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矢月秀作「桜虎の道」#006

資産家の遺言書を巡る争いに巻き込まれた桜田。ヤクザや元ギャングまでもが介入、それぞれの思惑が入り乱れ不穏な事態に。更生の道を歩む後輩たちのためにも、桜田はカタをつけようと動き始める。

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第5章

 さくらは一睡もしないまま、事務所に出勤した。自席につき、息を吐くと、そのまま机に突っ伏しそうになる。
 そこに、ありさかが出勤してきた。
「おはようございます!」
 大きな声が桜田の耳に響く。
 有坂はカツカツと靴を鳴らし、桜田に近づいてきた。
「おやおや、桜田さん! 元気ありませんねえ。大丈夫ですか?」
 有坂が言う。
 桜田は顔を向けた。相変わらず、有坂は笑顔だ。心配しているんだか、からかっているんだか、わからない。
「ええ、まあ……」
 桜田はふとももに手をついて、体を起こした。両腕を机に置き、上体を支える。
「朝ごはんは食べましたか?」
「いや、食欲がなくて……」
「それはいけません! 朝は、エネルギーの源となる糖質、寝ている間に不足する水分とタンパク質をしっかり摂らないと、元気よく働けません。そうだ、僕が持っているプロテインをあげましょう! 僕のプロテインはオリジナルブレンドで、大さじ一杯で普通の人なら糖質とタンパク質と水分を十分にとれる配合でして——」
「あ、いえ、遠慮しときます」
 桜田はやんわりと断わった。
 あらかねが共に入ってきた。
「おはようございます」
 荒金が挨拶をし、桜田の隣の自席に来る。
「桜田君、顔色悪いですね」
「ええ、ちょっとしんどくて……」
「あら、ほんと。熱はないの?」
 小夜が訊く。
「熱はないんですが、体がきつくて……」
 そこにが入ってきた。
「おはよう。どうした?」
 桜田の方を見る。
「桜田さん、調子悪いみたいです」
 小夜は尾見に顔を向けた。
「そりゃいかんな。今日は休んでいいぞ」
 尾見が言う。
「でも、いろいろとやることが……」
 言いかけると、小夜が言った。
「いいよ、休んで。桜田さんの分はみんなで手分けすればすぐに終わるから」
「すぐに……」
「そうですよ。その程度の書類なら、三人でやれば一時間もかかりませんので。健康が一番ですから!」
 有坂の言葉はいちいち気に障るが、怒る気力もない。
「所長、少しご報告が」
 桜田は尾見を見た。
「では、私の部屋へ」
 尾見が所長室へ入る。桜田はカバンを持って、ふらっと立ち上がった。
「では、みなさん。今日は休ませてもらいます。あとはよろしくお願いします」
 頭を下げ、ふらふらと所長室へ入る。
 桜田はソファーに腰を下ろした。尻がソファーに沈む。深くもたれて、一つ大きく息をついた。
「ずいぶん、疲れているな」
 尾見は桜田の対面に座った。
「こいつのせいですよ」
 桜田は上着の胸元をポンポンと叩いた。
「何かあったか?」
「あったかどころじゃないですよ。はるよしひさも、この中身を知りたくて必死で、めんどくせえ連中を差し向けてきました」
「面倒くさい連中とは?」
「義久はあかぼしぐみ系の企業舎弟を、春人はギャング上がりの警備会社の連中を使って、こいつをぶんどろうとしてきましたよ」
 桜田は胸元を握った。
「ヤクザにギャングか。穏やかではないな」
「ヤクザの方は話をつけました。これで義久はおとなしくなるでしょう。問題は、春人の方です。尾見さん、レインボーギャングって知っていますか?」
「いや、聞いたことはないが……」
「ギャングの全盛時代、最も恐れられた集団です。そのリーダーはひらこうせいという名で、現在はアイアンクラッドという警備会社を経営しています」
「まさか、その男が春人側に付いているというのか?」
 尾見の表情が険しくなる。桜田はうなずいた。
「直接コンタクトを取っているのは、いけこうぞうのようです。真偽は定かでないんですが、木下邸に住み込みで働いているやまぐちいのりが池田孝蔵の娘だという情報もあります」
「おいおい、本当か?」
 尾見はげんそうな顔を見せた。
「池田孝蔵との関係は、直接、山口いのりの口から聞きました。で、昨晩、俺は平尾皇成と会ってきました」
「おまえ、それは深入りしすぎだ」
「俺だって、こんなところまで入りたくはなかったですよ。でも、連中の方から仕掛けてくるんで、仕方ない」
「無茶はしてないだろうな」
 尾見がじっと桜田を見つめる。
「火の粉を払っただけです」
 桜田はさらりと答えた。
 尾見はため息をついて、首を横に振った。
「すぐ、木下氏に事情を話して、警察に——」
「待ってください。一度、木下氏に確認させてください」
「何をだ?」
「俺から事情を話します。その上で、木下氏がどうしたいのかを聞いてみます」
「どうもこうも、そこまで反社勢力が絡んできているなら、木下氏にも危険が及ぶ。放っておくわけにはいかない」
「そう、放っておくわけにはいかないんです。特に、平尾皇成という男は危ない」
 桜田は尾見を見やった。眼光が一瞬、鋭くなる。
「おまえにそこまで感じさせる相手か……」
 尾見は腕組みをした。
「この一件が片づくまで、ちょっと休暇をいただきたいんですが」
「どう決着を付けるつもりだ?」
「木下氏に話して、警察の手を借りるというなら、そうします。俺が証言すれば済む話ですから。しかし、警察には届けないということであれば——」
 桜田は眉間に皺を立てた。
「俺が連中を潰します」
「……どうしてもか?」
「はい。他にもこの件で迷惑をかけた若者たちがいます。そいつらが今後安心して更生の道を進むためには、平尾皇成ときっちりカタをつけなきゃなりませんから」
 まっすぐ尾見を見つめる。
 尾見はしばし目を伏せてうなった。が、太腿を叩いて顔を上げた。
「わかった。ただし、本当に危険だと感じたら、すぐ私に連絡を入れること。木下氏の意向がどうであれ、警察に出動してもらう。約束しろ」
「了解しました」
 桜田は身を起こし、強くしゆこうした。

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