見出し画像

高田大介「エディシオン・クリティーク――ディレッタント、奇書を読む」#002

離婚後もなお元夫の文献学者・修理の家に入り浸る真理。
だって、ここが一番居心地のいい場所なのだから……
曖昧な関係を続ける二人に業を煮やし、
真理の実家は二人を呼び出して話し合いの場を設けることに。
「家庭裁判」は、いつしか文系・理系の仁義なき戦いに発展し――

前へ / 最初へ戻る / TOPページへ戻る / 次へ

三、裁きの日は近い、言葉、言葉、言葉

 でもこんなことを、こんな私の果てない屈託を、どうやって余人に伝えたらいいのだろう? 手記でも書いたらいいのか? でも手記なんかしたためはじめたら、佳境にはいって最後の重要な部分を書く手前で死ぬことになるんだよな。
 というより今は、この家族裁判をどうやって乗り切るかなんだけど……もう一人の被告は裁かれているという意識そのものがないみたい。

「だいたい妙もねえ、勝手を言って出ていったものを、どうして易々と受け入れちゃうのよ」
 妙さんを詰る母に佐江が同調している。
「そうだ、そうだ、出禁が相当だ」
 やかましいわ。
「だって……ねえ?」と妙さんは私に水を向ける。何が「ねえ」なのかは分からないが私は、うん、うんと頷いて見せた。判事の席に座ってるけど妙さんは被告弁護人だったのか。
「本来なら二度と敷居は跨がせないって話でしょ」と母。
「えぇ? そんなぁ……ひどくない? ねぇ、汐路ぃ」
 妙さんは故算哲氏を別とすれば、唯一うちの母に向かってはかなり甘めのきようこうで迫りがちである。女学校時代に培った百合の魂が生きている。
「私もね、真理に最初はきつく言いわたしていたんだけど」
「真理ちゃんが来ないなんて……わたし嫌なんだけど……困るんだけど」
「でもけじめというものがね、あるじゃない?」
「なんのけじめなの?」
「くっついたり、別れたり、また出入りを始めたりって、勝手を許してちゃ示しがつかないでしょ?」
「誰に示しをつけなくっちゃいけないの? だいたいお葬式だって、その後の面倒だって、ぜんぶ真理ちゃんが取り仕切ってくれたんだから。実質、嫁なんだから。それで通ってるんだから」
 母は佐江と顔を見合わせた。原告側もちょっと攻めあぐんでいる。しかし「実質、嫁」って何なんだ? 母が腕組みで言った。
「三回忌の法要も施主側の席だったわね」
「そうだよ! あれは正妻の位置でしょ、お姉ちゃん、それ、おかしくない?」
「えーと……私も、これはどうなのかなとは……」
「どうなのかな、じゃないよ。あそこは空けておくべき席なんじゃないの、お姉ちゃんは出ていったんだから!」
「佐江ちゃん……そんなに怒らないで、わたしが強いて座ってもらったんだから。っていうか、御布施だって真理ちゃんから渡してもらったし、会食や引き物の手配もぜんぶ真理ちゃんにやってもらっちゃったんだし? それで真理ちゃんが参会者の方に座ってたら、その方が変でしょう?」
 ちょっと想像してみたが確かに変かもしれない。本堂脇で和尚さんに段取りを伺い、料亭で参会者の出迎え、見送りをして引き物を渡している人物が、施主側の人でなかったらこれは何だ、あれは誰なんだ、という話にはなりそうだ。
「修理なんかてんで頼りになんないんだから。真理ちゃんだけが頼りなんだからね」
「妙さん、私だってお手伝いできるよ」
「それは駄目よ。佐江ちゃん、このあいだもね、言ったでしょ……そんな泣かないでよ」
 さて、その「このあいだ」とやらの機会に妙さんと佐江がどんな話をしたのかはおぼろげに想像がつくわけだが、その時にも妙さんは佐江を泣かせてしまったと心を痛めていた。しゃくりあげ声の佐江は涙曇りの瞳で私をにらんで決めつける。
「お姉ちゃんは、ずるい! 勝手に別れておいて! それなのに未だに正妻面で!」
「せいさいづらって、べつにそんな……」
「妙、嵯峨野家とかさと家の方では、どういうことになってるの?」と母。
「離婚を宣伝して回ったわけじゃないけど、別れたってことは気心の知れたところには漏らしたから……こうしたことって伝わっているものよね」
「それが『正妻面』で施主席に座ってたら何か言う人もでてくるんじゃないの?」
「私、せいさいづらなんかしてませんけど?」反駁する私。
「してるよ!」佐江が決めつける。
「だいたい、なんなんだよ、そのせいさいづらってやつは。どんなつらだよ」
「修理と妙さんと一緒になって『この度は』、『どうも』って頭下げてたじゃない!」
「それは下げるに決まってるだろ、そこで『この度は』って言われてんのに、『ふんっ』って横向いてたら、それこそどうかしてるだろ!」
「その立場にいるってのがそもそも正妻面だって言うの!」
 おっ、それはそうかも。納得してしまう。
「じゃあ、どうすればいいんだよ……」私だって分からない。
「今の通りでいいのよ」妙さんがきっぱりと言う。「七回忌だって真理ちゃんにいてもらうから。修理なんかぜんぜん頼りになんないんだから」
「えぇ……なんでぇ……?」佐江の嘆きである。
「それよ、妙、こんなこといつまでもずっと続ける積もりなの?」
「こんなことって何? 汐路、はっきり言ってくれる?」妙さんの嬌声が引っ込んだ。顔だけじゃなくって座っている向きをはっきり母の方に向けていた。妙さんは強気に出ると結構怖くなる。もともと教壇でも学会でも、物怖じなんかしない人だ。上背があって、そのうえ美人だから押し出しが違う。

「判らないの、妙?」母が対抗するように椅子の上の体をまわして妙さんに正対する。こっちはこっちで生意気盛りの高校生を一室にあつめて言うことを聞かせるという生業でずっとやってきている筋金入りだ。ちなみに勤務校の生徒達の間における、母、岩槻汐路の綽名は「イワッキー」、ポケモンならば岩のモンスターに違いない。
「いつまでこんな中途半端な状態で居続ける積もりだって言うのよ。真理だってもう三十路よ!」知ってますよ!
「——となれば、いい? このあと他所で再婚する可能性だってあるわけでしょう?」
「いや……それはないんじゃないかな……」
「え、私、そんなのいやよ、真理ちゃん」
「じゃあ妙は、息子の元嫁なんていう変な立場で真理をずっと手元に拘束しておこうっていうの?」
「いや、それは違うんじゃないかな……」って返事だけはしてるのに、なんか私の言うこと誰も聞いてないみたい。
「拘束だなんて……そんなんじゃないよ。でも……」押されてる。妙さん、頑張って!
「そうだよ、お姉ちゃんにだって無限の未来があるんだよ」
「やかましいわ、取ってつけたようなれいで姉を他所に片づけようとするんじゃないよ」
「お姉ちゃんはどうする積もりなのよ、別れても正妻面! もう意味がわかんない!」
 なにが「別れても正妻面!」だよ、決まり文句にしやがって。

「あの……」
「何?」「何?」「何?」「何か?」、女四人が異口同音に言って振り向くと、修理がひっそりと手を上げていた。誰が裁判長だか知らないけど発言は許されるのかな。
「僕は下がっても構わないかな」汐路がいるので、修理は「僕モード」だった。
「——こんな学級会みたいなの、大嫌いなんだけど」
「私だって嫌いだよ!」って言ってみたけど、そりゃ誰だって嫌いだよな、こんなの。
 修理の断りに、母がそれならばと詰め寄る。
「修理、あんたはどういう積もりなの? こんな風に別れた妻とこれからもずるずる付き合っていくの?」母は修理のことも呼び捨てだ。子供の頃からの習慣である。
「僕は別にいいんだけど。真理がそれでいいなら」
「分かってんの、修理、それは修理の可能性も、真理の可能性も狭めることになるんだよ。いっそ離婚は間違いでしたってことで四方に頭を下げてきて、それでちゃんと再婚しなさい! 再婚しなおしなさい!」再婚しなおしって何だよ?
「えぇー? なにそれ」佐江はご不満だ。
「いや、私としては……今みたいな感じがだいぶましというか。今みたいな感じがいいんだけど……」やっぱり誰も聞いてくれていない。手記にして読ませなきゃ駄目なのか?
 修理はイワッキーにも怖じるところがない。
「それは構わないけど、頭を下げるってなんで? 仮に離婚が間違いだったとして、そう認めたとして、それで誰に、何で、謝る筋合いが生じているわけ?」
「あのねぇ、修理、結婚っていうのは二人だけでするもんじゃないんだよ」
「汐ちゃん、やめてよ——」昔から修理は算哲氏にならって「汐ちゃん呼び」である。「おばさん」とか呼ばれるよりはいいかと言って、これを認めていた両親は今にいたってちょっとボタンが掛け違ったかなと困惑中だが、もう軌道修正には遅い。しかし修理の方も、岩ポケモンに向かって「汐ちゃん」とはたいした心臓だ。
「汐ちゃん」の方は修理を睨んでいる。世に言う「メンチを切っている」状態である。高校教師とか警官とかいうものは、すこし圧が効かないと商売にならないので、必要に応じてこうした八九三芸が身に付くものなのだ。でもこの筋に入ったイワッキーはちょっと怖い。
「——僕は汐ちゃんの生徒じゃないんだからさ」
「いつの間にかちよざいなことを言う様になったのぅ、修理」イワッキーが『仁義なき戦い』みたいなこと言い出したよう。怖いよう。
「僕と真理が、結婚しようが離婚しようが、べつだんそれで誰かに迷惑なんかかけていないでしょ」
「それを両家の親の前で言うのか、ぬけぬけと、お前は!」倒置法が怖いよう。イワッキー、はやくお母さんに戻って! 修理はお母さんをあおらないで!
「——修理も真理も、こうして立派に親にも妹にも心配かけて、面倒かけて、迷惑をかけてんだよ!」
「面倒の段については、それは謝るよ。でも心配なんか要らないよ」
「何を他人事みたいに言ってんだよ、元を正せば、修理、お前のせいじゃないのか」
「せいってなにさ」
「修理のせいで真理も佐江も泣いてるんだ。娘二人泣かされて、これが黙っていられるかってーの」
「真理、泣いてるの?」修理がくるりと振り向いた。
「いえ、最近はそれほどでも……」
「佐江ちゃん、泣いてるの?」ついで佐江に向かって言った。
「……めっちゃ泣いてる」
「僕のせいなの?」
 佐江はしばらく黙り込んだ。そしてややあってかぶりを振った。
「修理のせいじゃないよ……」
 そしてこうべを垂れてもう一度言った。「修理のせいじゃない……」

 修理は佐江の肩をぽんぽんとたたいて慰めるようにしたが、向き直って居直った。
「まあ、そうだよね。誰かが僕を好きになったとしても、それは僕のせいではないよ。それから誰かの気持ちに僕が応えられないことがあるとしても、それはやっぱり僕のせいではない」
「あー、もう!」割って入ったのは私である。どうしてそれを言っちゃうんだよ。それはそうなんだけど、本当にまったくその通りなんだけど、お前が言うな!
 佐江がうわーんと声を上げて泣き始めた。
「修理……」汐路が修理に呼びかけた声は怒気をはらんでいる。
「修理、佐江ちゃんに謝んなさい。低頭して非を詫びなさい」うちの母を制するように割って入って、妙さんがきっぱり言った。
「それはいいけど、何を謝るの?」
 母親組の二人が再びいらっとしているのを見かねて私が間に割り込んだ。
「それは自分で考えてほしいところだけど、とりいそぎ教えてあげる。修理は自分のことを好きだと言ってくれている子を前にして、気持ちに応えられないと口にして改めて傷をえぐったでしょう。そのうえそれは自分のせいではないとも言ったでしょう。てて加えて、自分のせいではないと、佐江自身に言わせたでしょう」
 修理ははい、と頷いている。
「かなりハイペースで効率良く佐江を傷つけてるよ。ざくざくいってる。自覚無いんじゃいけないよ」
「そうか」
「そうだよ」
「そうか」
 そして俯いて顔を覆っている佐江の足下にひざまずいて言った。
「佐江ちゃん、御免ね。改めて傷つけちゃったんだね。でも解ってほしいんだけど、俺は俺なりに佐江ちゃんには誠実に対した積もりだ。佐江ちゃんのことは大事に思っている」
 よし、良く言った。そこで止めておこうか。試しに続けて「でも本当は?」とか訊いてみた日には「大事に思っているのは本当だけど、気持ちは迷惑だった。現にいろいろこじれたしね」とか答えかねない奴なんだから。

 覚えてほしい、噓も方便。正直は常に最良の策ベスト・ポリシーとは限らないのだ。
「真理、俺はいつもこんな感じなのか」
「どういうこと?」
「いつもこんな風に無思慮に人を傷つけているのか」
「えーと、それはそうかな……けっこうやらかしてると思うよ、多方面で」
「真理にもかい」
「そうだね。回数で言ったらきっと私はいちばんなんだろうね」
「ここはやはり謝っておくべきところなんだろうか」
「何を謝るのか見当もついていないなら、謝ってもしょうがないんじゃない。それにこれはね、多分修理ばっかりじゃなくって、誰もがみんなやらかしていることなんだと思う」
「誰もがみんな?」
「みんなだね」
「じゃあ母さんも、汐ちゃんも? 例えばだけど」
 お、なんでこっちにお鉢が回ってきたんだ、と佐江を慰めながら既にソファに着席していた母親組がこちらを窺っている。え? 人を傷つけた覚えなんかさらさらありませんが、というお顔なのでここははっきり言ってさしあげようかな。
「なにしろ美しい人、優れた人は、その存在だけで人を傷つけることがあるからね」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。誰かに『この人のようであったなら良かったのに』って思われている人は、もしかしたら意地悪や卑劣な振る舞いで意図して人を傷つけている人達よりも、多くの人達を深く静かに傷つけているのかもしれないな。修理だってそうだよ。修理に憧れても、修理のようにはなれない人、修理を愛しても、修理の愛は得られない人、そうした数多の人々を——」
「『われもまたかくもあらばや』と感じるような人を見て、自分はそうではない、私は足りていないと絶望することだったら、俺にもあるよ。というかそんなことばかりだ」
「修理ですらそうなんだね。でも、そういう気持ちを修理はいっつも人に与えているよ。いたるところで」
「でもそれは……」
「そうだね、別に修理が悪いというわけではない。まあ、誰かを陰で泣かせていたってことでいえばお母さんも妙さんも修理のことはあまり責められないと思うよ。大学時代にだって、何人の男を公然と、あるいはいんぜんそでにしてきたものやら。お母さんも妙さんも、まったくモテませんでした、知らない人から告白されて困ったことなどありません、などとは噓に罰があるなら言うまいね」
「モテてたのは汐路の方よ」
「あれは数学科に女が四人しかいなかったからだよ、妙の方がモテてたろ?」
「駄目だよ、そんなところで譲りあったって。勇気を奮って告白した人、とうとう想いを口に出せなかった人、ただずっと遠くから眺めて溜め息を吐いていた人、そうした幾多の死屍累々の上をお父さんや算哲さんの車輪は踏みつけていったんだから」

 母が佐江を宥めている間に、妙さんが新しく紅茶を点ててくれた。裁判だか学級会だか知らないが、なし崩しに終わりになったような感じなのかな。佐江はまだ目を腫らしているし、当初の議題にさほどの進展もなく、なんとか原告の方の過去の罪状を引きずり出して、四方痛み分けみたいな形になったが、これで逃げ切れただろうか。
 修理と真理はこれからどうする積もりなのか、この場で決めなさいなんて仮に言われたら困ってしまう。まあ、取りあえず現状維持でどうでしょうというぐらいで、なにしろ先々の見込みなんて当人としては、なんらの積もりもなければ目盛りもありゃしない。
 母はソファに佐江と並んで肩を抱き、佐江は鼻をんでまだ顔を伏せていた。私はミルクピッチャーを温めてきて、濃いめに淹れたウバ産のセイロンティーを注いでまわる妙さんの後ろでミルクを回した。その流れで、汐路、佐江の岩槻組と、妙、真理の元嵯峨野組が、ローテーブルを挟んで対峙するかたちになった。修理は横に外れた席で、間に挟まって所在なげにしている。「僕のせいではない」などと正論を嘯いてみたものの、やはり妹分の身も世もないりゆうていには罪悪感を覚えたのか、席を立つことは控えて黙って座っていた。足下ではタビ氏が腹を見せて寝転がり、修理は足を組んで浮かせているほうのつま先でタビ氏の腹をぎゅっぎゅっとマッサージしている。
 岩槻組の汐路は、私と修理を見比べるようにして、はぁと吐息をついて呆れたというように目を逸らして見せた。
「ほんとに佐江の言う通りだね。隙をみせるといちゃいちゃして……」
「別にいちゃいちゃしてませんけど」
「してるよ。ちっさいときからそうだった。黙って座ってるだけでなんか空気があるんだよ」
「そんな、空気って言われても……」
「佐江、もういい加減諦めな。あれ、どうしようもないよ。隙間ないよ」
「じゃあなんで別れたんだよ……」佐江は顔を伏せたまま力なく言った。
「それはなんというか……前にもさんざん説明したけれども……あの頃はね、このままじゃ駄目だなっていう、もう無理感——みたいなのが確かにありまして……」
「だったらすっぱり別れていればいいじゃない……なんだって……」

 珍しく修理が口を挟む。
「佐江ちゃん、それは大目にみてよ。父さんが亡くなってから、世をはかんで無気力無感動になっていた母さんを支えたのは真理だったんだ……俺一人じゃ支えきれなかった」
「それは判るけど……」
「そんなに頼りにしてるんなら、もう家族も同然じゃない。いっそまた一家を営めばいいじゃない。やっぱけじめをつけて再婚しろよ」母はやっぱり、中途半端が許せないという姿勢を崩さない。
「それは……なんというかですね、今ぐらいの距離感がちょうどいいというか……わりに現状の方がいい感じといいますか……無理に密度を高めると、その、水槽の魚もですね……」
「何が距離感だよ。何が密度だ。密度がどうとか言ってたら、うちんとこの生徒なんかもう共食い始めてるわ! 再婚出来ない然るべき理由があるんならあるで、せめてちゃんと説明しなさいよ!」
「ええと……なんというか……たいへんややこしい話と言いますか、私の個人史にまつわる懊悩といいますか、煩悶といいますか……解消しきれない個人的な屈託がありましてですね……この辺の事情というか、説明しづらい複雑な機微につきましては追って手記……など物しますので、それをお待ち頂けないかと」
「手記? 再婚できない理由について手記を書くの? なに馬鹿なこと言ってんだよ、真理は」
 馬鹿なこと言ったなと、思ったよ、私も!
「妙は再婚されちゃ困るわけじゃないんでしょ?」
「え、別に歓迎するけど? でもこれは真理ちゃん次第というか……真理ちゃんにもいろいろあるから」
「いろいろあるとか、複雑な機微とか、手記にしますだとか、ぐだぐだ半端なことを言ってんじゃないよ、これだから文系の連中は駄目なんだよ。ここまでは明らかですってことをすぱっと言えないの?」
 おや、ここで唐突な文系ディスリスペクト。気がつけば理系席と文系席に二手に分かれている。なるほど修理は真ん中に座っている形だ。修理、あんたはどっちの味方なんだ? ふと隣を見ると、目を伏せた妙さんが茶碗をそっとテーブルに置いてから、母の方をまっすぐに見た。かっちーんとスイッチの入る音が聞こえたみたい。
「汐路。あなた時々、そうやって理系特有の『上から感』みたいなもの出してくることあるわよね」
「やめません? 文系とか理系とか、そういう不毛な……」取りなす私。
「くだらない」切ってすてる修理。
「修理も今では文系の仲間か!」煽る母。ポケモンバトル、もうやめようよ、イワッキー。
「別に仲間じゃないけど。でも僕が数学科に進んだからって汐ちゃんの仲間になったわけじゃあないし、文転したからって裏切ったってわけでもないんだよ。『文系の仲間』だって? 馬鹿ばかしい」
「お母さんにとっては文系っていうのは要するに、『数学を諦めた』生徒さんのことなんだよね、進路指導の実務上。数学科主任としても、国立理系強化コース担当としても、主観的には『もう数学をやらないことにした子達』のことを特に区別して『文系』って称しているわけじゃない。どうしても蔑称のきらいがでてくるんだよ」
「まあ、実際問題、理系選択の学生の方が平均的に優秀なのは事実だしな」
 あれ、修理、あんたはどっちの味方なんだっけ? いや、いけないこの発想は。味方もへったくれもないだろうという趣旨だったっけ。
「いろいろな事情だの、複雑な機微だの、訳の分かんないことにいつまでもぐずぐずかかずらっているから、私だって真理が嫁なんだか出戻りなんだか判らなくって、今後どうなっていくのか気掛かりでならないんだ。どうしてそういう周囲の心情の機微だけは放ったらかしなんだよ、何のための文系だよ、作者の気持ちだけ分かってりゃいいのかよ!」
 おおっと来ました、文系ディスりの伝家の宝刀「作者の気持ち」。汐路の煽りは全開だ。
「真理ちゃんにも私にも、いろいろ複雑、としか言えない辛い状況があったのよ、それにかまけてなにもかもぐだぐだのまま、なんだか放置療法でやってきちゃったみたいな部分はあるから、まあ、反省はしてるわよ。でもそんなの仕方ないじゃない。あなたはいいわよ、汐路。良治さんだってまだお元気じゃない。私はっ……算哲さんはっ……」
 あっ、不味い流れだ。妙さんが泣き出してしまう。

「修理、話題を変えて、話題を」
「実際には作者の気持ちを問う問題なんかどこでも出題されてなんかいないよね」
 そこじゃないだろ、そこじゃ。
「あの『作者の気持ちを答えよ』っていうのは、文系科目のくだらなさをき下ろすのが目的の、ためにする議論というか、実際には存在しない架空の設問だ。ねつぞうされた文系像なんだよね」
「そうなの?」妙さんが涙を拭いている。意外や意外、強引な方向転換だったが奏功してる。
「母さん、英文科だろ? 作問コンペとかなかった?」
「作問? 入試問題の? うちはなかったかな、問題作る人は決まってたかも」
「私んとこはあったよ。教授が言ってた」
「そうか、真理んとこは日文か、そっちだと先生は国語の作問コンペ担当だよね」
「教授会の下に作問委員会みたいなものが組織されるんだってさ。各教授が専門分野に合わせて、現代文、古文、漢文の大問の候補を出して、委員会で『選考』するんだよ、だいたいそんな話だったかな」
「国立二次の問題作成もだいたいそんな流れだよ。それで当然、大学側は受験生に何を問いたいかっていうことを委員会の事前会議で予め策定するわけだよ」
「学内で競作するのか。高校の定期テストとはやっぱり訳が違うんだ」と母。作問経験ということでいうと、高校教師として科目担当のある、うちの父か母が一番数をこなしていそうだ。
「受験生に何を問うかは結構自覚的なもので、作問者からのメッセージというか、作問委員会のコンセンサスとなっているテーマみたいなものがあるんだよ」
「作問者がメッセージを送るの? 受験生に?」
「受験生ばかりじゃなく、高校生全体にくわえて、教員や、ひろく受験産業ぜんたいに向けたメッセージだね。例えば数学の問題では割と見逃せない有名なジャンルとして、『定理の導出』っていう出題ジャンルがあるよ。Xのn乗の微分公式を導出しろとか、加法定理を証明しろとかね」
「よくあるね。あれはいい問題だよね」と数学教師は頷いている。これは実際に導出が出るんだからなっつって授業やってるんだろうな。
「文系科目だって同じなんだよ。例えば現代文や英語長文読解の問題なら、作問コンソーシアムの共通了解は、課題テクストの論理構成にどこまでぴったり寄り添えるか、ってことだ。解釈や趣旨を問う問題だって、それが答えだという根拠が本文に果たして在るのか、在るとすればどこに在るのか、それを探させるということに尽きる。問題と正解の客観性は、本文のなかに具体的、客観的にその答えが書きこまれているということによって担保するしかない」
「まあ、そう言うよね」私は割と感覚的に解いちゃうほうだったけど……。
「それを何となく気分で解いておいて、問題の焦点を明らかにしておかない、それでいて文系科目の問題は『曖昧で、客観性を欠く』とかって勝手に思い込んでる……そういう何も分かってないで殊更に文系を嘲りたがる自称理系のまあ多いこと」
 どうしてそう全方位を無意識に煽っていくんだよ。ド文系のこっちまでそばづえを食ってるんだけど。
「なにそれ、誰のことよ、修理、いけず言うならはっきり言わんかい」
 ほら、修理が挑発するから、また『仁義なき戦い 広島死闘篇』みたいになってるよ。話題を変えたはいいけど、間違った方向に踏み込んじゃったな。
「すっかり文系の風に染まってからに……」
「そんなこと言うなら汐ちゃんこそ理系の悪弊に染まってるよ。こんなの理系も文系もないだろ。仮に入試問題学なんていう学問があったとしたら、それに照らして汐ちゃんの言ってることは非科学的なんだよ。有り体な風評の尻馬に乗って文系を馬鹿にしてるだけじゃないか。文理の別いぜんの問題じゃないの」
「私だってそんなことはどうだっていいんだよ、入試問題学も文理の別もどうだっていい。私が言いたいのは、修理も、真理も、それから妙も! なんだか、結託してあいまいな状態にすっかり慣れちゃってさあ、そりゃ佐江だって振り回されるし、私だってやきもきするって言ってんだよ。だいたい真理のことだって元はといえば修理が泣かせていたんじゃないの?」
「いや、お母さん、それはですね……」
「言うに事欠いて、なにが非科学的だよ、仮に岩槻家女子学って学問があったとしたら、修理、あんたは赤点だよ! 再履修!」
「……汐路、私は?」
「妙も再履修!」
「えぇ……」
「お母さん、妙さんは及第でいいじゃない、妙さんが私の心の支えなんだけど……」
「なに採点側みたいな顔をしてるんだ、真理も落第だよ! こうやって親に言いたくないことまで言わせて……それでなんだ、手記をどうするんだって?」
「手記のことは忘れてよ……」
「はあ……どうしてこうひとの気持ちをないがしろにして平気な子達になっちゃったんだか、妙が甘やかすからじゃないの?」
「……そんなぁ」
「僕だって、ひとの気持ちを考えたりはするよ。分かるとまでは言わないけど」
「そういう端から諦めたような態度が良くないね。分かるまで考えなさい」
「そういうけどさ、それは究極的には分からないものじゃない?」
「究極的なところで分からなくったっていいんだよ! ただもうちょっとの理解があれば」
 あ、それはそうかも。お母さん、いいこと言う。修理は「原理的には無理」とかって割り切り過ぎなんだよな。母はさらに追及の手を緩めない。

「修理が優柔不断に思わせぶりなことをするから……」
「汐ちゃん、僕は思わせぶりなことなんかしてないよ。佐江ちゃんにだって誠実に対してる」
「その割には姉の方と別れたり、いちゃいちゃしたり、ふらふらしてるじゃないか」
「仕方ないじゃないか。真理が別れたいって言うものを『駄目です』とは言えないだろ」
「真理が結婚したいって言ったら結婚して、別れたいって言ったら別れるのか」
「それはまあ……まあ、そうだよ。現象だけ見れば」
「なにが現象だよ、お前の意思ってものはないの? 修理はそれでいいの?」
「僕にだって意思ぐらいあるよ。でもそればかりを通すことはできない相談だろう」
「そうやって四角四面なことばっかり言って。修理は私の気持ちが本当に分からないの? 修理の気持ちが聞きたいって言ってるんだけど?」
「気持ち、気持ちって言うけど、そんなの分からないよ。想像するしかないじゃないか。それで想像してしつとうだったら、それはそれで分かってないってことになるんだろう? そういう意味で言えば僕は人の気持ちなんか分からないし、知らないよ。はっきり言ってもらわなかったら分からない。言われたことしか理解できないし、理解しない」
「開き直りか、傲慢だな、修理」
「汐ちゃんこそ、そうやって僕に『理解』を押し付けてるじゃないか、それこそ傲慢だよ。むしろ僕は僕なりに、誠意を尽くしてる」
「お母さん、もうこんな押し問答やめようよ、修理もさあ……」
「ほんとに人の気持ちなんかどうでもいいんだね。『作者の気持ち』もどうだっていいし、気持ちなんか、なにもかもどうでもいいんだ?」
「そんなこと言ってないじゃない、もういいでしょ、お酒も入ってないのによくそんなに絡めるね、もうやめてよ、イワッキー」
「なんでお前にイワッキーなんて言われなきゃいけないんだよ、お前もイワッキーだろうが」
 そういえばそうか。
「気持ちなんかどうでもいいって言うんなら、何のための文系なんだよ!」
「あのさぁ、言ってるだろ、汐ちゃん、別に文系は『お気持ち忖度』の学問じゃないんだよ」
「お母さん、そこまで怒ることではなくない?」佐江まで諫言に及びはじめている。
「っていうか、自分の納得のいかないことを全部、勝手に矮小化した『文系』におっかぶせるのやめてくれないかな。なんの意味があるんだよ」

ここから先は

8,341字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!