見出し画像

ブックガイドーー秀吉から家康へ|白石直人

前へ / 最初へ戻る / TOPページへ戻る / 次へ

 徳川家康を主人公とする大河ドラマ「どうする家康」が、来年の1月8日から始まる。当の家康の生涯についてはドラマに譲るとして、この記事では、豊臣秀吉の時代から幕藩体制確立期まで、家康の背景を理解するのに役立つ本を紹介しよう。

◆刀狩りの実相

 秀吉の刀狩りによって農民は武器を取り上げられて丸腰になった、というのは刀狩りの通俗的なイメージであろう。しかしそうした刀狩りのイメージを大きく覆してくれるのが藤木久志ふじきひさし・著『刀狩り──武器を封印した民衆』(岩波書店)である。

 史料には、刀狩り以降にも武士以外の人々が武器を保有していたことが様々な形で記録されている。一番顕著なのは百姓一揆のときで、農民が鉄砲や刀などの自前の武器を多数保持していたことが分かっている。驚きなのは、江戸時代最大級の一揆であった島原の乱鎮圧後、島原の農民からの武器返還の要望に領主が素直に応じていることである。農民の武器保有はごく普通のこととみなされていたことがこうした事例からは見て取れる。町人の扱いはさらにおおらかで、口論になって脇指を抜いたといった刃傷沙汰の記録が多数残っている。裁きにおいても、町人が脇指を保有していることは全く問題とされていない。

 では刀狩りとは何であったのか。筆者は、腰に刀を差して公然と帯刀してよいものを武士に限定するという身分統制が、刀狩りの主たる機能だったと指摘する。中世までは、農民が腰に刀を帯びることはごく普通のことであるどころか、脇指を取られることが著しくその人の名誉を傷つけることになるような、そうした重要な位置づけにあった。これに対し秀吉の刀狩りでは、帯刀できるものは武士に限られ、農民の帯刀は原則禁止、免許で認められたものしか帯刀できなくなった。これまで曖昧だった武士と農民の身分を明確化し、両者の間に線を引くことが目的だったのである。

 身分を統制し公の場での帯刀を禁ずることは、村の農民たちを武装解除することとは大きく異なる。農民たちが武器を保有していることは、秀吉の世でも家康の世になっても、相変わらず自明の前提であった。秀吉の喧嘩停止令けんかちようじれいも、農民たちが武器を持っていることは前提として、武器使用を自主的に抑制するように求めるものであった。そもそも肝心の武士以外の帯刀の禁止でさえも、数多くの例外やなし崩しの運用などで秀吉の時代には徹底されず、農民の帯刀禁止原則の定着さえ百年ほどの時間を要している。

 ちなみに明治の廃刀令についても、筆者は刀狩りと同様の構図を見ている。すなわち、廃刀令で禁止されたのはあくまでも軍・警・官以外の公然の帯刀であり、一般市民の刀の保持は禁止されていなかった。そして廃刀令の目的も、軍・警・官と一般市民の身分の区分を明らかにすることだったと指摘されている。

◆キリシタンとの交錯

 フランシスコ・ザビエル渡日とキリスト教伝来は、日本史の教科書で誰もが学んだであろう。しかしそれは、さまざまな平穏ならざる側面を有し、秀吉や家康の対外政策にも強い影響を及ぼすものであった高瀬弘一郎たかせこういちろう・著『キリシタンの世紀──ザビエル渡日から「鎖国」まで』(岩波書店)は、大学で行った講義をもとに書かれているためなかなか硬めの本だが、このような緊張したキリシタンとの関係を描き出している。

 この時代は、スペインやポルトガルは世界各地に植民地を拡張する只中であり、実際フィリピンはスペインの植民地にされた。日本もまたポルトガルの植民地になる予定であり、宣教師たちも植民地支配を前提として自身の経済基盤を考えていた。しかし結果的には日本は植民地化されず、そのため植民地での収益を当てにしていた宣教師たちは経済的に苦しい状況に置かれ、仕方なく貿易などに手を染めたりした。スペイン系の宣教師には、スペイン国王の積極的な武力行使を訴えるものも少なくなかった。キリシタン大名への積極的支援も、こうした流れの延長線上に理解できる。

 ヨーロッパ人宣教師たちから見た日本人の位置づけにはかなりの振幅がある。ザビエルは日本文化や日本人の知的水準を高く評価し、日本人を「白人」とさえ呼んだ。しかし同じイエズス会の中でも、日本人信徒は雑用の補佐役で十分であり、日本人を教会の高位職へ取り立てることに反対するものも少なくなかった。特に17世紀に入ると、日本人信徒への否定的な姿勢はますます強まっていった。また建前上は禁止されていたものの、イエズス会は日本人を奴隷として海外に売り飛ばすことにも関わっていた。

 日本の慣習にどう相対するかにも、宣教師の中ではかなり振幅がある。例えば離婚はキリスト教では禁止されているが、離婚歴のある日本人は少なくなかった。離婚歴のある人の改宗に直面した宣教師たちは、洗礼前の離婚は不問に付すというかなり融通を利かせた解釈で乗り切った。側室の存在もキリスト教の結婚観とは相いれないが、これにも目をつぶることにした。このような柔軟な対応の一方で、仏教は殲滅されるべき敵であるとして、徹底した寺社の破壊を行う事例も多々あり、緊張は否応なく高まった。

 このようなさまざまな対立と摩擦は、最終的には秀吉の伴天連追放令や江戸幕府の禁教政策へとつながっていく。著者はこうした禁教政策を、イングランドにおける英国国教会の擁護とカトリック抑圧の動きと並列に眺める。イングランドは、エリザベス1世の王位追放を狙うカトリック勢力との戦争にまで陥り、これに勝利することで自身の国家体制を維持した。日本の場合は直接の戦争にはならなかったが、結果的にはカトリック勢力は長らく退けられることとなるのである。

◆天下分け目の関ヶ原

 天下分け目の関ヶ原の戦いは、単に家康側が勝利したという意味だけでなく、その後の幕藩体制にも長い影響を及ぼした。そのように論じるのが笠谷和比古かさやかずひこ・著『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(講談社)である。笠谷氏が特に強調するのは徳川秀忠の遅参である。秀忠は徳川の主力部隊3万超を率いて中山道を進んだが、途中で真田父子の策に翻弄されて足止めされ、ついに関ヶ原の戦いに間に合わなかった。これは秀忠が面目を失ったエピソードとしてよく知られるが、本書ではそれよりも遥かに大きく長い影響が論じられる。

 戦いにおいては、単なる兵の人数の多少でなく、それがどれだけよく組織されているかが重要である。1万石以上の武将は自前で攻撃部隊を作ることができ、この人数がもっぱら攻撃能力を決める。後に譜代大名となるような徳川方の1万石以上の武将は、ほとんどが秀忠に付き添っていた。家康も3万ほどの兵を連れていたが、これは旗本の寄せ集めであり、攻撃には使えない兵であった。そのため家康は、福島正則ふくしままさのり池田輝政いけだてるまさなどの豊臣方古参に大いに頼らざるを得なかった。また家康は自前の攻撃部隊を確保できなかったため、鉄砲で催促するという危険な手段を用いてまで、小早川秀秋こばやかわひであきの裏切りを督促せざるを得なかった。

 これがもたらしたのが、多数の豊臣系外様大大名の存在である。関ヶ原の勝利はもっぱら豊臣系武将の力で獲得できたものである以上、その恩賞の多くは豊臣系武将に与えられた。一方、徳川系武将の大半は遅参したため大きな恩賞には与れず、これは譜代大名が少ない石高しか持たないという状況を導いた。

 笠谷氏がもう一点強調するのは、関ヶ原の戦いによって豊臣家は一大名に転落したわけではない、という点である。関ヶ原の戦いでは家康に味方した豊臣系武将においても、秀頼ひでよりは将来関白となる主君と認識されていた。そのため家康は、関白の地位と対立しない地位として、武家の棟梁たる征夷大将軍に就き、江戸幕府を開いた。このようにして、建前上は家康への臣従と豊臣家への臣従とが矛盾しない形を取ることで、豊臣系武将からの忠誠を引き出しつつ、実質的な権力を固めていったと論じられている。

◆江戸幕府体制の成立

 家康、秀忠、家光の三代を経て、どのように江戸幕府の体制が確立していったかを知るには、辻達也つじたつや・著『日本の歴史13 江戸開府』(中央公論新社)は読みやすくまとまった本である。単行本初版は1974年と古いが、今読んでも内容はそこまで古くはなく、また詳細な部分の最新の研究動向については文庫版の巻末解説でキャッチアップされている。

 本書は家康の幼少期から描き出しており、江戸幕府成立以前も含めた家康の歴史を知る本としても読むことができる。家康が東海から関東に転封させられたことについて、本書では、不利な提案を渋々受け入れたのではなく、むしろ家康にとって好都合だったとしている。東海の地に居続けたならば旧来の作法や取り決めに縛られやすかったのに対し、新しい関東の地に移ったことによりゼロから新しい構想で統治体制を作り上げることができたからである。上からの命令で大名の配置換えを容易に行える幕藩体制は、在地性の乏しいゼロからの体制構築だったがゆえに実現したともいえる。

 幕府の城郭工事や参勤交代を大名に命じることについて、大名の資金力をそいで抵抗させないためと説明する本もあるが、本書はそうした見方に否定的である。幕府と諸大名は、鎌倉時代でいうところの御恩と奉公の関係で結ばれており、所領安堵を幕府が認める代わりに諸大名は軍役を務める必要があった。幕府の防備を固める城郭工事も、将軍のお膝元に兵を率いて待機する参勤交代も、ともに幕府を守るための軍役の一環であり、幕府への奉公なのである。

 鎖国については、さすがに近年の研究の進展には追い付かないものの、本質は幕府による貿易の独占と海禁の側面であることは本書でも指摘されている。また、オランダ以外の欧州各国について、日本側が追放したというよりも、貿易の利益があがらなくなったり、オランダとの軍事面を含む競争に負けたりして、日本の意向と無関係に日本に交易をしに来なくなっていたとされている。

 二代秀忠の頃には、幕府の規則を(たとえ不合理な規定でも)厳格に適用し、家の取り潰しなども容赦なく行ったのに対し、三代家光以降は比較的柔軟な対応が増えていった。これは個性の問題もあるが、秀忠の時期はまだ幕府の体制も未確立であり動揺を許すわけにはいかなかったのに対し、家光の頃には支配体制も固まり、もはや規則を曲げたりしても幕府の権威が下がったり秩序が失われたりする心配はなくなっていたという面も大きい。そして統治体制確立とともに、個人に依存する状況から組織で動く状況になり、将軍の個性よりも老中などの側近の方が政治においては重要になっていくのである。

前へ / 最初へ戻る / TOPページへ戻る / 次へ

ここから先は

0字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!