉めそやしたものである。
このように和製ファインマンたる将来を嘱望されていた修理が、何の因果か文系の煮凝りみたいなジャンルに沈んでいったのは皮肉な話で、これはこれで知恵と知識の試される分野ではあるが、理系人としての自負心がアイデンティティに深く食い込んでいる岩槻家の父母にしても佐江にしても、思うところは多々あったろう。
ところで佐江の心機一転大学デビューについてであるが、そこにはもう一つの事情が——というか「情実」が絡んでいた。
佐江は大学の合格通知を受け取った直後に、修理から蒙った学恩に深く謝するとともに、恋情の告白に及んでいた。そして有り体に言えばきっぱり振られていたのだった。
佐江としては一つのけじめの積もりだったのだろう。つまり振られて身を引くことを覚悟しての切実なアタックであったが、実際望みは果たされなかった。こうしたドラマがあったらしいことに私も薄々気がついてはいたのだが、佐江は取り立てて言挙げしなかったし、私の方としてもなにか慰めるようなことも言わなかった。それというのも佐江が振られたのは十中八九は私のせい——つまり修理が恋愛的な意味合いで好いていたのは他ならぬ私であり、佐江の申し出たような交際を謝絶するにあたって、その旨を告げたものだと想像していたからだ。
私と修理は、どちらかというと姉弟のような関係……つまりとかくに横暴な姉とつねづね翻弄される弟とでもいったような関係がながらく続いていたのであるが、修理が好きなのは私なんだろうなとはいつからか判っていたし、修理の方でも私が奴に身を焦がして懸想しているとまでは言わないにしても、憎からず想っているぐらいの見当はついていたものと思われる。
実際私は修理以外の男性を好きだなと思ったことがさらさらなかったし、修理の方はと言えば、健気で可愛い佐江ちゃんよりも、横柄で厚かましい真理のほうが好きだったのだ——まことに恋は思案の外、率直に言えばこればかりは私のせいとばかりは言い難い。
ただ家庭内で暗黙の了解があった佐江の失恋を経てなお、「私はなんとも思っていないけど」みたいな態度で修理を連れ回すのはさすがに憚られ、それとなく旗幟を鮮明にするように促され、なんとなく修理と私は既定路線ともいうべき「交際」を表立って開始するにいたった。それが妹の純情に対する誠実な応答というものだろうという無言の合意があったのだ。
「修理、あんた、私のことが好きなの?」
「うん」
「私も修理のことは好き。じゃあ付き合うか」
「そうしようか」
「それでいっか」
だいたい上のような具合であった。
「告白の儀」は一般的には恋愛生活にとって著しい画期をなすのであるが、修理と私の間の「儀」は実に散文的であっさりしたものだった。出来ればやらないで済ませたいんだけど、済ませておかないと多方面に不義理が生じるしな、というような消極的な判断によってなされたものだったからだ。切実な内的動因がなかった。
そもそも私には佐江からのプレッシャーが大きかったのだ。佐江からすると、もうなんでもいいからちゃんと付き合って、ちゃんとしてくれないとこっちも未練で困るんだけど、といった具合だ。一事が万事そうだった。佐江の方はそれまでずっと誕生日のプレゼントだの、ヴァレンタイン・デーのチョコレートだの、なにくれとなく修理に攻勢をかけていたのだったが、私は何もしてなくって酷いんじゃないのと叱責されるのである。確かにヴァレンタインに手作りのチョコを贈ったためしなど皆無だった。私は「美味しく出来ているチョコレートを不味く作りかえて贈ることに何の意味が?」とか考えてしまう質である。くわえて嵯峨野家は父君のフランス文学者算哲氏がフランスかぶれだったので、ヴァレンタインには夫が妻に花を贈る習慣なのである。その影響で、修理は私や佐江に小さな鉢植えなんかをくれたりしていたものだ。切り花の花束は気障に過ぎると考えたのか、佐江には三色菫で、私には仙人掌だった。これは何かの嫌みなのかと詰ってみたら、「真理は世話の無いほうがいいでしょ」と涼しい顔で言っていた。花の選択はともかく(仙人掌は花か?)、ヴァレンタインには修理の方が贈り物をくれているわけで、「お姉ちゃんは何もあげてないのにずるい!」という趣旨で佐江から私が責められることになるのだ。私に懸想びたる態度が見られないのが佐江にはどうにも不満なのだ。でも私に嬌態なり、愛嬌なりを要求するのは、木に縁って魚を求め、氷をたたいて火を求めるたぐいの無理頼みなんだけど。向き不向きってものがあるんだよ。
ともかく佐江は実を結ばなかった自分の恋情の弔い合戦とばかりに「修理の恋を応援すること」に眦を決しており、修理と上手くいかなかった日には「お姉ちゃん許さない」という、そういう態度なのである。重いんだよ。でも健気な妹を無下にも出来ない。お姉ちゃんも辛いよ。
そういうわけだから後年、私と修理の離婚に際しては佐江は怒髪天を衝いていた。断腸の想いで諦めた恋、涙こらえ唇を嚙んで祝福した二人の結婚、それがあろうことか反故にされるというのが、佐江には許容できなかった。
「だったらもういいよ、もう判った。修理は私がもらうから」
「もらうって、あんた、物みたいに」
「拾ったり捨てたり、物みたいに扱ってんのはお姉ちゃんでしょ!」
「いや、こっちもいろいろあるんだよ……」
「私が後妻に入るから」
「そんな独り勝手にさあ……」
「独り勝手はお姉ちゃんでしょ!」
……そうなのかもしれない。
二、背とありし時はあれども別れては
その日の嵯峨野邸のサロンには二人の母と修理と私と佐江がいた。
ラタンのソファには修理と私が並んで、やや居住まい悪く、怒られているみたいに(じっさいやや怒られていた)座っていた。佐江はローテーブルの角を挟んで、同じくラタンの独りがけに足を組み、膝の上には妙さんの愛猫の豆ちゃんが丸まっている。そして「汐路と妙」が食卓から引きずってきた椅子にそれぞれ腰掛けて向かいに陣取っている。自然と二人の母はやや視線が高い位置にあり、これはどうみても判事の席だ。家族会議——というか家族裁判である。吊るし上げである。
ローテーブルの上には、フランジパン(アーモンドクリームとカスタードを混ぜたもの)の詰まったパイ生地のガレットが切られ、合わせてジャスミンティーが点てられてデルフトブルーの絵をさした紅茶茶碗に注がれていたが、修理と私のカップはすっかり温んでしまっている。
議題はもちろん「どうしてお姉ちゃんと修理は公的に別れたのにずるずると縁を切らないでいて、しかも折に触れてはいちゃいちゃしているのか、おかしくはないか」である。
修理と結婚したのも件の既定路線のなすところで、私はもう就職していたし、修理が博士後期課程に入って、非常勤職や助手のポストにありついたぐらいのタイミングで割に簡単に決めた。私たちはすでに都下のアパートメントに一緒に住みはじめていたので、新たに引っ越しを伴ったわけでもなく、特段の「求婚の儀」も指輪の遣り取りも無かった。
私と修理がしごくカジュアルに入籍したのは、結婚することにもしないことにもたいした違いが見られないというか、大枠としてはとっくに結婚しているようなものだろうという判断があったからだ。だってもう一緒に住んでいるんだし、それこそ結婚する前から互いの家の子も「うちの子」みたいなものという意識だったわけだし……事あらためて結婚するとして、なにが変わるというのだろうか?
これは実はちょっとした浅慮であり、私にも修理にも分別が足りていなかった。現実には私たちの間柄は結婚によって激変してしまったのだ。予想外だった。想定していなかった。だが当時はおよそ想定に無かったのだ——修理と私の関係が結婚を境にむしろ悪くなって、いっそ別れたいと思い詰めるにいたる運びになろうなどとは。
予め分かっていたこととしては、一つ、明らかに変わることが確かなものがあり、それは「籍」であった。つまり制度上の「立場」が歴然と変わるのだ。
私は給与所得者であり、修理は収入こそあるものの公的な立場は学生だった。だから家計を纏めることにはっきりした経済上のメリットがあった。修理を私の扶養にいれてしまえば、扶養手当と住宅手当の色が付き、保険も社保で世帯単位でカバーできる、などなど。
「修理、あんた、私と結婚したい?」
「したい」
「でも本当は? 外聞を気にせず言ってみな」
「別にしなくてもいい」
「なんも変わんないよねー」
「そうかもね」
「でも助手の任期が切れたら扶養にいれられるね」
「制度的なメリットはいろいろあるのかもね」
「するか」
「しようか」
だいたい上のような具合であった。あとは紙ぺらを役所に出しただけだ。ちなみに苗字は嵯峨野にした。私は本来は選択的別姓の支持者だし、経済的理由から戸籍筆頭を岩槻真理としてもよかったのだが、嵯峨野修理にはすでに単著がいくつかあったし、私は業界内で岩槻性を通称として継続的に名のることに不都合が無かったからそうした。あとは完全に趣味の問題だが「嵯峨野真理」という戸籍上の名前を通称とは別に持っているというのは、ちょっとアリなのではないかという気がしたからだ。
神聖にして不可侵の婚姻というものを、こうした世間知みたいなものを働かせるばかりで、ほとんど算盤を弾いて取り結んだ——そうした我々の軽薄が、因果覿面に現れてしまったのかもしれない。結婚というものはそもそも、佐江が言うみたいに、心から憧れて、この人と一緒になりたい、みたいな感じに思い込んで、勢いあまって人まで引きずり込んですべきものだったのかもしれない。儀式張ったプロポーズをしたり、指輪を交換し合ったり、教会なり、神前なり、仏前なり、なんなら墓前なりで誓いを立てたり、見せ物みたいに高砂の席に並んでみたり、身の程にはやや贅沢な旅行をしてきたり、そういう付随的な雑事をこなしてみるべきだったのかもしれない。有り体な婚姻儀式の諸過程を、演劇的な茶番みたいに見做して忌避すべきではなかったのかもしれない。
既にご案内の通り、我々の婚姻生活はほどなく破綻するのである。主たる原因は私にあるとされても甘んじて受け入れる。
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