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【第1話無料公開中‼】矢月秀作「桜虎の道」#002

司法書士事務所で見習いとして働く桜田哲。不動産王・木下がなぜか彼に託した《秘密証書遺言》を巡ってそれぞれの思惑が動き始める……!

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 きのした邸から戻ると、から連絡を受けたあらかねありさかが待ち構えていた。
「おかえり。お疲れさん」
 荒金が声をかけてきた。
 さくらはへこっと首を突き出して頭を下げた。
 小夜は返事もせず、自席に戻ると、座って深いため息をついた。
 と、有坂がカツカツと革靴を鳴らし、桜田の脇に来た。
「いやあ、大変なことになりましたねえ!」
 大きな声で言い、桜田の肩を抱く。相変わらず、バカにしているのかなんなのかわからない笑顔だ。
「みんな、ちょっと集まってくれ」
 尾見が声をかける。
 座っていた荒金が立ち上がる。小夜もだるそうに立って、オープンスペースにある円卓に向かった。
 所長や所員同士の打ち合わせは、主にこのスペースで行なう。
 円卓の手前半分を囲うように、桜田たち所員四人が座り、対面の真ん中に尾見が腰かけた。尾見は一同を見回した。
「木下氏の遺言書の件だが」
 尾見は向かって右端に座っている桜田に顔を向けた。
「なんか、すみません……」
 猫背でうつむき、ちらっと尾見を見やる。
「桜田君が謝ることはないですよ。依頼者の要望ですから」
 左端にいる荒金が桜田を見て微笑む。尾見が受ける。
「荒金さんの言うとおり、依頼者が君に預かり証を預けるという契約だから、その通りに契約は履行する」
「ですが、所長。事務所が預かるならまだしも、第三者の一個人が預かるというのはどうなのでしょうか?」
 小夜が口を挟んだ。
「今後もこうしたケースが出てきた場合、所員個人の負担となります。万が一、トラブルが起こった時も、責任を負わされるのは所員個人です。一人で事務所を切り盛りしている司法書士ならまだしも、在籍している司法書士、まして見習いにそこまでの責務を背負わせるのは少し違うと思うのですが」
 小夜の言葉がキンキンと響く。彼女にとっては、とても不安な事態らしい。
「僕も、吉永さんに同意します。さすがに依頼人の財産を第三者の個人が預かる責任はないと思いますけどねえ」
 そう言い、有坂はちらりと桜田を見た。それもまた、桜田を信頼していない不安げな眼差しだ。
 桜田は胸の内で苦笑いを浮かべた。
「今回は、うちの事務所設立当初からお世話になっている木下氏の依頼なので受けた。今後は、ある一定のルールを作り、それに則って判断するようにしたい」
「特例というわけですか?」
 小夜が尾見を見やる。
「そういうことになる。以降、例外は認めない」
 尾見が言い切る。
 所員一同、納得したようにうなずく。
「そのルール作りは、今後進めるとして。今回の依頼は遂行しなければならない。荒金さん」
 尾見が荒金を見てうなずく。
 荒金は立ち上がり、自席へ戻った。
 印刷した紙を人数分持ってきて、それぞれの前に置く。
 桜田はプリントを手に取って見た。
 木下よしの簡単な家系図だった。
 荒金がホワイトボードの前に立った。
「これは、木下氏の遺産相続に関係する人たちの家系図です。急ごしらえなので簡素ですが、とりあえず事は足ります」
 荒金は話しながら、ホワイトボードにプリントと同じ家系図を描いた。
「木下氏の両親、奥さんはすでに他界されています。なので、相続の第一順位は、長男のよしひさ氏、次男のはる氏の二名となります。基本、このお二方にトラブルがなければ、木下氏の遺産は兄弟で二分割することになります。義久氏、春人氏にはそれぞれ子供がいますので、お二方が死亡された場合、木下氏の孫にあたる子供たちが代襲相続権を得ることになります」
 荒金がすらすらと説明していく。
 代襲相続権というのは、相続順第一位の実子である息子などが被相続人より先に死亡していた場合、直系卑属である孫が死亡した親の代わりに財産を相続できる権利のことだ。
 木下家の場合、義久と春人の子供たちが、その代襲相続人にあたる。
「木下氏には妹さんがいますが、現状では相続権はありません。義久氏、春人氏のご家族全員が死亡、もしくは相続放棄すれば相続する場合もありますが、限りなく可能性は低いと思われます」
 荒金は時折、桜田に顔を向ける。これが、桜田に向けての説明だということがわかる。
「他、相続の可能性があるのは遺言に記された人物ですが、それはわかりません。以上が、今回の木下氏の秘密証書遺言に関する概要です」
 荒金は一礼すると、席に戻った。
「荒金さん、ありがとう」
 尾見が立ち上がる。
「補足すると、遺言に分割指定や財産処分が記されている場合もある。把握できている木下氏の資産総額はおよそ二十億円。中身次第では、相当揉めることもありうる」
 桜田を見る。
 桜田はうつむいて、ため息をついた。
「そこで、トラブルが起きた場合に備え、義久氏と春人氏の現在の財政状況、両名及び家族の交友関係等を大まかでいいので調べておいてもらいたい」
「私たちがそれをするということですか?」
 小夜は尾見を見た。
「そうだ」
 尾見が答えると、小夜はあからさまに桜田を睨んだ。
 俺のせいにされてもなあ……。
 桜田は腹の中でぼやいた。
「吉永君は長男義久氏、有坂君には次男春人氏の周辺を調査してほしい」
「僕もですか!」
 有坂が目を丸くした。
「もちろんだ。二人とも、手すきの時でいいので、調べられるだけ調べてほしい」
「荒金さんは?」
 有坂が訊く。
「荒金さんには、木下氏の所有する不動産とその周辺の土地関連のことを調べてもらう」
「あの……」
 桜田が顔を上げた。
「僕は何をすれば……」
「君は預かり証をしっかりと預かっていてくれればいい」
 尾見が言う。
 小夜と有坂が桜田に目を向ける。責めるような視線が痛い。
「僕も調査します。いや、吉永さんも有坂さんもご自分の仕事があるでしょうから、僕一人で——」
「君は普段の仕事をしながら、しっかりと預かり証を守っていればいい」
 尾見が桜田を見つめる。その眼力は強い。
 おまえは動くな、と無言の圧がかかる。
「ということで、みんな、少々手を煩わせるが、よろしく」
 一同を見回す。
 荒金は静かにうなずいた。小夜と有坂は渋々といった感じでしゆこうする。小夜はそのあと、桜田を睨んだ。
 桜田は申し訳なさそうに肩をすくめた。

 木下義久は久しぶりに父・義人の私邸を訪れていた。
 義久は父の事業を受け継ぎ、木下ビルの運営を一手に担っている。
 株式会社木下ビルは、主にきちじようからはちおうまでの地区にオフィスビルを展開していて、芸術・文化施設、イベントスペース、駐車場なども運営している。
 また、都下での再開発案件にはコンサルタントとして関わっていることも多い。
 多摩地区の総合ディベロッパーとしては最大手だった。
 義久は、父・木下義人とリビングで向き合っていた。オーバルのテーブルには、いのりが持ってきたコーヒーが二つ置かれている。
「ビルの稼働率はどうだ?」
 木下が訊いた。
「コロナ騒動も収束しつつあって、企業はオフィス回帰しています。空きテナントも埋まってきていますよ」
 義久は答え、コーヒーを含んだ。
「開発は?」
「今、くにたち駅前の開発にコンサルタントとして入っています。国立の開発が進めば、近隣整備も始まりそうで、周辺地域からもぼちぼち話が来ています」
「文化施設は?」
「イベントも解禁されたので、一気に予約で埋まりました。来年春まで、スケジュールはびっしりです。人件費高騰を理由に、賃貸料も値上げしたので、コロナ禍での損失は一年で取り戻せそうです」
「そうか。順調だな」
 木下はうなずき、カップの載ったソーサーを手に取った。太腿にソーサーを置き、カップを取って、コーヒーを飲む。
「春人の方はどうしている?」
 義久を見る。
「さあ、どうなんでしょう」
 義久はしらっと返した。
 木下は、後継に長男の義久を据えた。その際、義久には春人を取締役として迎え、兄弟で力を合わせて、次世代の木下ビルを盛り上げてほしいと言い含めた。
 しかし、親の願いもむなしく、権限を委譲して一年も経たないうちに、義久と春人はたもとを分かった。
 義久は幼い頃から何事も計画的に進め、自分の決めた道を着実に歩く人物だった。
 かたや春人は、思いつきで突飛な行動を起こす人物。多くは周りに迷惑をかけっぱなしの行動だが、中には、周囲を驚嘆させるほどの大胆な変革を成し遂げることもあった。
 木下は、義久と春人が両輪となって会社の運営にあたってくれれば、将来さらに発展を遂げるだろうと思っていたが、やはりというか、予想通り、二人は経営方針を巡って決裂し、義久が春人を追い出す形でけりがついた。
 会社を離れる際、義久は春人に、会社が所有する吉祥寺にあるビルを一むね、譲渡した。手切れ金のようなものだ。
 春人はそこを活動拠点とし、イベントプランナーや、サロンのような会員制クラブの運営などをしていたが、あまりうまくいっていないようだった。
 義久の耳にも、春人の会社の経営状況は時折入ってくる。しかし、義久が資金援助することはなく、相談に乗ることもなかった。
「もう少し、協力してあげられんか?」
「父さん、春人のことはよく知っているはずです。僕と春人は合わない。春人に関われば、黒字転換した会社の足を引っ張るでしょう。約千人の従業員を抱える社長として、関わるべきではない相手です」
 義久はびしっと言い放った。
 木下はため息をついた。
 義久の判断はもっともだ。賢明だと思う。だが、そこに家族としての愛情を一片も感じられないのは、親にしてみればとても哀しいことだ。
 妻・はるが生きていた頃は、衝突すれど、まだまだ兄弟が手を取り合って、互いを助け合う場面もあった。
 が、春代が病死し、木下が仕事にかまけて家のことをおろそかにしているうちに、いつのまにか兄弟には修復不可能なまでの疎隔が生じていた。
 木下は事あるごとに、兄弟関係の修復を図ろうとしたが、徒労に終わった。
「今日来たのは、春人の件に少し関連したことなんだけど」
 口調がフランクになる。
「父さんの所有しているビルがあるだろう? あれ、僕に譲ってくれないか?」
 義久が切り出した。
「春人にビルをくれてやったのはいいんだけど、あのビルは吉祥寺駅近くで立地がよく、うちの稼ぎ頭のビルの一つだった。景気が回復してきた今、オフィス需要も高まっててさ。春人に渡したビルの利益分を補塡したいんだ。それには、父さんの持つ吉祥寺、たかたちかわの三カ所のビルをもらいたいんだよ」
 息子として、多少困ったふうに話す。
 木下はまた小さくため息をついた。
 義久は冒険をするタイプではないので、純粋に、会社の利益を考えて、木下個人名義のビルを受け取りたいと話しているのだろう。
 だが、それであれば、社長然とした話しぶりで経営に関する話をすればいい。
 にもかかわらず、こういう大事な話の時には親子を強調したがる。
 義久は堅実で、一か八かの勝負はしないので、会社を任せるには申し分ないが、いざという時の決断にどうしても保険をかけようとする。
 多くの場合、それは間違っていないが、会社の経営状況が急変した時や、突発的に大きなトラブルが起こった時、対処が間に合わないこともある。
 今になって、木下が所有する三カ所のビルを譲り受けたいと申し出てはいるが、本当はもっと早く、春人に吉祥寺のビルを譲渡したすぐ後にでも欲しかったのではと推察する。
 であれば、会社の経営状態も思わしくないのだろうと容易に判断できる。
 そうでないにしても、こうした申し出をするタイミングを誤れば、相手に勘繰られることになる。
 義久にはこのあたりの脇の甘さがあった。
「私がビルを渡さなければ、会社はたちまち傾くということか?」
 まっすぐ見据える。
「そういうわけじゃないんだけど」
 黒目が泳ぐ。
 木下は何度目かのため息をつき、顔を小さく横に振った。
「今は約束はできん」
「どうして?」
「どうしてもだ」
「他の誰かに渡す予定でも?」
 義久は口にして、あわててうつむいた。
「なぜ、そんなことを思う?」
 木下は正視した。
「いや……譲渡を約束できないと言うから」
 またしても、挙動不審になる。
 木下は視線を外して、カップを取った。
「ともかく、今は約束はしない。どうしてもということであれば、私のビル三棟が、春人に渡したビルの利益をどう補塡し、それが会社の利益にどう寄与するのか、データを持って話しに来い」
 コーヒーを飲み干し、テーブルに置き、立ち上がる。
「すまんが、これから出かけねばならない。時間があるなら、ゆっくりしていけ」
 そう言い、義久を置いて、リビングを出る。
 ドアの外にはいのりがいた。
「いのりさん。車を手配してください」
「かしこまりました」
 いのりはポケットからスマートフォンを出し、その場で車の手配を始めた。手際よく手配を終え、電話を切る。
「十分後にいつものハイヤーが到着します」
「ありがとう。私はいいから、義久をお願いします」
「承知いたしました」
 一礼し、リビングへ入っていった。
 一日か——。
 義久の態度を思い返し、遺言の情報が漏れていることを確信した。

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