苛烈な人生に翻弄される一人の男… 矢月秀作、新連載スタート!「桜虎の道」#001
プロローグ
「今日もこの時間か……」
桜田は、街灯の明かりの下で腕時計に目を落とし、ため息をついた。
桜田哲が勤務する尾見司法書士事務所を出たのは、午前一時を回った頃だった。
任されていた不動産登記がなかなか仕上がらず、仕方なく残業していた。
ようやく一案件は書き終えたものの、まだ抱えている作成途中の書類は山積みだ。
まだまだ残業が続くのかと思い、再び、大きなため息がこぼれた。
鼻をずり落ちてきたメガネを指先で押し上げ、猫背でとぼとぼと夜道を歩く。
司法書士事務所に勤めているが、まだ司法書士試験に合格しているわけではない。働きながら資格取得を目指しているところだ。
よって、給料は安い。タクシーで帰りたいと思うも、贅沢をする余裕はなく、電車がなくなった時はいつも三十分ほどの道のりを歩いて帰る。
体にはいいと割り切ってはいるけれど、雨の夜にひと気のない夜道を歩いていると、切なくなることもある。
今宵のように、春先なのに肌寒い夜も、なんとなく気分が沈む。
十分ほど歩いて、桜田は住宅街のはずれにある小さな公園で足を止めた。
一本だけある桜の木にぽつぽつと花が咲いている。公園に入って、誰もいないベンチに腰掛け、うっすらと浮かび上がる花を見つめる。
と、三人の男が桜田に続いて入ってきた。花を愛でる様子のかけらもない男たちだ。
三人はまっすぐ桜田に近づいて、ベンチを取り囲んだ。
龍の柄が入った金色のスカジャンを着た男が桜田の前に立った。
「おい、おまえ」
野太い声で呼びかける。
桜田は顔を上げた。横と後ろの髪を刈り上げて、上の髪だけ残す金髪ボックスヘアーの男が桜田を見下ろしている。
「尾見事務所のモンだな?」
「違います」
桜田は即座に答えた。
男たちは桜田の即答に面食らった。
司法書士事務所は、登記書類や裁判所などに提出する書類の作成を主な業務とするが、成年後見業務、相続・遺言書作成業務、多重債務者の救済業務なども行なう。
金絡みの相談事を扱うことも多く、たまに面倒な輩に絡まれることもある。
桜田は、そうした輩が目の前に現われた時は、基本、しらばっくれて逃げることにしている。いちいち相手にしていては、身がもたない。
桜田は男の顔から視線を外し、桜の花に目を向けた。
「おい、こら! 舐めてんのか、てめえ!」
ボックスヘアーの男は、桜田のスーツの胸ぐらをつかんで引き寄せた。桜田の体が浮き上がる。
「何するんですか! やめてください!」
男の手首を握って体を揺さぶる。
「僕は関係ないんですから!」
暴れるが、男の力は強い。
すると、右脇にいたスウェットのパンツにパーカー姿の男がベンチに置いたカバンを取った。
桜田はあわてて手を伸ばすが、届かない。
男はカバンを開けて逆さにし、中の物を足下にぶちまけた。
財布を取って、中を見る。カードと金を抜いてポケットに突っ込み、散らばったものをあさる。
その中に青い半透明のプラスチックのケースがあった。中に入っていたのは名刺だった。開けて、名刺を取り出す。
「おいおいおい、こりゃなんだ?」
ケースを持って、近づいてくる。
「尾見司法書士事務所の桜田哲。おまえ、桜田というのか?」
ケースをぐりぐりと頰に押し付け、こねる。
「いや、僕は佐藤です」
とっさに噓をつく。
もう一人のジーンズにトレーナー姿の男も落ちた物を見ていた。書類を取って、流し見る。
「署名欄に桜田ってのがいっぱい出てくるな。おまえが桜田じゃなかったら、なんでこんな書類を持ってんだよ」
トレーナーの男が書類を投げつける。
「それは、預かりもので……」
「もういいって、桜田」
ボックスヘアーの男が鼻先を付け、睨みつけてきた。
「おまえに頼みがあるんだよ」
顔を近づけたまま、野太い声で言う。
「おまえんとこで、多重債務者の救済やってんだろ。そのデータ、全部消してくんねえかな。おまえらが出しゃばってくるんで、こっちは商売あがったりなんだよ。うちの客に関わんないでくれねえかなあ」
「僕は、佐藤で……」
「いい加減にしろや、こら!」
ボックスヘアーの男が頭を引いた。思いきり、桜田の顔面に頭突きを叩き込む。
桜田のメガネが飛んだ。鼻頭が潰れ、鼻腔から血がしぶく。
「汚ねえな!」
男が桜田を突き飛ばす。
よろけた桜田の膝裏がベンチに引っ掛かり、すとんと腰を落とした。
桜田は顔を押さえた。手のひらを見る。真っ赤だった。
「血が……」
うつむいたまま、両手を見つめる。
「血……血……」
深くうなだれ、手を見たまま肩を震わせる。
それを見て、パーカーの男が左から顔を突き出した。
「ほらほら、逆らうからだ。法律かなんだか知らねえけどよ。オレらには法律もクソも関係ねえのよ。これ以上痛い目に遭いたくなかったら、オレらの言うことを——」
男が桜田の肩に手を載せた。
瞬間、桜田の左前腕が動いた。斜め後ろに拳が振り上がる。固めた拳の関節がパーカー男の顔面にめり込んだ。
不意な攻撃を喰らった男は、ベンチの背もたれを越え、地面に転がった。
「てめえ、何してんだ!」
ボックスヘアーの男が踏み寄ろうとする。
桜田は右脚を振り出した。靴底で男の左脚の膝関節を踏む。男は出足を止められた。
「あーあ……俺に血を見せやがって……」
桜田は血まみれの手で横髪を撫でつけた。血がワックスの代わりとなって、髪の毛が横に流れ、前髪の脇が上がる。
そのまま顔を上げると、桜田の髪はリーゼントになっていた。剃り込みの入った左の前頭部には、大きな花弁状の傷がある。傷は血を溜めて陰影を作り、まるで血を吸った桜の花のように紅く浮き上がった。
桜田がゆらりと立ち上がる。
ボックスヘアーの男は後退した。
桜田の顔は、先ほどまでの弱々しいサラリーマンのそれではない。両眼の目尻は吊り上がり、白目は充血して赤く光っていた。
「おまえら、わかってねえなあ」
桜田はボックスヘアーの男を見据えた。
「法律は一般市民だけじゃなくて、おまえらみたいなクズも守ってくれてんだよ。それもわかんねえのかなあ」
「やるってのか?」
ボックスヘアーの男が身構えた。トレーナーの男もボックスヘアーの男の脇に来る。
「やるってのは、どっちだ? 殴り合いか? それとも——」
桜田は顎を引いた。
「殺し合いか?」
眼力がこもる。
気迫に気圧され、二人は後ずさりした。
「うちが扱っている多重債務案件がおまえらの会社か仲間のものなら、さっさと手を引け。こっちは書類作るのもだるいんだ」
「ふざけやがって……」
トレーナーの男が駆け寄ってきた。
立ち止まり、右ストレートを放つ。
桜田は少しだけ体を右に傾けた。トレーナー男の拳が左耳の脇を過ぎる。同時に、桜田は右足を踏み込み、脇腹にボディーアッパーを叩き込んだ。
男が息を詰め、身を捩った。脇腹を押さえ、その場に崩れ落ちる。あまりの痛みに呻くことしかできず、こめかみからは脂汗が噴き出していた。
「弱えな、おまえら」
桜田は蔑むような視線をボックスヘアーの男に投げた。
「てめえ……」
男はポケットからナイフを出した。
「ここまでナメられたのは初めてだ。覚悟しろよ」
「何をだ?」
「ぶち殺す!」
男が腰を落とした。突っ込んでくる。
桜田は自分も前に踏み出した。
男は桜田が出てくると思わず、一瞬、足を止めた。
桜田は男の髪の毛を握った。前に引き寄せる。男の上体が前のめりになる。
男は苦し紛れにナイフを突き出した。
桜田は飛び上がった。左膝がナイフを握った男の右腕の上を滑る。膝頭が男の鼻に食い込んだ。
男の顔の真ん中がくぼんだ。
手を離す。
男の体が後方に飛んだ。手からナイフがこぼれる。背中から落ち、二回転して、仰向けになる。
着地した桜田はナイフを拾い、男に歩み寄った。脇にしゃがみ込み、男の肩を左膝で押さえる。
「ぶち殺すんじゃなかったのか?」
男の顎下に刃を当てる。
男の顔が引きつった。
桜田はポケットをまさぐった。ズボンの横ポケットにチェーンのついた財布が入っていた。
取り出して腹の上に載せ、中身を出す。
免許証があった。取って、見る。
「村瀬雅弘、三十二歳、現住所は東京都杉並区下高井戸な」
免許証を胸元に置き、スーツの上着の内ポケットからスマートフォンを出す。片手で操作し、写真を撮る。免許証を撮った後、村瀬の顔写真も撮った。
スマホを内ポケットにしまう。
「さてと。どうしようか。このまま顔の皮剝いじまうか、唇と鼻を削ぎ落とすか」
刃を少しだけ皮膚に押し付ける。
村瀬の顔が蒼くなる。
「おまえらさあ。俺をそっちに戻すんじゃねえよ。俺はもう、普通の生活ってのを堪能したいんだ」
村瀬の頭を平手で叩き、刃を顔から外して立ち上がった。
村瀬から離れ、カバンを拾った。落ちたメガネも拾ってかけ、あたりを見回す。
「あーあ、会社に出さなきゃならない書類を汚しちまって。また、書き直さなきゃならねえじゃねえか。自分の名前書くだけでも面倒なんだぞ、仕事の書類じゃねえから、まだいいが」
散らばった書類を集めながら、トレーナーの男やパーカーの男を蹴って回る。村瀬以外の二人の男の持ち物も探り、免許証で身元を確認した。
トレーナーの男は松原健一、パーカーの男は野中篤という名前だった。
「おまえら、来い」
桜田が鋭い声で命じる。
男たちはよろよろと立ち上がった。
「座れ」
顔でベンチを指す。
村瀬を中心に男三人がベンチに腰を下ろした。初めの勢いはすっかり影を潜め、背を丸め、小さくなっていた。
桜田は右手に持ったナイフを揺らしながら、三人を見下ろした。ポケットから自分のスマートフォンを取り出す。
「今から言う電話番号に、自分のスマホで一人ずつかけろ。0909127——。村瀬、おまえからだ」
桜田が言う。
村瀬は渋々、自分のスマートフォンを出し、言われた番号に電話をした。桜田のスマホが鳴る。
「切っていいぞ。次、松原」
桜田が命じると、松原も渋い顔をして電話をした。野中にも同様に電話を鳴らさせた。
三人の番号が入ったことを確認し、桜田はスマホをポケットにしまった。
改めて、一同を見回す。
「おまえらの名前と顔とヤサは押さえた。うちの多重債務案件で邪魔が入った時は、おまえらのせいでなくても、おまえらが邪魔したとみなして、一人一人潰しに行く。わかったか?」
桜田が言うと、お互いが顔を見合わせた。
「返事は!」
「はい!」
三人が背筋を伸ばし、同時に声を張る。
「それでいいんだよ。素直になりゃ、普通に生きられる。それがこの国だ。牙なんざ、捨てちまえ。それと、もう一つ。時々、俺の仕事を手伝え」
「仕事って?」
村瀬が訊く。
桜田が睨んだ。
「おまえ、それが社会人の訊き方か?」
「すいません……」
「すみません、だ。〝み〟な」
「すみません。仕事とは何ですか?」
村瀬が訊き直す。
「おまえら、裏に通じてるだろ? 俺から指示があったら、調べてくれ」
「犬になれってのか!」
野中がパーカーのフードを頭からずらした。坊主頭があらわになる。桜田を睨み上げる。
「おまえ、いい根性してんな。嫌いじゃねえが——」
桜田が一歩大きく踏み出した。野中の左脇の背もたれにナイフを刺す。
野中は竦み上がり、固まった。
桜田は顔を近づけた。
「単細胞は早死にするぞ」
ナイフを引き抜き、離れる。
野中は唇を震わせながら大きく息を吐いた。
「難しい話じゃねえ。俺に頼まれたことをやってくれりゃあいいだけだ。謝礼も出す。やってくれるよな?」
桜田が訊く。三人はうつむいた。
「やってくれるよな?」
桜田はベンチの端を蹴った。
三人はびくっとして背筋を伸ばし、「はい!」と返事をした。
「ありがとう。期待してるぞ。それと、仲間集めて仕返ししようなんて思うな。こいつがおまえらの心臓に、ドンだ」
桜田はナイフを投げた。
回転したナイフが桜の幹に突き刺さる。カツッという音に、三人が震える。
「そのナイフ、持って帰って家に置いとけ。そんなもん持ち歩いてたら、パクられるぞ。じゃあ、また連絡する。おまえらもさっさと家に帰って寝ろ」
桜田は最後にひと睨みし、背を向け、公園を出た。
「やっちまったな……」
ハンカチを出して、口周りや頭髪の血を拭いながら、桜田はため息をついた。
第1章
1
尾見司法書士事務所は、JR吉祥寺駅から徒歩三分、都立井の頭恩賜公園近くのマンションの一室にある。
桜田は午前十時前に出勤した。
「おはようございます」
ドアを開けると、所員の一人、吉永小夜が自席からドア口に顔を向けた。ボブヘアの髪の端が揺れる。
「桜田さん、どうしたんですか?」
大きな目を丸くする。
桜田は鼻に大きなガーゼを被せていた。右目の下や頰にも痣がある。
「昨日、帰りに転んでしまって……」
自嘲しながら、自分の席に行く。
桜田が席に着いてすぐ、ドアが開いた。
「おはようさん」
小柄で薄毛の壮年男性が入ってきた。
桜田は顔を向けず、ぺこっと頭だけ下げた。
事務所最年長の荒金誠だ。ぼさっとした風貌だが、大手ディベロッパーに所属していた経験があり、不動産関係の問題には強い。
荒金は桜田の隣の席に腰を下ろした。桜田の顔を覗く。
「おやおや。派手にやられましたなあ」
にやりとする。
「転んだだけですよ」
言うが、荒金はにやにやしてうなずくだけだ。
学生時代から優等生で司法書士となった小夜とは違い、荒金は修羅場を潜ってきている。桜田の怪我がどういうものか、わかっているのだろう。
「おはようございます!」
ドアが開くと同時に、よく通る大きな声が事務所内に響いた。
ピタッとした青いスーツを着て、背が高く、顔の彫りも深く、小麦色に灼けた肌が印象的な青年が入ってきた。
有坂直人。桜田より年は下で、事務所内でも一番の新参者だが、司法書士資格を持っているので、立場は有坂の方が上だ。
爽やかを絵に描いたような男で、桜田はどちらかというと苦手なタイプだった。
「あれ、桜田さん! どうされました、そのお顔は?」
笑顔で訊いてくる。心配しているのか、からかっているのか、わからない。
「ちょっと転んでしまいまして」
桜田は小声で答えた。
「それはいけませんね。桜田さんも、僕と一緒にトレーニングどうですか?」
「あ、いや、僕は苦手なので、遠慮しておきます」
「そうですか。ちょっとでも興味がおありなら、いつでもおっしゃってください。僕の行きつけのジムを紹介しますので」
そう言って、胸を張る。
有坂は筋トレが趣味で、どんなに忙しくても週に三回はジムに通っている。スーツを破らんばかりに胸板は厚く、腰は見事にくびれているが、その自己主張の強すぎるスタイルももう一つ好きになれない。
「ありがとうございます」
桜田は愛想笑いを見せた。
話していると、左奥のドアが開いた。頭髪を少し流して整えた、グレースーツの紳士が顔を出す。
「桜田君、ちょっと」
所長の尾見高志だった。
桜田は席を立ち、とぼとぼと歩いて、所長室へ入った。ドアを閉める。
人目がなくなり、桜田は大きく息をついた。
尾見は執務机の椅子に腰を下ろした。机には書類が積み上がっている。両サイドにあるスチール棚にも、過去に処理をした案件の書類がぎっしりと詰まっていた。
桜田は尾見の机の前にあるソファーに腰を下ろし、深くもたれて脚を組んだ。
「誰と争ったんだ?」
尾見は桜田を見据えた。
「うちで扱ってる多重債務案件の金貸しが襲ってきたんですよ。なもんで、返り討ちにしただけで」
桜田が言うと、尾見は天板に置いた両手の指を組み、ため息を漏らした。
「おまえなあ……」
「いやいや、正当防衛ですよ。先に手を出してきたのは連中です。ほら」
桜田は顔を指さした。
「そういう問題じゃない。おまえの力があれば、逃げることもできるだろう。なぜ、そうしない?」
「そいつらが言ったんですよ。うちにある多重債務者のデータを全部消せと。法律もクソも関係ねえと。そういう輩は、きちんと思い知らせねえと、つけあがるだけ。俺が一番よく知ってます」
桜田が言う。
尾見は再び、ため息をついた。
「おまえ、そういう世界から足を洗いたいんじゃないのか?」
「それはそうですけど」
「だったら、我慢しろ。逃げろ。抗戦するな。法律のみで戦え」
尾見が語気を強める。
「わかっちゃいるんですけどね……」
尾見の本気を感じ、うつむく。
桜田が尾見と知り合ったのは、もう十年も前のことだ。
尾見は当時、今の桜田と同じ司法書士見習いの立場で、司法書士事務所で働きながら資格取得を目指していた。
かたや、桜田は、消費者金融に在籍し、取り立てを行なっていた。
尾見は、多重債務者の問題を解決すべく、単身で桜田のいる会社に乗り込んできた。
相手をしたのは桜田だ。
当時、まだ十八歳だったが、持ち前の腕力を買われ、部下五人を率いて、激しい取り立てを行なっていた。
当時の桜田は、もちろん、尾見の話など聞く耳も持たなかった。どころか、部下に命じて、その場で暴行を加えた。
脅せば引っ込む。ほとんどの者がそうであったように、細身でいかにも育ちのよさそうな尾見は簡単に手を引くと思っていた。
が、尾見は引かなかった。
その後も、何度も何度も来社し、桜田たちに違法金利の取り立てをやめ、債権を放棄するよう働きかけた。
特に、取り立て班のリーダーだった桜田にはしつこくまとわりついた。
時に、苛立って殴ったこともあったが、それでもめげることなく、債権放棄などを迫る傍ら、桜田にはまともに働けと説いた。
尾見がつきまとうせいで、仕事にも支障が出てきた。
業を煮やした上の者は、はっきりとは口にしないまでも〝尾見を殺せ〟と桜田たちに命じた。
必要があれば、暴力は使う。しかし、桜田に人を殺す気はなかった。まして、同業者のクズならまだしも、司法書士事務所で働く一般人の命を殺るなんて暴挙はごめんだった。
桜田は、部下や上の者には内緒で、尾見と接触し、忠告した。
これ以上踏み込むと、命が危ない、と。
尾見の反応は予想外だった。
もし、自分が殺されれば、事件として大きく扱われる。そうなれば、社会問題化して、一人でも多くの多重債務者を救えることになる。そのために命を差し出すなら本望だ。
そう言って、気負いなく笑った。
桜田は驚きを隠せなかった。
物心ついた時から、逆らう者は力でねじ伏せてきた。害のない者にむやみに暴力をふるうことはなかったが、敵意を向けてくる者には容赦なかった。
話し合うより、ねじ伏せる方がたやすい。
そういう世界で生きてきた桜田に、他人のために命を差し出すという発想は一ミリたりともなかった。
本気なのか? と訊いた。
冗談でこんなことは言わない、と尾見は言った。
まっすぐに向けられた尾見の視線に噓はなかった。
ぞくっとした。
いろんなタイプの強い相手と戦ってきた。しかし、尾見は、これまでに対峙した者にはない強さを持っていた。
攻めどころが見つからない。勝つイメージがまるで浮かばない。
こんな相手は初めてだった。
桜田は、尾見のような人間を死なせてはいけないと思った。
尾見と会って会社に戻った桜田は、上の者に、尾見の事務所で扱っている債権については放棄するよう、進言した。
当然、上は激怒した。裏切り者と言われ、尾見だけでなく、桜田も始末するよう、桜田の部下たちに命令した。
不意をつかれた桜田は、頭部に傷を負った。左生え際の傷は、その時に負ったものだ。
部下たちも必死だった。桜田の力は知っている。手を出したい相手ではない。だが、上の怖さも知っている。
天秤にかけると、桜田と尾見を殺ってしまう方がまだたやすい。桜田さえ倒してしまえば、尾見一人を殺すくらいわけないからだ。
かたや、桜田たちが勤めていた金融会社は、会社という体を取った暴力組織でしかない。
組織に逆らうということは、死を意味する。
部下たちは、他の仲間も集めて、十人ほどで暗がりの路地で襲ってきた。
一撃を喰らい、血を見た桜田は、そこから覚醒した。
昔から、自分の血を見ると、体の奥で別のスイッチが入る。生存本能が異様に滾るといった感覚だ。
そうなると、相手が何人いようと、全体や相手の急所みたいなものがよく見えるようになり、体も無意識的な反射で動くようになる。
部下たちは次々と返り討ちに遭い、路地に沈んでいった。
自分が的にかけられたことを知った桜田は、その足で会社に乗り込んだ。
組織の幹部、上の者、年長者とはいえ、対峙すればただの人間だ。
二度と桜田と尾見に手を出せないよう、社内にいた者だけでなく、戻っていなかった社長以下、幹部の者たちも一人一人狙い、叩きのめした。
さらに、会社が持っていた債務者の書類やデータをすべて破壊し、燃やした。
桜田が勤めていた金融会社は倒産。その徹底した反撃ぶりは業界でも話題になり、桜田には手を出すな、という通達が同業者に流された。
桜田は複数人への暴行容疑で逮捕された。
裁判では、尾見が弁護士を付けてくれ、尾見自身も桜田の行為が多数の多重債務者を救ったことなどを証言し、桜田の減刑に奔走した。
裁判所は、桜田の行動の意義を一定程度認め、当時未成年であったため、実刑三年の判決を下され、少年刑務所に収監された。
三年の間、尾見は毎週面会に来てくれた。
尾見は出所したら、自分と一緒に働こうと、来るたびに声をかけてくれた。
初めは、散々世間に背を向けて歩いてきた自分が法律家になるなど想像もできなかったが、何度も何度も言われているうちに、それも悪くないと思い始めた。
何より〝普通の生活〟というものに憧れを抱いた。
三年の刑期を終え、出所した後、尾見の下を訪ねた。
尾見は好意的に迎えてくれた。しかし、尾見が勤めていた事務所では、冷ややかな視線を浴びた。
桜田は三日も経たずに、尾見が勤めていた事務所から去り、その後は短期のアルバイトをしながらネットカフェ暮らしをしていた。
生活は厳しかった。それでも、もう二度と裏の世界へ戻るつもりはなかった。
尾見が見せてくれた、普通の生活への希望と他者に尽くそうとする自分にない強さは大切にしたいと思っていた。
とはいうものの、何をどうすればいいのかわからず、日々が過ぎていく。
もがいているうちに、出所から五年の時が経っていた。
再会したのは、引っ越し業者のアルバイトをしていた時だった。
尾見が突然、会社を訪ねてきた。訊けば、五年の間、桜田を捜していたそうだ。
尾見は独立し、事務所を構えた。そこに来いと言われた。
わざわざ捜して訪ねてきてくれたものを無下にはできなかった。
引っ越し業者のアルバイト契約が終了した一カ月後、桜田は尾見の事務所で働くこととなった。
桜田は尾見に、なぜ自分にそこまでしてくれるのか訊ねた。
尾見は言った。
君には借りがある、と。
君は向こう側にいるべき人間でもない、とも続けた。
表で生きている人から、そんなふうに言われたのは初めてだった。
昔なら一笑に付すところだ。が、出所してからの五年間、社会の片隅に身を置いて懸命に生きていく中で、心持ちは変わっていた。
信じてみてもいいか。
それから、桜田は尾見の事務所で働きつつ、司法書士の資格取得を目指すこととなった。
しかし、一般社会で生きるのは、想像以上に厳しかった。
まず、資格試験なんていうものは受けたことがなく、何をどう勉強すればいいのか、さっぱりわからない。
本を読んでも、まず、書いてある言葉の意味を知るところから始めないと何一つ理解できない。
見習いとして、書面作りも手伝うが、漢字や文法などはしょっちゅう間違う。
朝から晩まで働いても、他の者の半分も仕事を終えられない。
依頼人の相談を受ける所員に同行することもあるが、何を話しているのかおぼろげにしかわからないし、相談者の身勝手な言い分を聞いていると苛立って仕方がない。
だが、どんな場面でも、我慢我慢の連続。フラストレーションを爆発させる場もない。
辟易しつつも、一方で桜田は、世の中の人々がこんなにも苦痛を耐え忍んで生きているのかと実感し、感心した。
桜田は自分を変えるため、わざとメガネをかけ、髪を下ろし、もっさりとしたスーツを着て背を丸め、頼りない男を演じた。
これが、思いのほか、楽だった。
街を歩いても、妙な輩からガンを飛ばされることはない。依頼者に何を言われても、すみませんと言っておけば、やがて相手が呆れて折れる。仕事でミスをしても、桜田だからと責められない。
空気のような存在になることが、こんなにも楽だとは気づかなかった。
そうして尾見の事務所で働くうちに、桜田は感情のコントロール術を身に付けていった。
ただ、どうしても、血を見ると逆上してしまう癖だけは直らない。
司法書士が相手にする人の中には、面倒な者もいる。尾見は、どうしても所員では手に負えない相手との交渉は、桜田に任せた。
桜田であれば、万が一、暴力沙汰になっても逃げ果せることができる。
ただこの時、桜田は尾見から、こう言われていた。
何があっても、決して手を出さない。トラブルになれば、逃げること。
荒くれ者の扱いに慣れていない所員を守る傍ら、桜田のメンタルを鍛える意味もあった。
桜田は尾見の言いつけを守り、どんなに恫喝されようと、罵声を浴びせられようと、胸ぐらをつかまれようと、振り払って、脱兎のごとく逃げ出した。
情けないなと思いつつも、拳を振るわずその場を後にするのは、新鮮でもあった。
しかし、中には、弱い相手と見るや居丈高に出る者もいる。
それもほとんどの場合はへこへこと頭を下げてやり過ごすが、調子に乗って、手を出す者もいる。
それでもなお、痣ができる程度なら我慢もするが、血が出るほどやられると、あのスイッチが入ってしまう。
抗戦するな、逃げろ——。
心の奥で囁く自分がいる。
だが、止められず、尾見の下で働くようになって何度か、相手に鉄槌を下した。
一人で交渉に出かけていた時ばかりなので、幸い、所員には気づかれていないが、この癖を直しておかなければ、いずれ、周りにバレることになる。
桜田が押し黙っていると、尾見はふっと微笑んだ。
「まあ、いい。次から気をつけろ」
「はい」
桜田は小さくうなずいた。
「じゃあ、新しい仕事だ。吉永君とここへ行ってほしい」
尾見はメモを差し出した。
桜田は立ち上がって机に近づき、メモを受け取った。
手元を見る。
木下義人という名前が書かれている。住所は東京都小金井市桜町となっている。
「小金井公園の近くですね。誰ですか?」
「昔からの顧客だ。ああ、おまえは会ったことがないか。木下ビルの創設者だよ」
「木下ビルって、東京郊外にポンポンとビルを建ててるあの会社ですか?」
「そうだ。今は一線を退いて、会社自体は後進に任せているが、本人名義で所有する不動産も何件かある。遺言書に関する話がしたいと言っていたので、その関係かもしれんな」
「遺言書の作成ですかね?」
「細かい話は君と吉永君が聞いて来ればいい。それが仕事だ。実務に触れるいい機会だからな。しっかり見ておくように」
「この顔で大丈夫ですか?」
桜田は人差し指で自分の顔を指した。
「気にするような人じゃない。本当なら私が自ら出向くところなんだが、今、手が離せない案件を数件抱えていてね。荒金さんが適任ではあるが、荒金さんも他の案件に振り回されている。なので、吉永君と君に任せることにした。そのことは木下さんにも了承してもらっている」
「そうですか。なら、行ってきます」
桜田はメモを上着のポケットに入れた。
2
小夜の運転する車で、桜田は木下の家へ向かった。
小夜からは、車中で何度も「余計なことは言わないように」と言い含められた。
小夜は比較的、所内では桜田に優しくしてくれる方だが、仕事に関してはまるっきり信用しておらず、時折、きつい言葉を投げかけられる。
かつての自分なら怒鳴り散らしているところだろうが、事務所での仕事ぶりを思い返すと、それも仕方がない。今は小夜のきつい言葉も叱咤激励と受け止め、流せるようになっていた。
旧五日市街道を西へ車を走らせる。小金井公園を越え、交差点を左折し、そこから路地を右へ左へと進んだ。
マンションが立ち並ぶエリアを抜けると、大きなコンクリート壁が見えた。
その壁沿いに車を走らせ、高さ三メートルはある大きな格子門の前で車を停めた。
小夜が降りて、門柱の横のインターホンを鳴らした。
「尾見司法書士事務所の吉永です」
告げると、格子門が左右にゆっくりとスライドした。
小夜が戻ってきて、車を中に入れる。
高級車が二台並ぶ駐車スペースの端に車を停めると、小夜と桜田は車を降りた。カバンを持って、右手の階段を上がり、低木に囲まれたなだらかな斜路を進み、玄関へ出る。
玄関ドアの前では、エプロンを着けた三十代後半くらいの女性が待っていた。ほっそりとしていて眉も薄く、美人だが薄幸な雰囲気の漂う女性だ。
桜田の顔を見ても、一ミリも表情を変えなかった。
「お待ちしておりました。どうぞ」
玄関を開け、エントランスに招く。
エントランスは広く、屛風もある和風な造りだ。スリッパに足を通し、女性に案内されるまま、後に続く。
桜田は小夜に顔を寄せた。
「この方、どなたなんでしょうかね?」
小声で訊き、女性を見やる。
「こちらで住み込みで働いてらっしゃる山口いのりさん」
「ああ、お手伝いさんですか」
「そういう言い方はしないでください」
小夜はキッと桜田を睨んだ。全体のパーツが大きめの美形なので、睨まれると迫力がある。
「すみません」
桜田は肩を竦め、背を丸めた。
長い廊下を奥へ進む。左手のガラス越しには日本庭園が見える。
いのりは、最奥の部屋の前で立ち止まった。両膝をつき、障子越しに中へ声をかける。
「旦那様。尾見司法書士事務所の方々をお連れしました」
「入ってもらいなさい」
太くてよく通る声が聞こえてくる。
いのりは両手で楚々と障子戸を開けた。
「どうぞ」
少し頭を下げる。
小夜と桜田は会釈し、中へ入った。
広い畳敷きの和室だった。二十畳近くある部屋の中央に猫足の座卓が置かれている。天板は一枚板だ。
奥の座椅子に着物を着た白髪の男性が座っていた。大柄で背筋も伸びていて、眉毛も濃く、そこはかとない威圧感がある。
部屋の左手にある床の間には、桃が描かれた水墨画の掛け軸が掛けられていて、皿型の花器に蕾を付けた桜の枝が飾られていた。
床脇棚にも高そうな茶器が並んでいる。
「そちらへ。席次は失礼させていただきます」
男性が座卓の向かいを手のひらで指す。
客は上座に迎える。本来であれば、男性の座っている位置が上座となり、そこに小夜と桜田を迎えることになる。
「お気遣いなく。失礼します」
小夜は言い、男性の向かいに座った。
桜田が床の間側に座ろうとする。
と、小夜が咳ばらいをし、桜田を睨み上げ、自分の右手に座るよう促した。
桜田はあたふたと小夜の右手に腰を下ろした。ぎこちなく正座をし、背を丸める。
また咳払いが聞こえてくる。
桜田は太腿に置いた両腕を突っ張り、ピンと背筋を伸ばした。
男性がその様子を見て微笑む。
小夜はカバンから名刺を出した。
「尾見司法書士事務所の吉永です」
少し腰を浮かせ、両手で差しだす。
桜田もカバンから名刺入れを出そうとした。が、名刺入れがない。あわてて、カバンの中を搔き回し、上着を探る。内ポケットにあった。
あたふたと名刺を出す。
「桜田と言います」
急いでいたせいで、片手で出してしまった。
隣で小夜がため息をついた。
それでも男性は笑みを崩さず、桜田の名刺を受け取って、「木下です」と名乗った。
桜田は身を小さくしてうなだれた。
何度か、所員と共に依頼主の下へ出向いたが、堅苦しい相手だとどうしても緊張してしまう。ささくれた臭いのするチンピラを相手にする方がよほど気が楽だった。
「この後、少々用事があるので、手短に済ませたいのですが」
木下が言った。
「承知しました。では、さっそく。遺言の件と尾見から聞いていますが?」
小夜が話を進める。
「ええ。秘密証書遺言を作成したので」
「秘密証書ですか?」
小夜が訊き返す。
「そうです」
「確実に相続を行なうのでしたら、公正証書遺言にされた方がよろしいかと」
小夜が促す。
桜田も少しは勉強しているので、遺言の種類については知っている。
遺言には〈自筆証書遺言〉、〈公正証書遺言〉、〈秘密証書遺言〉の三種類がある。特別方式遺言というものもあるが、これは危急時などに作成されるものなので通常時には用いられない。
自筆証書遺言は、文字通り、自分の手で書いた遺言のことだ。証人もいらず、法務局に保管を頼まなければ、保管料もかからない。
ただ、形式の不備により家庭裁判所の検認で無効とされることもあり、トラブルの元になることもしばしばだ。
公正証書遺言は、公証人が遺言書を作成し、原本は公証役場で保管されるので、紛失のリスクもなく、無効となることはほとんどない。
ただ、証人が二人必要だったり、財産に応じて多額の作成費用がかかったりと、手間と費用をかけなければならないところが難点だ。
秘密証書遺言は、公証役場に証人二人と出向いて、遺言を作成したという記録を公的に残す方法だ。
内容を誰にも明かすことなく、自筆の署名と押印があれば、パソコンなどで作成した文章も使える。中身を知られたくない場合には非常に有効な手段だ。偽造や変造もされにくい。
一方、手続きの手間や費用がかかり、検認は必ず受けなくてはならず、形式不備や不明瞭な内容だと無効になることもある。
また、書面は遺言者自身が管理しなければならず、紛失する可能性も高くなる。
遺言を作る一人一人に事情があるので、どれが最適とは言えないが、弁護士や司法書士は確実性を重視して、公正証書遺言を勧めることが多い。
「いや、秘密証書でいいのですよ」
「承知いたしました」
小夜はさらりと答え、続けた。
「確認ですが、内容や形式に関して、不備はございませんでしょうか?」
「中身は自筆で記しています。形式と内容の表記の仕方は以前、尾見さんから詳しく聞いていて、その通りに書いたので問題ないと思います」
「そうですか。証人二名は決まっていますか?」
「公証役場で紹介してもらいました」
「公証役場にはもう行かれたのですか?」
小夜が目を丸くする。
「ええ。署名押印もいただいて、遺言書は完成しています」
木下は足元に置いた紫色の袱紗を取った。天板に載せ、広げる。遺言書と記された白い二重封筒が入っていた。
封筒には公証人の記載と、公証人、木下本人、証人二名の署名押印がなされていた。
正式に作成された遺言書だった。
「てっきり、遺言書の作成のお手伝いをするものと思っていました」
小夜が言う。
「公正証書遺言であれば作成をお願いしたでしょうが、秘密証書なので、それこそ周りには秘密で作成した次第です」
木下は笑った。
顔のインパクトは強いものの、笑顔には含みがない。悪い人ではないと、桜田は感じていた。
「今日来ていただいたのは、この遺言書をそちらで預かってもらえないかというご相談です」
「うちで、ですか?」
「ええ。家のどこかに保管しようと思ったのですが、どこに置けばいいのやら。それに、一応公証役場に作成記録が保管されているというものの、身近な人に知っておいてもらわなければ、いざという時に遺言書が見つからないということもありうる。そこで、信頼できる尾見さんのところで預かってもらおうと思ってね」
木下が話す。
秘密証書遺言は自ら保管しなければならない。が、管理、保管を弁護士や司法書士に任せることは可能だ。
「わかりました。お預かりさせていただきます」
小夜は淡々と答えた。
司法書士事務所は、遺言書の作成を請け負う傍ら、作成した書面を預かるサービスを行なっているところも多い。
尾見の事務所もしかり。様々な依頼者から遺言書を預かり、会社名義で借りている貸金庫に厳重に保管している。
小夜はバッグからタブレットを取り出した。遺言書の預かりサービスに関する契約書を表示し、木下の方に画面を向ける。
タッチペンを持って、説明を始めた。
「木下様は、当事務所と顧問契約していただいてますので、手数料と年間保管料はいただきません。遺言の執行を当事務所にご依頼いただく場合は、別途料金がかかります」
慣れた様子で、さらさらと進めていく。
「遺言書をお預かりした場合、当事務所では預かり証を発行しています。木下様に何かあった場合、ご遺族様にすみやかに遺言の存在を明らかにし、執行するためです。身近にいる身内の方か、信頼できるどなたかにお渡しするのが一番良いのですが」
「そうですねえ……」
袖に手を入れて腕組みをし、うつむいて唸る。
しばらく熟考して、顔を上げた。その視線は、桜田に向いていた。
「桜田さん。預かってもらえませんか?」
「えっ!」
桜田だけでなく、小夜も同時に驚きの声を漏らした。
「いやいやいや、僕は木下様とも近くないですし、まして身内でもないですし……」
「そうです、木下様。桜田に預けても、まったく意味はないかと」
小夜が冷たく言い放つ。
まったくはひどいな……と思うが、言い返せず、うなだれた。
「関係のない第三者に持っていてほしいのですよ。身内に渡しては、わざわざ秘密証書にした意味がない。尾見さんの事務所の方なら、間違いないでしょう」
「もし、木下様が亡くなられても、僕には知る術がありませんよ」
桜田はちろりと顔を上げて言った。
「こう見えても、実業界では有名でしてね。経済新聞には訃報を取り上げられるでしょうし、どこからか必ず、尾見さんの耳には入るでしょう。その時、桜田さんが預かり証を提示して、吉永さんが遺言を執行してくれればいい。それが一番です」
「そう言われてもですね……」
桜田は大きくうつむいた。
「あなたなら任せられます。何があろうと、預かり証を守ってくれるでしょう?」
木下がまっすぐ桜田を見つめる。
桜田は顔を起こした。鋭い視線が刺さる。その圧にあてられてか、一瞬だけ、桜田の眼光も鋭くなった。
木下が口元にかすかに笑みを覗かせた。
こいつ……。
俺の正体を知っているのか、見抜かれたのか。いずれにせよ、伊達に不動産業界を渡ってきたわけではないということか。
桜田は少し下がって、土下座をした。
「勘弁してください! 僕にそんな大役は務まりません!」
情けない声で懇願する。
「いえ、桜田さんに決めました。あなたが引き受けてくださらないなら、この話はなかったことにしてください」
木下が言い切る。
小夜のため息が聞こえた。
「わかりました。うちの桜田に預かり証を預かってもらいます」
小夜が言う。
「そんな……」
顔を上げた。
小夜は眦を吊り上げ、桜田を睨んだ。
「預かり証を保管してもらいます! わかりましたね!」
「はい……」
桜田は、渋々首を縦に振り、そのままうつむいた。
何を考えてんだ、このおっさん……。
悪い人間ではないと思うが、その意図が見えず、腹の奥底がじくじくとした。
嫌な感じだった。
[次回:2023年7月更新予定]
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