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ピアニスト・藤田真央エッセイ #29〈フランスの修道院の響き――ショパン・ポロネーズ全曲プログラム〉

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 6月に入るとようやくベルリンの気温も上昇し、練習をしていると汗ばむ気候になった。マレク・ヤノフスキとの素晴らしいコンサートを終えて、私は次の公演に向けて練習に励んでいた。6月9日にフランスのトゥールで行われる、久しぶりのリサイタルだ。
 ここ最近協奏曲の公演が続いていたため、1人で2時間のプログラムに向き合う厳しさを忘れかけていた。協奏曲の場合は、曲の最初の一音から集中し、オーケストラと自分の音のバランスを常に考え、その都度最適な音を見抜かなくてはならないところに難しさがある。一方、全ての音が自分の監督下にあるリサイタルは、まるきりやり方が異なる。不甲斐ない音を出してしまえば、その責任は全て私にある。ステージ上にただ一人で立ち、それぞれの作曲家ごと、曲ごとの特性を引き出していかねばならない。

 6月8日。シャルル・ド・ゴール空港へ降り立った私は、トゥール行きのTGVに乗車するため、パリ・モンパルナス駅へ向かった。TGVが来るまでに夕食を摂ろうと、モンパルナス駅から少し歩いたところにあるカフェ〈ラ・ロトンド〉を訪れた。

〈ラ・ロトンド〉は1903年に開店し、ジャン・コクトーやパブロ・ピカソ、藤田嗣治ふじたつぐはるら時代の寵児たる芸術家たちがこぞって訪れ、芸術談義が行われた場所だ。この時代のパリでは、作家や画家、そして音楽家が日常的に語り合い、互いに影響を与え合った。例えば《パラード》というバレエでは、エリック・サティが作曲を、コクトーが脚本を、そしてピカソが衣装・美術を担ったように、それぞれが才能を持ち寄り、刺激的なやりとりの発露として芸術の潮流を作り上げた。
〈ラ・ロトンド〉内には彼らの作品が飾られており、赤を基調とした重厚な内装も相まって、1900年代にタイムスリップしたかのような印象を受ける。ただ、コースを頼むと財布に優しくないため、私はシーザーサラダとオニオンスープだけを頼んだ。かつて画家たちは勘定の代わりにスケッチを置いて帰ったというが、生憎店には私の鉛筆と紙であるところのピアノが置いていなかったのだから仕方がない。

 翌日の午前中、公演前に街の小さなテレビ局でインタビューを受けた。局内には小さな電子キーボードが用意されていて、テレビ局のスタッフには「こんな代物しか用意できなくて申し訳ない。ちょっとメロディーを弾いてくれればいいですから」と言われた。だが、たとえ電子キーボードだとしてもピアノの形をしているものを前にすると、ついピアニストの性が出てしまう。喜んでもらおうといろんな曲を弾いてしまい、20分ほどのインタビューのはずが、2時間近く滞在してしまった。

 その後、緑豊かな道を車で移動し、私は大きな石造の建物の前で降ろされた。今夜のステージ、音楽祭「Festival de La Grange de Meslay」のオープニング・コンサートの会場である。
「Festival de La Grange de Meslay」は1964年に往年の大ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルが始め、今年で59回目を迎えるという老舗の音楽祭だ。会場は1220年に建造された修道院の中にある、1000人をゆうに超えるキャパシティの立派なホールだ。木造建築のため、雨や落雷の日の公演だと音がかき消されることもあるというが、幸いこの日は小雨だったため、それほど影響はなかった。もっとも、二匹のコウモリが客席を旋回してはいたが。

 この日演奏するのは《ショパン:ポロネーズ Op.26、40、44、53、61》と《リスト:ソナタ ロ短調》。23-24年シーズンの私のメイン・プログラムで、23年10月の日本でのリサイタルツアーでも取り上げる予定のものだ。
 このプログラムを初披露するとあってどこか落ち着かず、リハーサル中もずっとそわそわしていた。初めて人前で弾く曲があるときはいつもこうなのだ。今でこそメジャーな協奏曲のレパートリーも増えてきたが、デビューしたての頃は、ほぼ全ての協奏曲が初めてだったため、毎度ものすごい緊張と戦わなければならなかった。加えて、初めて共演するオーケストラ、指揮者がほとんどだったため、どのような流れでリハーサルが進むのか、自分の意見を主張していいのかどうかすら分からず、母親といつもひっそりと楽屋の隅に佇んでいたのが懐かしい。

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