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一穂ミチ「アフター・ユー」#007

波止場の隅に手向けられた花束。誰かがここで亡くなっているのではないか? 沙都子の勘は果たして当たりだった

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「ほな、あの花束は……」
 が言葉の続きを引き取った。
うらさんが、ご自分のお父さまにけたもの、だと考えるのが自然でしょうね」
 翌日、翌々日と新聞をめくり、念のため一週間先まで記事をチェックしたが、続報は見当たらなかった。
「事件性がなかったとすると、事故か自殺……まあ、遺書でもなければ本当のことはわかりませんよね」
 沙都子のつぶやきは、今の自分たちにも当てはまる。そうだ、なぜ今まで考えなかったのだろう。ひこも、何か苦悩を抱えていて、その苦しみによって繫がり、ともに死を選ぶと決めて落ち合ったのだとすれば。海が荒れたのは単なる偶然で、最初から戻るつもりはなく、救命胴衣も積まずに出航したのだとすれば。全身の血液が鉛でも混ぜられたようにもったりと鈍く重たく、そしてつめたくなった。
 けれど、多実の最後の言葉を思い出す。
 ——お土産、楽しみにしてて。
 出会いから仕組まれていたらしくて、多実はずっとせいに何かを隠していて、それでも、あの言葉は噓じゃない、と思えてならない。帰ってくるつもりだった、という希望的観測にしがみついているだけだとしても、あの朝の多実の、すこし弾んだ声が青吾の血流を正常に戻してくれた。
「やっぱり、困った時の『おじかだより』ですね」
 言うが早いか沙都子は立ち上がり、もはや見慣れた感のあるぶ厚いファイルを抱えて戻ってきた。
「新聞の日付が一九九二年の十月六日なので、その年の十一月号を見ましょう」
 該当の号のトップページは、「鹿じか町歴史民俗資料館 開館三周年を迎える」という見出しで、建物の前で満面の笑みを浮かべる、恰幅のいい男の写真が掲載されていた。
「これ、ひょっとして波留彦さんのお父さんですかね」
「おそらく。記事に書いてありますね、『いでぐちしげひこさんは、生家が町民の財産として活用されていることを喜び……』」
 波留彦より横幅は広いが、眉や目元の力強い印象がそっくりだった。俺は両親のどっちに似たんやろう、とふと思う。中をぱらぱらめくり、終面、つまり裏側に目的の記事を見つけた。
『浦せいさんを町議会で追悼』
 遺影を流用したのだろうか、真っ白な背景に笑顔を浮かべた男の四角い顔写真が載っている。こちらは、浦とはあまり似ていなかった。内容は、『先日亡くなった役場職員の浦誠治さんのお人柄と、島の振興に打ち込まれた生前の献身を偲び、町議会でもくとうが行われた』という当たり障りのないものだった。死因や死亡の状況についてはまったく触れられていないが、遺族の心情を思えば当然かもしれない。
「一応、両方ともコピーを取っておきましょうか」
 貸し出しカウンター近くのコピー機を操作していると、司書の女性が「お調べ物ですか」と尋ねてきた。「先日も、熱心に何か見ていらっしゃいましたよね」
 他意はないと思いたいが、探りを入れられている気がして口ごもってしまう。沙都子が「何っていうことはないんですけど」と穏やかに答える。「この島についていろいろ知りたくて」
「そうなんですか。ここにはいつまで?」
「あと一週間くらいでしょうか」
「そんなに……退屈されるんじゃないですか」
「いえ、とんでもない」
「何かお力になれることがあったらおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます」
 図書館を後にすると、沙都子は「あの教会に行きませんか」と言った。
「え、でも、鍵は浦さんが」
「実はわたし、先日中に入った時に、こっそり窓の鍵を一カ所開けておいたんですよ」どこか得意げに声をひそめる。
「えっ」
「金品があるわけじゃないし、元々誰も立ち入らないところですし、いいかなって」
「何のためにそんなことを」
「行きたい時にいちいち浦さんを通すのは面倒じゃないですか」
 もしばれたらどうするつもりなのか、訊きかけてやめた。答えはわかっている。きっと「謝ります」だろう。その時は自分が率先して頭を下げるしかない、と心を決め、森の中の教会に向かった。礼拝堂の窓を開け、靴を脱いで忍び込む時は緊張したが、畳に腰を下ろすと、どこか懐かしいような安心感を覚えた。多実が通っていたところだと思うだけで何となくほっとする。実家というのはこんな感じなのかもしれない。沙都子も座り、さっきの記事のコピーを広げて何やら考え込んでいる。
「何が引っかかってはるんですか?」
「単純に、何があったのかな、と思ってるだけです。この、港付近のスナックってレイカさんのお店だったのかなとか」
「浦さんのお父さんの死に、僕の母親が関わってるということですか?」
 ならば、母が犯したという放火殺人とも関連があるのか。正直、青吾には見当もつかない。これ以上母がらみで血なまぐさい話は勘弁してほしかった。
「それはわかりません。島の人も、思うところがあったとしても打ち明けてはくれないでしょうね。十年ならまだしも、十日ちょっと滞在するだけの旅行者には」
「自分らが知りたいことのために、何でもかんでも手当たり次第掘り返したらええっていうもんやないと思うんですよ」
 クルーザーの近くにぽつんと置かれていた、と呼ぶには素朴すぎる花。浦は、目立ちたくないのかもしれない。父の死を、それを忘れていない自分を、ひょっとしたら島の住民には知られたくなくて、それでも命日を無視できずに——三十年以上経っても——野の花を手向けずにはいられないのだとすれば。他人の古傷をいたずらにまさぐってしまったのではないかと今さらながらに後悔が込み上げてくる。
「そうですね。軽率だったかもしれません」
「あ、もちろん、出口さんを責めてるわけちゃうくて」
「いえ、わたしが言い出したことですから」
 沙都子は子どものように膝を抱えて丸くなった。「さっき、わたしが不用意に『自殺』って口走ったせいで、ちょっとぎくっとされてませんでした?」
「ショッキングな単語やったんと、ひょっとしたら多実も……って今さら想像してもうて。出口さんは考えてはったんですか」
「可能性のひとつとしては。夫が、そんなつもりのなかった多実さんを道連れに……とか」
 淡々と話す沙都子の足の指だけが、その仮説をいやがるようにぎゅっと縮こまっている。
「クルーザー一隻犠牲にして、捜索までさせてずいぶん大がかりな話ですけど。あるいは、沖合で突発的に及んだのか。ブラックボックスでしたっけ、飛行機に積んでるの。フライトレコーダー? ああいうのがあればよかったんですけどね」
「出口さんの中で、その可能性っていうのは、何%くらいですか」
「ゼロではないですね。ずるい答えかもしれませんけど。かわ西にしさんはどう思われました?」
「僕は……一瞬ぎょっとしましたけど、すぐに、ないな、と思い直しました」
「どうしてですか?」
「多実が、出て行く前『お土産、楽しみにしてて』って言ったんです」
「ああ、じゃあ、多実さんに関しては大丈夫ですね」
 すんなりと肯定され戸惑っていると、沙都子が「どうしたんですか」と苦笑する。「何だか残念そう」
「いえ、そんなもん根拠にならんって言われるんちゃうかと思って。警察にも一蹴されましたし」
「わたしも根拠はないです。直感で大丈夫って思っちゃっただけで。夫のことは、近すぎて見えてなかったかもしれないから何とも言えませんけど。こんな人だったのかってこの島に来てから何度も驚きましたし、もっとちゃんといろんなこと聞いておけばよかったって何度も後悔しましたし、何度も傷つき直してます」
 沙都子はそこで唐突に言葉を切り、畳の上の紙きれに指を這わせる。「そうですね、でも、やみくもにあちこち引っかき回してるだけなのかも。すこし冷静にならなきゃ」
「出口さんは何も悪くないですよ」
「きのうもちょっと言いましたけど、一度、東京に戻ろうと思います。いまわたしがいちばんに掘り返すべきは、やっぱり夫の私物だと思うので。それは、わたしに正当な権利があることだから。民宿のご夫婦にはわたしからお話ししますね」
 青吾は冷静に頷いたつもりだったが「ちゃんと戻ってきますから」と笑いかけられ、心細い表情をしているのかと自分が情けなくなった。彼女はあれほど苦手な船にまた乗らなければならないのに。やや強い口調で「ええんですよ」と言った。
「出口さんが、もし東京で気が変わらはったら、好きなようにしてください。僕に気ぃ遣う必要なんかいっこもないんです」
 沙都子は、ありがとうございます、と神妙な面持ちで答えた。

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