イナダシュンスケ|小生、再び蕎麦を語る
第33回
小生、再び蕎麦を語る
以前この連載で「小生、蕎麦を語る」というタイトルの文章を書きました。その最後は、こんな一文で締められています。
あたかもその預言に導かれるかのように、僕は今回、蕎麦について再び何事かを語りたくなりました。ちなみにこの「小生」は、二つの意味の重ね合わせになっています。いわゆるダブルミーニングってやつです。
ひとつは読んで字の如し、単なる一人称です。「僕」や「わたし」よりも少々時代がかった大仰な人称ですね。元々は自分を低く見せる謙譲語だそうです。
もうひとつの意味は、人称代名詞ではなく普通名詞。こちらは言うなれば僕の造語ということになります。飲食店のレビューサイトには一定数、一人称を「小生」とする人々がいます。僕はそういう人々を勝手に「小生」と呼んでいるのです。語感からもなんとなく伝わると思いますが、そのほぼ全員が年配の男性です。彼らには明らかに一定の傾向があります。飲食店に対する評価がとかく厳しめなのです。プロフィール欄に「歯に衣を着せず評価するので悪しからず」みたいなことがはっきり書かれていることも少なくありません。
これは自信の表れでもあるはずです。食の経験が豊富で、味覚の確かさにも自信がないと、そうそう小生は名乗れないでしょう。小生たちには使命感があります。飲食店を誉めそやしてチヤホヤするだけでは店のためにもお客さんのためにもならない、だから人生経験豊富な自分があえて憎まれ役を買って出るのだ、という不退転の決意です。
あえて本音を言えば、個人的にあまり一緒に食事をしたくないタイプの人々ではあります。だってちょっと面倒くさそうなんだもん。なので「小生」という言葉に揶揄のニュアンスが全く無いと言えば嘘になります。しかし、そのニュアンスだけを読み取られても、僕は少し困ります。そこには、憧れや畏怖、尊敬の感情もあるからです。小生というのは複雑な存在なのです。そしてそんな小生はなぜか、蕎麦屋さんのレビュー欄に多く登場します。蕎麦と小生はよく似合います。
『マタンゴ』という古い日本映画があります。1963年公開のSFホラー映画です。ここからの数行は、いわゆるネタバレを含みます。これからこの映画を観ようと思っている人は(あまりいないかもしれませんが)少しご注意願います。
この映画では、無人島に漂着した7人の若者が、恐ろしいキノコ人間「マタンゴ」に襲われ、一人、また一人とマタンゴになっていきます。最後に残った語り部である主人公だけが、たまたま通りかかった船に救助されます。不幸中の幸いですね。ところがラストシーンでは、実はその主人公も既にキノコ人間になりつつあることが明かされ、映画はそのまま終わります。怖いですね。恐ろしいですね。
冒頭に引用した一文は、(誰にも気付いてもらっていないような気もしますが)この『マタンゴ』の衝撃のラストシーンに対するオマージュです。このエッセイで僕は終始、「小生」という言葉を、(畏怖と尊敬と揶揄が入り混じった)一般名詞として用いました。しかし最後の最後だけは、それを純粋な一人称としても取れる文で締めました。つまり、蕎麦を語り始めた自分も、いつの間にか小生の仲間入りをし始めているのではないか、という恐れ、そして微かな喜びをその文に込めたということになります。
これはなかなか複雑な感情です。『マタンゴ』のラストで、主人公は、あのままキノコ人間としてあの島で生きていく方が幸せだったかもしれない、というような心情も吐露します。僕ももしかしたら、このままマタンゴ……じゃなかった小生になりたいのかもしれません。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!