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【全文無料公開】イナダシュンスケ|旅館の朝食講座 lesson1
第34回
旅館の朝食講座 lesson1
私の名前はジョン・タベルスキー。英会話教師として米国より日本に移り住んでから、早20年が経とうとしています。その間、我が国からの旅行者は概ね増え続け、日本を心から愛する私としても嬉しい限りです。
日本旅行の目的は、今やフジヤマでもゲイシャでもニンジャでもありません。ジンジャブッカクでもありません。誰もがおいしい食べ物を求めて日本にやってきます。ラーメンとスシはその代表格と言っても良いでしょう。ヤキトリやテンプラ、WAGYUも人気です。日本の食事マナーには独特なものもありますが、これらは比較的食べ方もシンプル。最近は我が同胞たちもすっかり箸に慣れ、日本食を器用に食べているようです。私としてもたいへん誇らしく、また嬉しく思っています。
そんな中で見過ごされがちな、最も和食らしい和食があります。それが「旅館の朝食」です。私が最も愛する和食と言っても過言ではありません。旅慣れた方はお分かりでしょうが、どこの国に行っても、一日の中で朝食が最もその国の食文化の特徴をオーセンティックに、そして純粋に映し出すものです。もちろん日本も例外ではありません。ただし一般家庭では既に、日本の伝統的な朝食のスタイルは半ば失われつつあります。それがあたかも民俗博物館のように保存されているのが旅館の朝食です。
旅館の朝食の構成はたいへん複雑です。実際にそれを目の当たりにして、一体何をどう食べたらいいのか途方に暮れた人も多いのではないでしょうか。スシやラーメンのようなわけにはいきません。もちろん食べ方は自由です。何人たりとも、食べ方の自由を制限される謂れはありません。しかし、それを最もおいしく食べ、最大限に楽しむためのコツのようなものは明確に存在します。今回は自他共に認める日本通である私が、同胞諸氏のために、そのコツを伝授していきたいと思います。
旅館の朝食を前にして、まず手前にあるのは、パレットのように3つに区切られた横長の皿でしょうか。そこにはごく少量ずつの「珍味」すなわちファンシーフードと呼ばれるものが盛られています。ごく小さなボウルに別個に盛られている場合もあります。欧米からの来訪者であれば、これはアミューズ・ブーシュ、すなわち一口前菜の如きものと認識するかもしれません。しかしそれをいきなり一口で食べると、待っているのは悲劇です。珍味というものは基本的に極めて塩気が強く、多くの場合はそれに負けないくらい甘みも強いものです。とても単独で食べられるようなものではありません。
ここでまず、旅館の朝食の基本的な構造について説明しておかねばなりますまい。それを一言で表現するならば「ライスを巡る小宇宙」です。ライスは太陽であり、トレイに所狭しと並ぶ料理の数々は惑星なのです。そしてその全ての惑星は、ライスのために存在していると言っても過言ではありません。これを日本語ではオカズと言います。我々には無い文化ですし、ラーメンもスシもこの文化の枠外です。味の濃いオカズを無味のライスと調和させて食べるのが和食の基本。これはインドのカレーや東南アジアのワンプレート・ミールとも少し似ていますが、決定的な違いは、調和において意図的に時間差を設けるところにあります。すなわちカレーのようにオカズをライスに混ぜ込むことなく、両者を別個に口に運び、あくまで口の中でそれらを融合させます。これを口中調味と言います。
この高度な技術の習得に関しては、こうやってテキストのみで説明するのは困難です。私の英会話学院では、インバウンド向け特別ワンデイレッスンとして、実技講習を含む2時間の口中調味クラスを設けております。22000円で参加できますので、せいぜいご利用ください。
このクラスを未履修の方は、とりあえずオカズを少しずつライスの上に移動させ、その部分のライスを切り取るように、すなわちライスボウルの中で都度ミニ・スシを完成させるイメージで食べ進めてみてください。これは「珍味」のみならず、全てのオカズにおいて有効なテクニックです。しかし、和食の真髄を極めるなら、やはり時間差のある口中調味です。ぜひ、クラスの受講をお勧めします。
トレイの上で否が応でも目につくのは、左上にある鋳鉄鍋のホットポットです。配膳と共に仲居さんがその下に仕込まれた固形燃料に火を点けてくれます。八角形の木蓋に隠されたその中身が気になることでしょう。
よく見るとそのホットポット用機材は、昨晩のディナーのカイセキで使われていたものと同じです。その時の中身は、ポークを中心に白菜や椎茸マッシュルームなどがぎっしりと入った、澄んだシチューあたりだったでしょうか。それは、魚と野菜ばかりの脂っ気の無い料理の連続に攻め立てられた昨晩のカイセキにおいて、心をひととき満たしてくれる尊い一品であったかもしれません。
しかし朝食においては、そのような期待は禁物です。なぜならばその中身は単なる「味噌汁」だからです。ちなみに日本人も普段はこのようなスタイルで味噌汁を楽しむことはありません。これはあくまで旅館ならではのスタイルです。夜のカイセキ用の機材を有効に活用しつつ、食材コストは最小に抑え、それでいて何でも火傷しそうな熱々を愛する日本人の気持ちに寄り添い、なおかつささやかな非日常を演出する、これぞWin-Winのホスピタリティ。旅館に限らず、日本の飲食物提供者は、この種の知恵にたいへん長けているものです。それが昨今の日本の「美食の国」というイメージに大きく貢献しているのは間違いのないところでしょう。
さて、この固形燃料で熱々をキープする味噌汁の存在は、旅館の朝食における隠れた重要ファクターである「朝ビー」との関連性においても、実は大きな意味を持っています。朝ビー、すなわち朝っぱらからビールを飲むという行為は、旅館の朝食愛好家にとって至福の喜びと言ってもいいでしょう。ビールをゆっくりと楽しんだ後でもその味噌汁は、既に固形燃料は燃え尽きていたとしても、まだ温かさを保っているもの。これは実に有難いことです。
先ほど「珍味」について、それはライスがあって初めて意味を為すものと解説しましたが、そこにビールがあればまた話は別です。珍味に限らず、トレイの上の全てのオカズは、ビールの「ツマミ」として立ち上がってくるのです。
ツマミは「アテ」とも言われます。いずれにせよ、語学の専門家たる私にとっても翻訳不可能な言葉です。もちろん、欧米においても食事とワインは不可分であり、料理と酒の関係性は、「マリアージュ」「ペアリング」といった幾分スノビッシュな言葉で言い表せます。しかし日本におけるツマミ、アテ、といった概念は、もっと直截的でシンプルなものです。
日本を代表する酒造メーカーのひとつである菊正宗酒造のCMコピーに、こんなものがあります。
「旨いものをみると辛口のキクマサが欲しくなり、キクマサを飲むと、旨いものが食べたくなる」
これこそが、ツマミ、あるいはアテという概念を、見事に言語化したものだと思います。
ところでこの菊正宗という酒は、ビールではなく日本酒です。旅館の朝食は、純粋にペアリングという意味では、ビールより日本酒によりマッチするとも言えます。しかしそもそも朝食会場で酒を飲むという行為は、若干の掟破りでもあり、周囲の他人を少しばかりざわつかせます。私が来日した頃はそこには微かな羨望の眼差しもあったような気もしますが、昨今は日本でも飲酒に対する視線はかつてより厳しいものになっており、それなりに気を遣う必要もあります。その状況で、ビールならまだしも、日本酒はさすがに「やりすぎ」です。夜まで我慢しましょう。
話を戻します。このようにたいへん有難いホットポット味噌汁ですが、個人的にはこの位置にあってくれるとより嬉しい、もっと別の食べ物があります。それが「湯豆腐」です。湯豆腐のおいしさは、欧米人にはなかなか理解が難しいものだと思います。味が無いからです。本当は味が無いのではなく、極めてデリケートで玄妙な味わいを有していると言うべきなのですが、とにかくそのおいしさを理解するためには、まず禅の世界を知る必要があります。
湯豆腐のみならずあらゆる日本文化を理解するには必須と言ってもいい「禅」については、当校にて1時間でコンパクトに学べる集中講座もご用意しています。こちらはワンレッスン破格の11000円となっていますので、是非お気軽にご利用ください。
さて今回私は、トレイ上の料理のまだ半分も解説していません。学校の宣伝が少々過ぎたことは少し反省していますが、私もこの不況下の日本で、なんとか食い扶持を稼いでいかねばなりません。もとい、愛する日本の文化をなるべく詳細に伝えていかねばなりません。残りの料理については、次回一気に解説していきたいと思います。
第34回・了
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稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)
料理人・飲食店プロデューサー。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービス設立に参加。2011年に東京駅 八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛ける。
ジャンルを問わず何にでも喰いつく変態料理人、またナチュラルボーン食いしん坊として、X(@inadashunsuke)等でも精力的に発信。『おいしいもので できている』『「エリックサウス」稲田俊輔のおいしい理由。インドカレーのきほん、完全レシピ』『食いしん坊のお悩み相談』『異国の味』『料理人という仕事』『現代調理道具論 おいしさ・美しさ・楽しさを最大化する』『ミニマル料理「和」』など著書多数。
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