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ピアニスト・藤田真央エッセイ #30〈ジョルジュ・サンドの街でショパンを弾く〉

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 次の日はトゥールから更に車で2時間、どこまでも広がる畑や、草原のなか牛が尻尾をぶらぶらさせている景色を眺めながら、ノアンへ向かった。ノアンといえばショパンの恋人ジョルジュ・サンドの家が有名だが、今日はその屋敷のそばで行われるショパンフェスティバルで、昨晩と同じショパン・プログラムを披露するのだ。ポロネーズ第5番、ポロネーズ第6番〈英雄〉、そして幻想ポロネーズはまさにこの地で書かれたものである。作品が生まれた場所で、その作品を演奏する――なんと得難い体験だろうか。

 道中、地元のドライバーのお爺さんが、一見に値するからと、ある場所に寄ってくれた。12世紀に建てられた小さな教会だった。観光客など一人もおらず、扉が私の背後でパタンと閉まると、ひっそりとした無人駅に降りたったような寂しさを感じた。教会内の壁にはフレスコ画が描かれており、手を伸ばせば触れられそうな距離にある。その絵に描かれた人物は皆、まんまるな目に、ピカチュウを思わせる赤い頬をしている。コミカルともいえる可愛らしい人物たちが、生き生きと聖書の物語を伝えている様は、日本の漫画のようでもある。

サン・マルタン教会 (Eglise Saint-Martin)

 現代においては、観光というものは教科書やネットで写真を見たことがあるものを改めて自らの五感で体験しに行くようなところがある。しかしこの教会には初めて見るタッチのフレスコ画と、他のどこでも見たことのない、暖色を基調とした柔らかな印象のステンドグラスがあった。建物はすっかり老朽化して古びており、壁画はどうしようもなく剥がれ、物語の全貌もわからない。でもそこに、私は戦慄した。呆然とした様子の私を見て微笑むドライバーさんに丁寧にお礼を伝え、教会をあとにした。

 いよいよジョルジュ・サンドの家へ向かう。周囲には目立つ建物や商店はなく、訪問者は、ふいに現れる大きな屋敷に驚くことになる。これはジョルジュ・サンドが生きていた時代から変わらないそうだ。
 サンドの屋敷の隣に建てられた仮設コンサートホールでこの日はリサイタルが行われる。青いライトがステージを照らし、その真ん中にはベヒシュタインのピアノが立っていた。ステージの下手側にはジョルジュ・サンドとショパンの二人の肖像画が飾られており、彼らも聴衆の一人として参加しているようだ。コンサートでベヒシュタインのピアノを弾くことは少ないのだが、このピアノからは温かく包みこむような音がする。日本の柔らかい食パンのようだ。刺々しい音よりもこうした柔らかい音を好む私とは相性が良さそうだと感じた。

 公演は16時に始まった。一音目を押さえた瞬間、リハーサルで掴んだ音の飛び方と全く異なっていることに気付く。この日は気温30℃近く、おまけに前の日はスコールが降っていた。湿気が高い中、満員のお客さんがぎゅうぎゅうにプレハブ小屋の仮設コンサートホールに入っているため、音が遠くまで飛ばないのだ。ベヒシュタインの音色の特性もそれに拍車をかけていた。私は注意深く、急がないように気を付けながら、その時の自分にできる最大限の演奏をした。前日に弾いた際は幾分焦りながら音を辿っていたが、この日はいくらかテンポを落として慎重に弾いたおかげで、プログラムの全体像が捉えられるようになっていた。これは思わぬ収穫だった。夕方の公演のためお腹が空くこともなく、最後まで集中が途切れることもなかった。

 終演後、すでに閉館していたジョルジュ・サンド邸に特別に入れていただいた。彼女が当時最先端のデザインの家具を好んで取り寄せたり、様々な分野の友人を家に招いて頻繁に社交パーティーを行っていたことを知った。

 驚いたのは19世紀中頃にして、彼女がすでに浴槽にお湯が張れる設備を持っていたことだった。その浴室は一般には公開していないそうだが、今回特別に拝見できた。浴室の天井には豪華な花の絵が描かれていて、その圧倒的な美しさに私は思わず息を呑んだ。他にもサンドが所有していたプレイエルを特別に弾かせてもらったり、彼女の息子がコレクションしていた様々な化石などを見せてもらった。

 この屋敷の至る所から、彼女の人間味溢れる遊び心がうかがえた。
 邸宅は丁重に保存されていたおかげで、細部まで彼女の生きた証が感じられ、ショパンの作品を取り上げる身としてはなんとも幸運だった。

 フランスでのリサイタルが終わり、ベルリンに帰ってきたのも束の間、すぐにベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団とのリハーサルが行われた。今回演奏するのは《モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番KV467》。指揮は22年2月以来、久方ぶりのクリストフ・エッシェンバッハだ。
 今回のスケジュールも変則的で、リハーサルは公演の4日前、GPは公演の2日前に行われた。ちなみにベルリン・コンツェルトハウスは私が通っているハンスアイスラー音楽大学の真向かいに位置している。通学時と同じ駅で降りて学校のある方へと歩き、コンツェルトハウスの楽屋口に入っていくのは、妙な高揚感を伴った。
 エッシェンバッハは現代において非常に偉大な指揮者であり、また同時にピアニストでもある。私は2017年にクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールで優勝したが、エッシェンバッハはその半世紀以上前の1965年に同じく優勝を果たしている。ほとんどのコンクールではファイナル出場者に第1位、第2位、第3位と順位が付与されるが、クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールではプライスウィナーはただ1人しか生まれない。このコンクールで受賞するという同じ星回りのもとに生まれたエッシェンバッハに、私はかねてより特別な親近感を覚えていた。
 もちろん彼は御歳83歳、大ベテランの偉大な芸術家だ。彼が私に語ってくれた、レジェンドならではの数々のエピソードは忘れられない。ジョージ・セルやカラヤンといった歴史的マエストロと共演したときの話、はたまたクララ・ハスキルコンクールの豪華でクセの強い審査員陣からかけられた言葉――彼が発する言葉の一つ一つに、私が量り知ることができないような人生の歴史の重みをひしひしと感じた。ジョージ・セルもカラヤンも、私が生まれた時には既に天に召されていたが、実際に交流のあったエッシェンバッハが事細かに語ってくれた秘話のおかげで、遠い歴史上の人物だと思っていたマエストロ達が非常に近しく感じられた。彼らの生きていた時間が、今自分の生きている世界と確かに地続きになっていることをエッシェンバッハは教えてくれたように思う。
 エッシェンバッハとは22年に、テルアビブにあるイスラエル・フィルの本拠地「チャールズ・ブロンフマン・オーディトリウム」と、イスラエル北部の街ハイファで連日、計7回の公演を行った。曲は今回と同じく《モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番KV467》だ。
 やはり連日の公演となると徐々に曲全体の新鮮さが失われていたが、私は毎日異なる即興を入れることで、オーケストラ全体の集中力を持続させることに成功した。今日は私がどのように弾くのかと皆が期待し、エッシェンバッハもそのムードを楽しんでいた覚えがある。
 いざ、コンツェルトハウス管とのリハーサルが始まると、彼は「そうだ、こんな音だった」とばかりに私の音楽を把握し直し、あっという間にオーケストラの音色を私仕様にチューニングした。彼の指揮は無駄な動きを全て排除した、非常にコンパクトなものだ。ソリストに寄り添いながら的確にオーケストラ団員に指示を出し、非常に和やかな雰囲気をつくってくれた。さすがのコンツェルトハウス管、音楽監督のエッシェンバッハとは阿吽の呼吸である。指揮者、オーケストラ、ピアニストの三本の糸があっという間に一つに収束するような気持ちの良いリハーサルだった。

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