一穂ミチ「アフター・ユー」#008
青吾の脳裏に、ゆうべのちいさなパブがよぎる。あのカウンター席で、出口重彦が浦誠治に酒を飲ませている光景が浮かんだ。口元にウイスキーか何かが入ったグラスを押しつけ、気さくなそぶりでがっちりと肩を抱えて逃がさない。ふたりの顔は「おじかだより」で見た写真と同じモノクロで、カウンターの向こうにいるレイカの姿は全体にモザイクがかかってぼやけている。青吾と最も関係の深い人間の顔だけがわからないなんておかしな話だ。
「口封じに殺された可能性もあるってことですか?」
刑事ドラマみたいに現実離れした台詞が自分の口から出ていることが今でもふしぎでならない。平凡で平坦で、でも多実がいてくれるから寂しくはない人生を送っていくはずだった。それらはすべて、オセロの盤面みたいに残らずひっくり返され裏返っている。
『あくまで可能性ですけど、そう考えた人は当時もいたでしょうね。きのう見た「おじかだより」覚えてます? 一九九二年の十一月号。いちばん大きな記事が、遠鹿町歴史民俗資料館開館三周年についてで、浦誠治さんの追悼記事は終面にちいさく……単なる偶然で、誰の意図も働いてなかったんでしょうか』
写真の中で晴れやかに笑っていた出口重彦の心中はどのようなものだったのか。そして、あの号を浦や波留彦は、母はどんな思いで見たのか。やばいです、と沙都子がこぼした。『一度もお会いしたことがないし、実際どんな人だったかなんて知る由もありませんけど、夫の父をどんどん嫌いになっていってます。まあ、愛人を囲ってたっていう昭和っぽいエピソードの時点で引いてましたけど』
ならば出口重彦の愛人であり、今は刑務所にいるらしい母を、自分はどう思えばいいのだろう。恨んだことがないと言えば噓になるが、「なぜ」と積み上がる疑問符にはまだ好きとか嫌いの色がついていない。母の過去を知りたいというより、母を知ることで何らかの色が欲しいのかもしれなかった。美しく澄んだ色彩ではないとしても。
「それにしても、そんな物騒な話まで池田さんの耳に入っとったんですか。大人になってから思い返せば……ということもあるにせよ、子どもに絶対聞かしたらあかん話題のような」
『あ、違うんです。犯罪の匂いがするくだりは、また別の方からの情報で』
波留彦のパソコンから首尾よく手がかりが得られたのだろうか。誰ですか、と訊こうとした時、ふと視線を感じた。振り返ると、すこし離れたところに浦が立っていた。距離は二十メートルほどだろうか、向こうも明らかに青吾を見ている。「すいません、またかけます」と急いで電話を切ってから、挙動が怪しすぎると後悔したが手遅れだ。物騒な単語を聞かれてしまっただろうか? 大声を出していたつもりはなくとも、静かな夜の島で思ったより響いていたかもしれない。もし何か訊かれたら、映画やドラマの話題です、でごまかせるかどうか。浦はゆっくり近づいてくると、いつもの気さくな笑顔で「散歩ですか?」と話しかけてきた。
「あ、はい」
「夜は涼しくて気持ちいいですよね。すみません、お電話の邪魔しちゃいましたね」
「いえ……会社からで、こっちも切りたかったんで」
その程度の噓にさえ、舌が急速に乾いていくのを感じた。犯罪なんて大それたまねはとてもじゃないができそうにないなと思う。母は違ったのだろうか。
「こんな時間にですか? ブラックですね」
浦が冗談めかして言った。
「まあ、タクシー会社なんで普通の企業とは違うかもしれません」
「あ、そうでしたね」
「浦さんは……」
「私も散歩です。ここは店も人も夜が早いんで、時々目が冴えてしまって。で、穴場もいろいろ知ってるはずなのに、なぜかここらへんに足が向くんですよ」
その時、浦の目は手向け花があったところを見ていたような気がした。青吾はさりげなく視線を逸らす。「じゃあおやすみなさい」と切り上げたほうがいいのだろうか。適切な立ち回り方がわからずただ突っ立っていると、浦はそんな青吾を見て気が抜けたように笑う。
「子どもの頃、夜中に家を抜け出してハルと歩いたことがありました。あいつが小三で私が中一だったかな。あいつが『ドラえもん』に感化されたんです。のび太が眠れなくて夜の町をひとりで散歩するシーンがえらく気に入ったみたいで。でも、本当にひとりでうろつくのは怖かったんでしょうね、私もつき合わされて。真冬で、星が特別きれいでした。星空なんか見飽きてたはずの私もあいつも、立ち止まってしばらく天を仰いで……」
遠い記憶をなぞるように夜空を見上げ、違うな、と言いたげにかぶりを振った。青吾からすれば、贅沢としか言いようのない星の海が広がっているのに。
「ハルがはしゃいで『この島全部俺のもんのごたる』って言ったんです。私はつい『そのうちそがんなるやろ』と返してしまいました。そうしたらハルは、さっきの川西さんみたいにちょっと困ったような、どうしていいのかわからない表情になって……すぐに後悔しました。まだ夜道もひとりで歩けないちびが、自分には想像もできない荷物を抱えていることを、あの時一瞬で理解したんです」
「……ほんまに、波留彦さんと仲がよかったんですね」
浦はわずかに首を傾げた。何か含むところがあるように思われたのかもしれない。慌てて「ちょっとふしぎで」と言い添える。「全員が顔見知りで親戚みたいなもんとはいえ、子どもの頃の四つ違いって結構な差ですよね」
「ハルはいいやつなんです」
さりげないが、真摯さのこもった言葉だった。温かな丸い石を手のひらにぽんと載せられたような気がした。
「それだけです……すみません、川西さんに言うのは無神経でしたね」
「いえ」
おやすみなさい、と浦が踵を返し、背中が見えなくなってから青吾も歩き出した。宿には戻らずそのまま電話ボックスに向かう。午後十一時過ぎ。多実と話せるだろうか。外側からボックスにもたれ、また夜空を見上げる。散歩の思い出は、今はもう浦の中にしかないのだと思うと、青吾まで寂しくなった。浦の父親がグレーな死に方をした時、ふたりの少年は何を思い、何を語ったのか。じっと目を凝らしていると、墨色の空に次々と淡い光が浮かび上がってくる。今は闇にしか見えない部分にも本当は無数の光が瞬いているのなら、暗い場所なんてないのかもしれない。自分の視力の限界があるだけだ。
日付が変わると中に入り、いつもの十一桁をプッシュする。数回の発信音のあと、多実の声が聞こえてくる。そこは、暗いんか? こうして声が聞けるだけでもありえないことなのに、今の多実と普通の会話ができたら、と思わずにいられなかった。
『もしもし? あの、初めて利用させていただくんですが、名前とかは名乗らなくて大丈夫ですか?』
多実はすこし緊張しているようだった。そして、相手は青吾ではない。
『刑事事件に関することでもいいですか? ……ありがとうございます。実は知り合いが今服役していて、面会をしたいんです』
母のことだとしか思えない。いつ頃の多実なのか定かでないが、わざわざ興信所に頼んでまで青吾の居場所を突き止めたのと何か関係があるのか。
『親族ではなく、古い知り合いで……いえ、出所後のサポートとか、できることならお手伝いしたいんですけど……』
言葉を切り、一度ぐっと息を吞んだ気配が伝わってきた。
『無期懲役なので、いつ出てこられるかわからないんです。……はい、というか、そもそもどちらの刑務所にいらっしゃるのかわからなくて。そういうのは、どこかに申請したら教えてもらえるんでしょうか。有料相談に伺ったほうがいいですか?』
ややあって、多実の沈んだ声が聞こえた。
『そうですか……わかりました、ありがとうございました』
ぷつ、とどことも知れない場所との通信が断たれる。残りの度数は33。青吾は情報を整理しようと試みる。①一九九一年。青吾を置いていった後、母——徳永久美子が遠鹿島にやってくる ②一九九二年十月五日か六日。波留彦の父と反目し合っていた浦の父親が不審死を遂げた ③一九九三年五月。多実が遠鹿島に来て、波留彦とレイカこと徳永久美子に出会い、交流するようになる。九月、徳永久美子は東京で放火殺人を犯し、その後無期懲役が言い渡された ④二〇〇四年。遠鹿町の佐世保市への編入を問う住民投票が実施され、僅差で独立路線決定。
年表の空白がすこしずつ埋まっても、何ひとつわかった気になれないのは、当事者の口から何も聞けていないからだろう。ハードがあってもソフトがない。出会って日が浅い浦に突っ込んだ話などできようもない。青吾の背中を押しているのは多実との電話だけだった。多実と話せるうちは、過去を辿ることを望まれている気がするから。ボックスを出て再び夜空を見上げたが、光に慣れた目はまた星を見つけられなくなっていた。多実の声より、「ハルはいいやつなんです」と現在形で語った浦の言葉が耳に残って離れなかった。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!