矢月秀作「桜虎の道」#007(最終回)
第6章
1
春人は中目黒に来ていた。車で十分ほど南に行った場所でタクシーを停める。降りて、格子門の前に立つ。
玄関を見つめ、何度か逡巡したものの、インターホンを押した。
——はい。
女性の声が聞こえてくる。
「春人です」
名を告げた。
春人が訪れたのは、義人のところではなく、池田の家だった。
孝蔵に言われ、一度は叔父の言うとおり、義人に電話をしようと思った。だが、どうしても父には連絡ができなかった。
プライドもある。畏怖もある。様々な感情が胸の内に渦巻き、混乱した春人が助けを求めたのは、やはり美佐希だった。
——開いてるわよ。
そう言い、インターホンを切る。
春人は格子門を開け、石畳を進み、玄関ドアを開けた。美佐希は玄関で待っていた。
顔を見た途端、うつむく。
「入りなさい」
美佐希は笑顔を見せ、優しく声をかけた。
春人は肩を落として入り、ドアを閉めた。美佐希が奥へ進む。春人も上がり、美佐希に続いた。
リビングに入ると、テーブルにはコーヒーが用意されていた。
「おなか空いてない?」
「大丈夫」
春人はソファーに浅く腰かけた。
美佐希が対面に腰かけた。カップにコーヒーを注ぎ、一つを春人の前に差し出す。春人は手も付けずうつむいていた。
美佐希はコーヒーを一口飲んで、太腿に置いたソーサーにカップを置いた。顔を上げる。
「何があったの?」
静かに訊く。
春人は押し黙っていたが、やおら顔を上げた。重い口を開く。
「まずいことになった……」
「落ち着いて話してみて」
美佐希はゆっくりとした口ぶりで問いかけた。
「実は……」
春人はぽつりぽつりと話しだした。
孝蔵が平尾に遺言書の預かり証の奪取を頼んだこと。奪取に失敗し、部下も殴られ、平尾が怒り心頭なこと。吉祥寺のビルを渡せと要求されていることなど——。
一通り話し終えて、春人はようやくコーヒーを口にした。
「そう。それは困ったわね。うちの人はなんと?」
「警察には連絡せず、桜田と平尾をぶつけて、アイアンクラッドを潰せと。そのために、親父にはすべて話して、その後の仕込みをしろと……」
「あの人の考えそうなことね。姑息だわ」
美佐希はコーヒーを飲み終え、ソーサーとカップをテーブルに置いた。
立ち上がる。
「叔母さん。警察に連絡するのか?」
春人が美佐希を見上げた。
「それじゃあ、困るんでしょ? こういう時は交渉するの」
「誰と?」
「もちろん、平尾社長と」
「それは危ない!」
春人が思わず腰を浮かせる。顔が引きつっている。
美佐希は微笑んだ。
「ここぞという大事な場面では、小手先の算段なんて何の解決にもならないの。いえ、むしろ、状況を悪化させる。大事な時こそ、正面からぶつからなきゃダメ。相手が誰であろうと。覚えておきなさい」
美佐希がリビングから出て行く。春人は目で追うだけだ。
美佐希はドアハンドルに手をかけ、振り向いた。
「あなたはここにいなさい。うちの人にも連絡する必要はありません。三時間……四時間ね。四時間経っても、私からあなたに連絡がない時は、兄に連絡をして指示を仰いで」
「親父に?」
「一筋縄でいかない相手なら、警察より兄の方が頼りになる。私とあなたのお父さんは、そうして生きてきたの。必ず、連絡しなさい」
強い眼力で正視し、リビングを出た。
春人は座って背を丸め、落ち着かない様子で親指の爪を嚙んだ。
2
孝蔵は知り合いの探偵の事務所を訪ねた。
池沢という男だ。一人で事務所を開いていて、孝蔵はいつも、調べたいことがある時はこの男に調査を頼んでいた。
小柄で細身。無精ひげを生やして、身なりもジャケットにジーンズといったラフな格好をしている。見た目は、頼りないフリーライターのようだが、その実、かなり際どいところまで潜って情報を取ってくるやり手だった。
その分、依頼料は張るが、情報は詳細で確実なものでなければ使い物にならない。
池沢なら、きっちりと仕事をしてくれる。それほど信頼できる探偵だった。
池沢にとっても言い値を払う孝蔵はお得意様だった。
持ちつ持たれつのいい関係だったが……。
「断わる? どういうことだ?」
孝蔵は椅子から身を乗り出した。つかみかからんばかりの形相で、池沢を睨みつける。
しかし、池沢はテーブルを挟んで対面の椅子に脚を組んでのけぞり、涼しい顔をしていた。
「だから、お受けできませんって話ですよ」
「理由を言え、理由を!」
孝蔵はテーブルを叩いた。
気が立っていた。一分でも、一秒でも早く動かなければ、それだけ死が近くなる。
池沢は小さく息をついて、孝蔵を見返した。
「本当は教えてはいけないんですが」
脚を解いて、孝蔵を見やる。
「池田さんだから教えるんですよ。その代わり、俺から聞いたってことは絶対に言わないと約束してください」
「もちろんだ」
孝蔵は座り直した。
「あんたの仕事を受けないようにと言ってきたのは、美佐希さんだ」
池沢の口調が荒くなった。
「美佐希が?」
孝蔵が眉間に皺を立てた。
「理由は知らない。ただ、俺だけでなく、探偵協会にも連絡が行っているから、他の連中もあんたの仕事は受けないよ」
「あのバカ女が……」
孝蔵は拳を握った。あれだけ口止めしたのに、春人が美佐希に喋ったに違いない。
顔を上げ、池沢を睨む。
「だが、金を払うのは俺だ。美佐希に言われたぐらいで、断わることはねえだろ。いつもの倍、いや三倍出す」
孝蔵が言う。
と、池沢は深く息をついて、また脚を組んだ。冷ややかに孝蔵を見やる。
「池田さん。前から機会があれば言ってやろうと思ってたんだけどな。あんた、なんか勘違いしてないか?」
「あ?」
孝蔵が気色ばんだ。が、池沢は眉一つ動かさない。
「あんたと付き合ってんのは、木下春人の後見人だからだ。もっといえば、正式な後見人は木下ビルの創業家で義人さんの妹である美佐希さん。あんたはそのコブに過ぎない」
「コブだと?」
腰を浮かせ、池沢を睨む。
「美佐希さんと所帯を持って、春人の後見人を気取り、木下一族の一員になったつもりなんだろうが、誰もあんたを信用しちゃいない。あんたを支えているのは美佐希さんの旦那という肩書だけだ」
池沢は歯に衣着せぬ言葉を浴びせた。
「てめえ……ぶち殺してやろうか」
孝蔵が立ち上がった瞬間、池沢はテーブルの端を蹴った。音が立ち、動いたテーブルが孝蔵の脛を打つ。
孝蔵はたまらず顔をしかめ、腰を屈めた。
「ほらほら、それがいけないんだって。ハッタリが利く相手かどうか、ちゃんと見分けないと。みんな、気づいてるよ。あんたが小心者だって」
「ふざけ——」
言い返そうとした時、また池沢がテーブルを蹴った。再び脛を打ち、椅子にすとんと落ちた。
「何か抱えてるんだったら、相手の要求を呑んだ方がいいよ。あんたには虫一匹殺せない」
そう言い、鼻で笑う。
孝蔵が奥歯を嚙んで、池沢を睨む。
池沢は不意に立ち上がった。孝蔵はびくっとして少しのけぞった。それを見て、池沢は片笑みを覗かせ、後ろの執務デスクに戻った。
「もう用は終わりました。お引き取りください」
池沢がドアを手で指す。
孝蔵は両手の拳を握って立ち上がった。ぶるぶる震えて池沢を見据えたが、そのまま踵を返した。
事務所を出て、ドアを乱暴に閉める。苛立ちが止まらず、壁を殴ろうとするがやめた。
肩を落とす。
池沢の言うとおり、自分には壁を殴る勇気もない。
美佐希と結婚し、春人を従わせながら精いっぱい虚勢を張ってきたが、それは周りの者に見抜かれていたということだ。
気づいてはいたが、面と向かって指摘されると、腹立たしさより情けなさが先に立つ。
昔からそうだった。
弁だけは立つので口でやり込めて、いつも勝った気でいた。しかし、本当に強い連中には胸ぐらをつかまれただけで謝ってしまう。
強い連中はそういう孝蔵を嘲り笑い、いつしか相手にしなくなる。
孝蔵はそれを〝勝った〟とみなして吹聴し、弱い者や初めて会う者にたいして粋がり、お山の大将を気取っていた。
いつかはそんな自分を変えたい。本当の力を持った人物になりたい。そう思ってきたが、結局、今の今まで何一つ変わらなかった。
本当に情けない話だ。しかし、あれだけはっきり言われると、これまでの我が人生を全否定されたようで腹が立つ。
治まらない怒りが春人に向かう。
「あいつが美佐希に話さなけりゃ、こんなことにはならなかったんだ。クソガキが」
ビルを出て、路上でスマホを取り出した。
春人に電話を入れる。どうせ出ないだろうと思っていたが、二コールでつながった。
「こら、春人! おまえ、美佐希に——」
——叔父さん、大変だ!
春人の声が引きつっている。思わぬ春人の様子に、孝蔵の怒りが引っ込んだ。
「何があった?」
——叔母さんが平尾のところに行った!
春人の言葉を聞いて、孝蔵の目尻が引きつった。スマホを握りしめる。
——四時間経っても連絡がない時は、親父に連絡しろと言って出てった。警察には連絡しなくていいと。叔父さん、どうしたらいい?
「どうしたらって……」
孝蔵は言葉を濁した。
平尾の怖さは身に染みて知っている。自分が行ったところで、何ができるわけでもない。
余計なことしやがって……。
美佐希の顔を思い浮かべて、歯嚙みする。といって、放っておくわけにもいかない。
孝蔵は目を閉じた。出会った頃のことを思い出す。
美佐希とはいきつけのバーで出会った。
美佐希が客と揉めているところを割って入り、助けた。いつものハッタリが利いた。
以来、二度三度と会うようになった。
美佐希は強い女だった。木下ビルの社長が兄だと聞いて、少し腰が引けたこともあった。
当時はまだ、前妻との離婚調停中だったが、美佐希は関係なく、孝蔵との付き合いを続けた。不貞行為で賠償請求されれば、自分が払うとまで言った。
美佐希に訊いたことがある。
なぜ、そこまでして自分のような男と付き合っているのかと。
美佐希は、あなたは優しい人だから、と答えた。
そんなことを言われたのは初めてだった。その言葉は恥ずかしいながらも、本当の自分を見てくれたようでうれしかった。
孝蔵は正式に離婚し、美佐希との同棲を始めた。
美佐希の前では、虚勢を張らずに済んだ。結婚するまでの二年間は、孝蔵が孝蔵らしくいられた唯一の期間だったかもしれない。
その後、春人が独立し、美佐希が後見となって事業を始めてから、孝蔵は再び、虚勢を張るようになった。
美佐希はいつも、無理はしないでと気遣ってくれた。
だが、会社が大きくなるほどに、自分を大きく見せるしかなくなり、退くに退けなくなった。
自分や春人の失態を美佐希が裏で処理してくれていたことは知っていた。
それでも、自分が創り上げた虚像を壊すことはできなかった。
その結果が今だ。
本物の悪に脅され、怯えて右往左往し、つまらない手を打って乗り切ろうとしているだけ。
美佐希のように真正面からぶつかろうとはしなかった。
逃げるか……。
一瞬、頭をよぎる。
もう自分にできることはない。美佐希がどうにかできるとも思えないが、自分がちょこまかと動くよりはましだろう。美佐希には義人が付いている。
自分の命を守るためには、ここで消えた方が——。
逡巡していると、電話の向こうから声をかけられた。
——叔父さん! どうすんだよ! 叔母さんが危ないんだぞ!
春人が声を張る。
ハッとした。
美佐希を助けたときのことを思い出す。平尾はハッタリの利く相手ではない。わかっているが、ここで逃げるのは違う。美佐希を放って助かったところで、待っているのはみじめな余生だ。
最期ぐらい、格好つけなきゃな……。
スマホを強く握る。
「おまえ、義人さんのところに行って、全部話してこい。美佐希が平尾に会いに行ったことも。警察に知らせるかどうかは、義人さんの判断を仰げ」
——親父は……。
「根性決めて行ってこい! バカタレが!」
孝蔵は怒鳴った。
——わかったよ。叔父さんはどうするんだ?
「俺は美佐希を助けに行く。女房だからな」
そう言い、電話を切る。スマホをズボンの後ろポケットに入れ、顔を上げる。
その顔を見た通行人はギョッとして道を開けた。
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