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人体という小宇宙|白石直人

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 人体は、我々にとって最も身近でありながら、同時にあまりにも複雑で未知の事柄ばかりの存在である。その複雑さと深遠さから、しばしば人体は「小宇宙(ミクロコスモス)」とも呼ばれる。今回は、そうした人体の不思議を解き明かしてくれる本を見ていこう。


◆人体を巡る旅

 人体の本でまず取り上げたいのはささやまゆういち・著『人体探求の歴史』(築地書館)である。本の構成は眼から始まって心臓、骨、じんぞう、消化管、肛門など体の各部位を見ていくというスタンダードなものだが、本書の特筆すべき点は、医学に全くとどまらないその凄まじい情報量である。例えば「耳」の章であれば、古代では耳は神聖な器官として尊ばれていたので仏像の耳は大きく作られている、古代エジプトでは生命は右の耳より入り左の耳から抜けるとされていた、電話の発明者ベルの背景には耳が不自由な母や婚約者の存在があった、英国海軍のセーラー服の襟がやたら大きいのは、一説には集音効果を高めるため、等々。なお、ここに挙げた内容はすべて、最初のわずか3ページの中から選んで取り上げたものであり、この3ページの中にはこれ以外にも様々な話が載っている。もちろんこうしたトリビアだけでなく、耳マウス(背中に人間の耳を備えたマウス)による再生医療、遊園地のコーヒーカップから降りても目が回るのは内耳のリンパ液が慣性で回り続けるから、といった人体の仕組みの話から、耳の穴は魚のエラに由来するという進化の話題まで、医学や生物学の話も盛沢山である。情報の濃さでこの本を上回るものはなかなかないであろう。

 図解形式で人体を学びたいのなら、とうよし・監修『図解 からだのしくみ大全―健康・病気予防に役立つ人体の構造とはたらき』(永岡書店)はなかなか読みやすい。随所に人体の各器官の図とイラストが描かれており、図鑑に近い。「健康と病気」というのは本書を貫いている視点で、「おなかをくだした」「喉が痛い」などの身近な体の不調を取り上げてその理由を解説してくれる。端々のイラストに入っている寒いギャグはご愛敬。

 以上の二冊が人体を部位別に見ていく本であったのに対し、ジェニファー・アッカーマン・著『からだの一日 あなたの24時間を医学・科学で輪切りにする』(かじはら訳/早川書房)は、目覚め、食事、運動、デート、就寝など、一日の中の出来事を切り口にして、そのとき自分の体の中で何が起きているのかを見ていく本である。例えば「目覚め」の章ならば次のような具合である。人間は体内にかなり高精度の小型時計を有しており、実験で起きる時刻を指定された被験者は、その時刻の少し前に起床のためのホルモンの濃度が上昇し出すという実験結果がある。その一方で快適に起きられるのかというとそうではなく、目覚めたばかりの人の認知能力は、車を運転したら捕まるような飲酒状態と大差ない。また、早起きの朝型人間、朝起きられない夜型人間などと言われるが、朝型・夜型は個性や慣習ではなく、各自の小型時計によって生物学的に決まっているものだということも明らかにされている。

◆進化はいかに私たちの体を作ったか

 私たちの体は進化の産物である。ダニエル・E・リーバーマン・著『人体600万年史——科学が明かす進化・健康・疾病(上・下)』(塩原通緒しおばらみちお訳/早川書房)は、いかなる進化の過程が私たちの身体の特徴を作ったのか、そして「進化のミスマッチ」がいかに現代の様々な病気を生んでいるのか、を解き明かすスリリングな一冊だ。

 ダーウィンは、人類を他の類人猿と異なる道に進ませる最初のきっかけを、大きな脳や道具の使用ではなく二足歩行に求めている。そしてリーバーマンによればこれは実に慧眼なのだという。極めて非効率な類人猿のナックルウォークに対し、二足歩行はエネルギー効率がよい。また二足歩行者は低位置の果実などをより素早く集められる。初期人類が二足歩行を始めた時期は地球が寒冷化して森が減少していく時期であり、効率的移動と素早い果実採集への適応は重要だった。ただしそのため、四足動物の最も速い走り方であるギャロップの能力も、類人猿の木登り能力も、ともに諦めることになった。

 しかし、人類はきようじんな身体をすべて諦めたのかというとそうではない。実は人類は極めて優秀な長距離走者なのである。強力な発汗能力と直射日光にさらされる面積を抑える直立姿勢は、炎天下でもそこそこのスピードでの長距離移動を可能にする。古代の人類は(そして一部の狩猟民族は今でも)、この特性を利用した「持久走猟」を行っていた。狩猟者は狙いを付けた大型動物をひたすら追いかける。短距離走では常に獲物に逃げられてしまうが、動物が全力疾走できる時間は長くない。逃げた獲物が休んで体温を下げきる前に追いつけば、獲物は再び全力疾走して逃げるしかない。これを繰り返すとじきに獲物の体温は致命的な水準まで上がり、獲物は熱射病で動けなくなる。こうなれば狩猟者は安全に獲物を狩ることができる。これを実現するのに必要なのは、ときに30キロにも及んで追走し続ける走力と、獲物の跡を確実に追う賢さ(と水分補給)である。

 人類の進化においてもう一つ重要なのは食事である。咀嚼と消化は多くの動物において時間とエネルギーが非常にかかる作業で、チンパンジーは起きている時間の半分を食べ物をむことに費やす。この問題に対し、人類は道具による食物の加工を始めた。初期人類の石器の大半は、狩猟用ではなく植物を食べやすいように加工するためのものだという。火による加熱はさらに食物を食べやすくする。こうした食物加工は、消化にかかるエネルギーを大幅に削減するものであり、そのために人類は他の哺乳類と比べ大幅に腸を短くすることが出来た。そして、これまで腸に使われていたエネルギーを転用して、人類の大きな脳が発達したのだろうと述べられている。

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