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「ソ連」という国があった|白石直人

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 冷戦時代のソ連は、アメリカと並び立つ超大国とみなされていた。ソ連崩壊後のロシアでも、ロシアの人々の意識の中においては「大国ソ連」のイメージは未だに無視しがたい影響力がある。ソ連が崩壊して30年以上経ち、ソ連はもはや過去となってしまった面もあるが、未だに長い影を落としている。
前回の記事でも予告した通り、今回はかつて存在した大国ソ連の歴史を、本を通じて眺めていこう。

◆ソ連が存在した時代

 ソ連の通史を書いた本は色々あるが、松戸清裕まつどきよひろ・著『ソ連史』(筑摩書房)はその中でもコンパクトで読みやすい一冊である。本書の特徴の一つとして、レーニン、スターリン、ゴルバチョフという強烈な個性を持つリーダーの時代ではない、その間の長いフルシチョフとブレジネフの時代の記述が手厚い点が挙げられる。1950年代〜80年代初頭の長い時期はソ連の本質を最も体現しているといってもよい期間であり、本書はその「ソ連的なソ連」の実像を見るのに役立つだろう。

 この時期のソ連において統制と計画経済のほころびは、あちこちで顕在化していた。企業へのノルマは安定しておらず、また材料や燃料も予定通り供給されない場合が少なくなかった。そのため各企業は、材料や燃料、それに労働力の過剰確保を行い、締切ギリギリに突貫で大量生産するのが常であった。「昼間から泥酔した労働者」というソ連のイメージは、普段はさして働く必要もない過剰な人数の労働者の姿として、実際に工場で頻出したものである。また農業の目標設定も杜撰ずさんであった。実態に見合わない食肉の増産目標を立てたフルシチョフに対し、リャザン州第一書記はこれに奮起して他地域からとにかく牧畜を買い集めてそれらを食肉にすることで目標の増産を達成してしまう。耕作用や繁殖用の牛馬まですべて食肉にするという、将来を一切考えない行動は、その地域の畜産業に壊滅的な打撃を与えるものであった。50〜60年代までは「共産主義は資本主義より優れている」と信じて奮起する労働者もいたが、70年代に入ってソ連の凋落ちょうらくが誰の目にも明らかになると、失望と幻滅、それによる停滞へとつながっていった。右記の泥酔した労働者は、そうした幻滅の帰結でもあった。

 ソ連の政治体制は共産党の一党独裁である。しかし本書では、その一党独裁の共産党にも人々の意見に耳を傾けようとする側面があったことが紹介されている。政策に関する手紙や投書はかなりの数に上り、新聞などで応答が行われることもあった。党の新綱領や新憲法制定の全人民討議には多くの人が参加し、自身の意見を訴えた。もちろん政権に不都合な意見は無視されたが、人々への不満に対応することで体制への信頼を獲得しようとする姿勢も見られた。選挙には党が認めた候補者しか立てなかったが、それでも候補者が住民の多数に不適切とみなされている場合には、候補者選出集会で強い抗議を受けて候補者の取り下げや交代を余儀なくされる事例も少なくなかったという。もちろん通常の民主主義には比ぶべくもないが、イメージとは異なる一面である。

◆ロシア革命〜ソヴィエト政権に至る道

池田嘉郎いけだよしろう・著『ロシア革命—破局の8か月』(岩波書店)は、ソヴィエト政権が成立する直前の、二月革命から十月革命の間の8か月の臨時政府の苦闘に焦点を当てた一冊である。ソ連の視点、あるいは進歩史観的な視点に立つと、臨時政府は共産主義革命に抵抗する障害としかみなされない。だが臨時政府は、自由と民主主義を実現させようと奮闘していたのであり、そしてこの8か月はそれが挫折させられた期間でもあった。「なぜ臨時政府は挫折し、ボリシェヴィキは勝利したのか」は本書を貫く問いである。

 結論だけかいつまんでしまうと、筆者は臨時政府の「柔和さ」をその挫折の要因にあげている。実現不可能な要求を繰り返す民衆や、その民衆を暴力に扇動するボリシェヴィキなどに対し、臨時政府は強権的な抑圧をすすんで行う道を選ばなかった。現在のわれわれからすると、それは権力行使に抑制的なあるべき政府の姿とも見えようが、このような臨時政府の対応では、崩壊する秩序を立て直すことはできず、また民衆も満足しなかった。ボリシェヴィキ政権は権力掌握後、政府に従わない民衆には躊躇ちゅうちょなく銃口を向け、都合の悪い政敵は逮捕したり暗殺したりした。憲法制定会議の選挙は十月革命後にやっと実施できたが、ボリシェヴィキが2割程しか得票できなかったという結果が出ると、ボリシェヴィキは会議初日に武力で会議を解散してしまった。民主的な選挙実施に尽力した、法学者にして臨時政府構成員のココシキンが、その翌日に虐殺されたのは印象的である。

 臨時政府は、立憲主義者、自由主義者から社会主義者まで幅広い立場の人々から構成されていた。多様な意見、多様な思想の存在を認めた多元的な体制であったが、いろいろな意見がある中ではなかなか統一的な決定を下すことができず、また内紛や仲違いも繰り返された。これと対峙したボリシェヴィキは、自らの信奉する思想のみが唯一の正義であると信じて疑わない人々であり、そのため自らの行動に反対する人々を抹殺することにも躊躇がなかった。わずかに生まれかけた自由と民主主義の芽は、ここで再びついえることとなってしまった。

◆ソ連の縮図、強制収容所

 ソ連の歴史を見る上では、強制収容所(※1)の話は避けては通れない。アン・アプルボーム・著『グラーグ――ソ連集中収容所の歴史』(川上洸かわかみたけし訳/白水社)は、その歴史を時間軸では第一号収容所からゴルバチョフによる閉鎖まで、扱う対象では逮捕から収容所内の生活実態などに至るまで、余すところなく描き出した労作である。アプルボームは、グラーグはソ連の縮図であると喝破する。実際本書を読み進めていくと、人間性を無視した考え方や書類上の目標達成に終始する硬直した体制など、その本質はソ連という国家そのものを反映していることが伝わってくる。

 ソ連においては、強制収容所は「階級の敵を罰し矯正する場」であると同時に「経済的な生産活動の場」と捉えられていた。そのため、国家プロジェクトを遂行するための労働者が不足したときには、多数の人々を逮捕して囚人として強制収容所送りにするという倒錯した方策がとられた。油田の開発を行いたいがために、地質学の研究者を逮捕して油田のそばの強制収容所に送り込んだこともあった。しかしこうした「労働力増加」はしばしば思い付きのように行われたため、ノルマのために逮捕された人は女性や子供といった労働力としては期待できない人ばかりであったり、送致先の強制収容所の受け入れ人数を大幅に超えた囚人が送り込まれてむしろ混乱したり、といったこともしばしばであった。

 囚人の扱いはときに非人道性を極めた。収容所移送の車両は囚人ですし詰めとなり、水も食料もほとんど与えられなかった。真冬でも車両には暖房がない場合もあり、飢えと寒さと不衛生な環境で蔓延する病気とで、囚人たちは収容所につく前の時点でバタバタ死んでいった。極北の収容所で森林伐採の強制労働をさせられる囚人であっても、防寒の長靴を与えられた者は半分もいなかった。靴のない者は古タイヤや樹皮などで手製の靴を作らざるを得なかったが、そうした靴は防水性がなく、足は凍傷になった。強制労働は早朝から夜にまで及び、炭鉱などの危険な現場でも安全は全く配慮されなかった。重労働を避けるために、わざと自分の指をおので切り落とす囚人もいた。ある医師は、タンパク不足で衰弱する囚人に高タンパクの食事を与え、囚人たちの体調を回復させることに成功していたが、指導部から「働いていない囚人にそんなものを与えるのは無駄だ」と言われた。乏しい食事に戻された結果、250人近い衰弱した囚人は全員死亡した。悪辣な警備兵も少なくなかった。警備兵がただ力をひけらかすために囚人を凍えさせて楽しむこともあったし、脱走兵を射殺した警備兵は褒賞をもらえたので、囚人に柵の外に行くように命じて、その命令に従って柵を出た囚人を撃ち殺すこともあった。

 囚人たちは生き残りに必死だった。ノルマは大体達成不可能だったので、いかにして働かずに数字だけ誤魔化すかを皆で考えた。仕事の手抜きは通常であり、真面目に働く囚人はむしろ仲間外れにされた。個人レベルでは、音楽などの特殊技能を持つ囚人は看守たちに認められるチャンスがあった。回想記を残した多くの政治囚は、自分が生き残れたのは「語り」の才能があったからだという。小説や映画の筋を物語って他の囚人らを楽しませられるものは、囚人たちから一目置かれ、収容所内で悪くない暮らしを獲得できたのである。看守たちにうまく取り入れた者は、運が良ければ囚人から看守に昇格してしまうことさえあった。逆に看守から囚人へと転落する者も少なからずいた。強制収容所は、ソ連という体制の持つ理不尽さを濃縮した場であった。

※1 アプルボーム『グラーグ』では、その位置づけに対する理解に基づき「集中収容所」という直訳が用いられているが、ここでは定訳に従って「強制収容所」と書く。

◆そしてソ連は崩壊した

 ゴルバチョフのペレストロイカからソ連崩壊までは、あまりにも急激に進んだ。ソ連崩壊を当時のソ連の人々はどう見ていたのか。デイヴィッド・レムニック・著『レーニンの墓――ソ連帝国最期の日々(上下)』三浦元博みうらもとひろ訳/白水社)は、トップ政治家から一般市民までの膨大なインタビューにより、人々がソ連崩壊前夜をどう眺めていたのかを見せてくれる。ペレストロイカ期の話だけでなく、それよりだいぶ昔のスターリンやフルシチョフの時代の回想も多い。話が時間軸を飛び回るので、最低限のソ連史やソ連崩壊前後の出来事は読む際に押さえておく必要があるが、人々の生の声を垣間見れる貴重な一冊である。

 インタビューの対象は、スターリンに粛清されたブハーリンの妻や、帝政ロシア時代のユダヤ人攻撃からスターリンによる迫害(医師団陰謀事件)までを辛くも生き延びたユダヤ人ラポポルトなど、まさに歴史の証人と言える人から、ゴルバチョフの幼少期の恋人といったゴシップ的な相手、そして非常に多くの無名の市民にまで及ぶ。印象的なのは、スターリン批判を行うゴルバチョフ書記長をあらんかぎりでこき下ろし、積極的にスターリンの擁護を行う、少なくない普通の市民の存在である。自分の父親が強制収容所送りにされているにもかかわらず、スターリンへの敬愛を隠そうともしない市井の人々の存在からは、いかに「戦争で国を勝利に導いた偉大な人物」という話が心に響き、大粛清、大虐殺という側面を覆い隠してしまうのかを感じずにはいられない。

 ゴルバチョフは西側では非常に高い評価を受けていたが、ソ連内部での実情を見ていくと、必ずしも礼賛だけでは終わらせられない側面が見えてくる。右記のような保守的な人々は、当然ゴルバチョフを蛇蝎だかつのごとく嫌っていた。だが一方、リベラルな民主派の人々から見ると、ゴルバチョフは当初の期待に反してあまり民主化を進めようとしておらず、むしろ反動的な方向に戻ってしまいそうな人物として失望のまなざしで見られていた。昔からの良心的反体制派のサハロフを、ゴルバチョフはしばしば傲慢な態度で妨害した。またソ連の一体性を何よりも信じているゴルバチョフは、独立を訴えるバルト三国の人々を軽蔑の目で見て、独立運動への力による抑圧を黙認した。ヤコブレフやシュワルナゼなどのリベラルな側近たちは、保守強硬派の顔色を気にしすぎるゴルバチョフの下を離れていった。

 冷戦終結直後の90年頃の揺り戻しの波の強さを象徴するのは、メン主教が斧で暗殺された事件であろう。体制批判の精神的支柱として長く活動してきたメンは、いつも脅迫状を受け取り、繰り返し政権から狙われていた。しかしこれほどの攻撃に屈しなかったメンでありながら、この暗殺の直前に特に「身の危険を感じる」と語っていたという。メン暗殺の容疑者はついに逮捕されなかったが、市民はKGBか極右組織の犯行を強く疑った。

 ソ連は最終的に、政権中枢の保守強硬派の杜撰なクーデターが失敗して幕を閉じる。既得権益にしがみつくだけの支離滅裂な反乱が失敗に終わったこと自体は当然ともいえる。だが、軍事政権が反クーデター派筆頭のエリツィンの声明の印刷差し止めを命じた際に、新聞の印刷所の労働者らが徹底した抵抗を行い、ついに印刷を認めさせたというエピソードには、時代の変化が明確に表れている。

 本書は新生ロシアのエリツィン政権誕生でひとまず終わりとなる。だが結局、政府機関の大半にはソ連時代の人間がそのまま残った。そして現在のロシアの状況を知る我々からすれば、著者自身も2010年の新しい序文に書いているように、ソ連が抱える多くの問題は未だに残り続けているのである。


白石直人(しらいし・なおと)
物理学者。1989年東京都生まれ。2012年、東京大学理学部物理学科卒業。17年に東京大学大学院にて博士号取得。現在は東京大学大学院総合文化研究科准教授。17年に東京大学一高記念賞、18年に日本物理学会若手奨励賞(領域11)を受賞。専門は統計力学、特に非平衡系の研究。

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