矢月秀作「桜虎の道」#005
第4章
1
村瀬はその日も、目ぼしいスナックやバーを覗いては、レインボーギャングと平尾についての情報を集めていた。
しかし、思ったより情報は集まらない。
ギャングについて饒舌に語る年配者には出会うものの、レインボーギャングの話になると、誰もが途端に口が重くなる。
平尾の名前を出すと、それまで語っていた人たちが飲みを切り上げ、逃げるように村瀬の前から立ち去ることもしばしばだった。
一方、村瀬がレインボーギャングのことを聞いて回るにつれ、周りに怪しい連中がちらほらと姿を見せるようになった。
直接声をかけられたり、襲われたりしているわけではない。
が、あきらかに、村瀬を尾行していると思われる者が何人かいた。
その中に、10Qで見かけた顔もある。
攻めるなら、初めに怪しいと思った10Qだろうと感じている。
だが、同時にあの店はヤバいと、勘が囁く。
頼まれごとを中途半端に終わらせたくはない。一方で、野中や松原と新たな道へ踏み出したところだ。更生への道は閉ざしたくない。
明日、桜田さんに相談してみるか。
村瀬はリプロに顔を出そうと、新宿三丁目に足を向けた。
大通りを進めばよかったが、慣れた道だからか、花園神社へ入っていった。
急に暗がりが濃くなり、人の気配がなくなる。
背後から鋭い視線を感じた。
村瀬は気配に注意を向け、足早に境内を抜けようとした。
と、前から二人の中年男性が迫ってきた。
小太りの男と痩せた背の高い男だ。二人とも村瀬を睨み、まっすぐ向かってきている。
「やべえな……」
歩き慣れた場所が、結果、敵を誘い込むことになってしまった。
立ち止まって、肩越しに後ろを見る。
背後からも二人の男が近づいてきている。一人は10Qにいたライダースを着ていた男だ。
前後の四人は刺すような殺気を放っていた。弱くはない。
黒目を動かし、逃走経路を探す。いきなり走って、大通りを疾走すれば、逃げ切れる。
しかし——。
村瀬は軽く拳を握った。
一人でも倒せれば、何かつかめるかもしれない。ギャンブルではあるが、チャンスでもある。
村瀬は体を開いた。男たちの位置が左右になる。
男たちが足を止めた。ライダースを着た男が少し村瀬に歩み寄った。村瀬を睨む。村瀬も睨み返した。
「よお、小僧。レインボーギャングについて、何かわかったか?」
口元に笑みを滲ませる。
「わかんねえよ」
村瀬が返す。
「一緒に来れば、教えてやるぜ」
「そりゃ、ありがてえが、そのまま拉致られるのは嫌だね」
「別に、拉致りゃしねえよ。おまえがおとなしくついてくるならな」
ライダースを着た男が言うと、他の男たちがじりっと間合いを詰めてきた。
「俺たちもおっさんだからよ。やり合うのは面倒なんだ。素直についてきてくれねえかな」
「嫌だと言ったら?」
村瀬がライダースを着た男を睨む。
瞬間、長身と小太りの男が動いた。一気に距離を詰めてくる。
村瀬は長身の男に殴りかかった。
長身の男は深く屈み、パンチをかいくぐって、村瀬の背後を取った。
小太りの男が姿勢を低くして、正面から突っ込んでくる。
村瀬は拳を握り締めた。
と、長身の男が村瀬の背中を蹴った。
村瀬は弾かれ、前によろよろと出た。そこに小太りの男が肩から村瀬の腹に突っ込んできた。想像以上に速い。衝撃が背中を貫き、腰がくの字に折れる。
小太りの男は村瀬の膝裏に腕を巻いた。引っ張り、膝を折る。村瀬の体が背中から地面に叩きつけられた。
村瀬は息が詰まった。顔を起こそうとする。長身の男が村瀬の顔を踏みつけた。
村瀬の口と鼻から血がしぶいた。襟元が赤く染まる。
小太りの男が村瀬の体を起こして、腕を足で挟み、腹に乗った。ずしりと重く、少々体を揺らした程度では動かない。
小太りの男は村瀬に平手打ちをした。厚い手での平手打ちは、脳の奥にじんじんと響いた。
「おまえ、オレの体形見て、ナメてただろ。こう見えても、学生の頃はラグビーの地方選抜に選ばれたんだよ。おまえごとき、タックルで一発だ」
村瀬を睨んで、もう一発平手を浴びせる。地面に血が飛び、土に染み込んだ。
「おい、放してやれ」
ライダースを着た男が言う。
小太りの男が村瀬の上から退いた。圧迫から解放され、村瀬は仰向けになったまま、大きく呼吸をした。
ライダースを着た男が近づいてきて、村瀬を見下ろした。
「俺は和久ってんだ。おまえは?」
訊くが、村瀬は答えない。
「おまえに俺たちのことを探らせてんのは、桜田じゃねえか?」
和久が唐突に訊ねる。
桜田の名を聞き、村瀬の目が思わず大きくなった。
「やっぱ、そうか。立て」
和久は爪先で軽く村瀬を蹴った。
「俺が相手してやる。俺に勝てたら、この場から解放してやる。伸されたら、そのままおまえを拉致する。どうだ?」
そう言い、少し村瀬から離れた。
村瀬は上体を起こした。軽く頭を振る。少し意識が鈍く、体も重い。顔にもじんじんと痺れるような痛みがこもっているが、視界はまだはっきりしている。
指を動かしてみる。力は入る。
どのみち、連れて行かれるなら——。
村瀬はやおら立ち上がった。足を踏ん張る。膝が少しぎくしゃくするが、動ける。
少しその場で跳ねて、感覚を取り戻す。肩を揺すって首を回し、息を吐いて、一度全身の力を抜いた。
そして、静かに和久を見据えた。
「おー、いいツラしてんじゃねえか。いつでも来い」
和久は仁王立ちしている。ただ突っ立っているように見えるが、隙がない。対峙しただけで、圧倒的な力の差を感じる。
だが、この期に及んで、退くわけにはいかない。
村瀬は拳を軽く握った。そして、地を蹴り、和久に迫った。
和久は動かない。
右ストレートを放った。いいスピードと間合いだ。
届く!
拳を固めた瞬間、標的にした和久の顔が視界から消えた。
すぐさま、左脇腹に衝撃を覚えた。
村瀬は身を捩った。
和久は右斜め下にダッキングすると同時に、ボディーフックを叩き込んでいた。
動きがまったく見えなかった。気配すら感じなかった。それほど速かった。
和久が左の視野に映った。村瀬は右手で左脇腹を押さえながら、左ストレートを放った。
和久は額を突き出した。村瀬の拳を受け止める。村瀬の手の基節骨が軋んだ。
「弱い弱い。もっと、本気を出してくれよ」
和久はお辞儀するように上体を前に倒した。
その勢いで、村瀬の拳が弾かれ、体まで押され、後退する。凄まじい体幹の強さだ。
村瀬は拳を構え、体勢を整えた。和久を見据える。
攻め手が見つからない。正攻法では勝てない。
村瀬は前のめりに突っ込んだ。大振りのフックを放つ。
和久がバックステップを踏み、後ろに飛び退いた。村瀬はバランスを崩し、地面に倒れた。両手をついて、前回りする。その時、手に地面の砂をつかんだ。
一回転し、起き上がる。和久が正面にいる。
和久に向かって、握った砂を投げた。目くらましだ。ずるい喧嘩術ではあるが、卑怯だなんだと言ってはいられない。
和久が腕を上げて、顔を背ける。その隙に村瀬は姿勢を低くして突っ込み、オーバースローのような右フックを浴びせた。
和久の体の右側に自分の顔がある。いい位置に拳が飛んでいるのを確信する。
村瀬は腰を入れ、拳に力を込めた。ゴッと拳が骨肉の感触を捉えた。
当たっている。そう思い、パンチを打ち抜こうとした時、腕が止まった。
和久の足下が目に映る。和久は左脚を引いて、ブロッキングの姿勢で踏ん張っていた。
顔を上げる。
和久は顔の前に立てた両前腕のガードで、村瀬の拳を受け止めていた。隙間から、村瀬を睨む。
「悪くない攻撃だったが、俺には効かねえ」
和久は左手で村瀬の右手首を握った。
村瀬は腕を引こうとした。しかし、木の股に挟まったかのようにびくともしない。
「汚ねえ喧嘩は嫌いじゃねえぞ。喧嘩は勝たなきゃ意味がねえ。おまえ、センスあるよ。ただ、相手が悪かった」
和久は村瀬の右手首をさらに強く握り締めた。凄まじい握力だ。ねじ切れそうな痛みに、村瀬の相貌が歪んだ。
「パンチってのは、こうやって打つんだ」
言うなり、和久の右拳が飛んできた。
村瀬はとっさに左腕を立てた。が、防げない。
左頰から顎先に抜け、打ち抜かれた。首がかくっと折れる。瞬間、意識が飛び、全身から力が抜けた。
村瀬は両膝から地面に落ちた。
和久が手を離す。村瀬の上体が前のめりに倒れ、和久の足に顔を擦りつけ、ずるずると崩れ落ちた。
「弱いですねえ、最近の若いのは」
長身の男が村瀬を見下ろし、笑った。
「いやいや、なかなか根性はあったぞ」
和久が言う。
「根性だけじゃ、和久さんには敵わんですけどね」
小太りの男が笑い声を立てる。
「どうします?」
和久の横にいた男が訊いた。
「平尾さんがさらってこいと言ってた。アイアンクラッドの事務所に連れて行く。車を回してこい」
「わかりました」
男が一足先に神社を出る。
「おまえら、大通り近くまで運べ」
和久が残った二人に命ずる。
「通りはまずくねえですか?」
小太りの男が言った。
「酔っぱらいを介抱してるふりしときゃ大丈夫だ。この街は良くも悪くも他人に関心がねえ」
「それもそうですね」
長身の男は笑うと、小太りの男に目で合図をし、左右の脇を二人で抱えて立たせた。そのまま靖国通りの方へ引きずっていく。
それを見ながら、和久はスマホを出した。
「……もしもし、和久です。ガキを捕まえたんで、これからそっちに連れて行きます」
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