矢月秀作「桜虎の道」#003
第2章
1
桜田は翌朝、何事もなかったように出勤した。通常通りみんなより少し早めに出勤したにもかかわらず、事務所には小夜と有坂がいた。
「おはようございます。すみません、遅くなりました」
へこへこと頭を下げ、自席へ着く。
と、小夜が席を立って、桜田に近づいてきた。有坂も立ち上がる。
「桜田さん、ノートパソコンを持って、応接ブースに来てください」
小夜は言い、自分のノートパソコンを持って、応接ブースへ向かった。有坂も同様に向かう。
何かわからないまま、桜田もノートパソコンを持って、事務所の奥にある部屋に向かった。
パーティションで仕切られた空間に、ソファーとテーブルだけが置かれた簡素な空間だ。が、打ち合わせや来所した顧客への対応には十分なスペースだった。
小夜と有坂が並んで座った。対面に桜田が座る。
「桜田さん」
小夜が桜田を見た。
「はい。なんでしょう」
緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「木下氏の顧客フォルダーを開いてください」
小夜に言われ、桜田はパソコンを立ち上げた。顧客情報のフォルダーを開き、木下義人のフォルダーをクリックする。
小夜は桜田の動きを見ながら、次の指示を出した。
「その一番下にある関係者資料というPDFを開いてください」
小夜が示したPDFファイルをクリックする。と、十ページほどの資料が表示された。
内容を見て、桜田は目を見開いた。
「調べてくれたんですか」
木下義久の調査データをまとめたものが入っている。
「春人氏の分もありますよ」
有坂が笑顔を向ける。
スクロールすると、六ページ以降は木下春人に関してのデータになっていた。
「さっと、目を通してください」
小夜に言われ、桜田はデータを読み始めた。
小夜も有坂も、限られた時間の中でよく調べていた。
長男・義久の会社〈木下ビル〉は、コロナ禍が明け、オフィス需要やイベント事業も徐々に回復し、堅調に売り上げを伸ばしているようだった。
しかし、コロナ禍の三年の間に受けたつなぎ融資の利子が重しになっているようで、なかなか黒字転換できずにいる。
小夜の報告では、義久が受け継いだ会社所有のビルは、駅前立地の物件が多く、賃貸需要はあるが、コロナ禍による需要減で家賃やテナント料を下げたため、収入が三割ほど減っている。
値上げしたいところだが、周辺ビルもテナントを埋めるために家賃を下げていて、値上げすれば客が離れていく状況にあるという。
賃貸ビルは、買い手市場となっていた。
次男・春人は〈SEP〉という会社を経営していた。スプリングエモーショナルプランニングの頭文字を取ったもので、セップと呼ばれている。
イベント業を中心に、会員制高級サロンなどを運営しているようだ。
コロナ禍以前は、大きいイベントも成功させ、サロンの運営も順調だったが、コロナ禍に入り、イベントの自粛、貸会議室等の使用停止要請による会合禁止などの煽りをまともに受け、持ちビルを手放すことも検討しなければならないほど、火の車となっているようだった。
ただ、義人の実妹・池田美佐希が春人の後見人となっているおかげで、まだ銀行の融資打ち切りには至っていないようだ。
美佐希は、夫の孝蔵と共に〈未来創造コンサルト〉というコンサルタント会社を営んでいる。経営コンサルタントであり、いくつかの中堅、大手企業の顧問も務めている。
孝蔵が代表取締役だが、実務は美佐希が行なっていた。美佐希は結婚前、兄・義人と共に木下ビルの発展に貢献した実業家として、財界人の信頼も厚い。
孝蔵は、美佐希の威を借り、中小企業のコンサルタントとして食い込み、小銭を稼いでいるのが実情だ。
持永は、こっちの関係か……。
桜田はデータを読みながら思った。
「だいたい目を通しましたか?」
小夜が訊いてきた。
「はい、ザッとは」
桜田が小夜を見やる。
小夜はうなずいた。
「では、まず長男・義久氏の方から。木下ビルの実情については、そこに書いてある通り、売り上げは回復しているものの、つなぎ融資分の利子が重しとなって、黒字転換できていないもよう。ただ、事業自体は順調で、このまま続けていれば、いずれ状況は立て直せるでしょう。しかし、その途上で、テナントやオフィスの賃貸が滞れば、持ちビル何棟かの売却も検討しなければならない状況でもあります」
「今のところ、問題はないということですか?」
桜田が訊く。
小夜はため息をついた。
「何を聞いていたの。問題大あり」
桜田を睨む。桜田がうつむくと、有坂が口を開いた。
「つまり、この局面をしのぐために、当面の運転資金が必要ということですよ、桜田さん」
相変わらず、声が大きい。
「さらなる追加融資は受けられないということですか?」
桜田が問うと、小夜が答えた。
「いくつかのビルはすでに抵当に入ってる。これ以上、他のビルも抵当に入れると、打ち切られれば一気にすべてを失うことになるでしょうから、義久氏としても、そこまではしたくないでしょう」
「そうなると、父の義人氏に援助を頼むしかないということですね」
桜田の言葉に、小夜がうなずく。
「会社が義人氏個人から借り入れるか、もしくは義久氏個人が生前贈与を受けるか。方法はいくつかあるけれど、義人氏は、そうした木下ビルの経営状況を事前に知って、秘密証書遺言を作ったということも考えられる」
「なるほど」
桜田が何度かうなずく。
「生前贈与の件なら、春人氏もそれを狙っていた節がありますねえ」
有坂が笑顔で声を張る。
「春人氏の会社も経営状況がよくないんですか?」
「調べた限りでは、義久氏より負債は大きいですね。SEPの中心事業はイベントとサロンです。コロナ禍初期は特に、人の集まる場所への風当たりは強かったですからね。SEPも開店休業状態でした。持続化給付金などで細々とつないでいたようですが、義久氏のように多くの不動産を所有しているわけでもなかったですからねえ」
「銀行からの追加融資はなかったんですか?」
「義人氏の実妹・池田美佐希氏が掛け合って、少しは融通してもらったようですが、銀行も不良債権になりそうな融資を行なうわけにはいかなかったようでして。春人氏が所有するビルは、いつ取り上げられてもおかしくない状況ですね」
「そこで、生前贈与ですか」
「そうですね。春人氏の場合、義人氏から本家の木下ビルを継いだわけではないので、父からの資金援助は見込めないでしょう。美佐希氏もそれなりに援助はしていたようですが、自分の会社を危うくするまでの資金援助や融資の口利きはしないでしょうからね。残るは生前贈与というわけです」
「なるほどなるほど」
「それともう一つ。SEPには黒い噂もありますねえ」
有坂が口角を上げる。
「イベントの開催に関係する代理店や後援者に金を配っている。SEP主催のイベントの警備をしている会社がフロント企業、などなど。まあ、イベント関係の会社にはつきものの噂なんですが、ちょっと注意した方がいいかもしれません」
有坂がきりっと桜田を正視した。
「ありがとうございます。気をつけます」
桜田は頭を下げた。
「一応、私たちの調査はここまでね。私たちも自分の仕事があるから。まあもし、危ない状況になったら、すぐ警察とうちに連絡を入れること。所長には私たちの調査の内容は伝えています。そして、ここまでの調査でいいという了承も得ています。それと、所長からはくれぐれも単独で調べたりしないようにと言われているので、勝手に動いたりしないでね。わかりましたか」
小夜が言う。
「はい。ありがとうございました」
桜田はもう一度、頭を下げた。
調べさせるか——。
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