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高田大介「星見たちの密書 エディシオン・クリティーク」#004

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 中西部の隣町同士の関係ってどういうものなのか——修理しゆりの抱いた素朴な疑問についてギィは実地調査を提案していた。データや文献を離れて「とりあえず現場に行ってみよう」という発想は、なるほど地理学徒、史学徒ならではの実地検証重視主義からくるのかもしれないし、そもそもバイクを一跨ひとまたぎ、どこにでもすぐに駆けつけるというギィの昨今のライフスタイルの所産だったのかもしれない。ともかくフットワークの軽さが彼の目下の身上だった。
 しかし修理自身はほんらい出不精なたちで、一ヶ所に留まって考え込んでいるのが普通である。なにしろフランスくんだりまで出向いてきたためにちょっと感覚が麻痺まひして無駄に振り回されていた部分があっただけのことで修理本人はそれほど物見高い方ではない。だいたい一つことを考えはじめるともっぱら他のことが目に入らなくなる質で、自然史博物館に行っても「グレーザーの泡箱」の前で小一時間も宇宙線の痕跡を眺めていたことがあったし、水族館に行ってもイルカやペンギンのショー観覧を断って鰯の群体の挙動を眺めつづけていたこともある。水族館の一件では同行者は岩槻真理いわつきまりと妹の佐江さえだったが、彼女らには呆れられ、さらには諦められていた。
 そうした訳で、ギィの申し出にも当たり障り無く頷いていただけであって、いざ「社会科見学だ」とお誘いがあっても、なんらかの理由をつけて断ろうと思っていたぐらいだった。修理としては、この夏は流されるままに来仏したがこの機会に雑事を離れ、しばしぼんやりと物思いにでもふけろうかなどと、とかく退嬰的たいえいてきで無気力なヴァカンスを過ごす心積もりだったのである。ギィも気にかけていた、なんらかの「感傷」を確かに携えてきていたのだ。
 ところが豈図らんや、修理の望んだ静かで沈んだ無為な瞑想めいそうの日々は訪れなかった。そもそも来仏初日からバイクで「座礁ざしよう」しており、この出だしがすでに暗示的だった。それを予兆と見るべきだったかもしれない。
 この後、ドアノー家一党と、とりわけ修理とギィは、しばらく「難民生活」を送ることになってしまったのだ。切っ掛けはドアノー家のカントリーハウスに水の問題が生じたことからだった。
 
 折りしもサント・モールに山羊乳チーズを買いに行った同日の夕刻、修理とギィはドアノー邸の中庭で草刈りに勤しんでいた。
 もともと頼まれていたことではあったが、なにしろ昼中バイクでふらふらしている男手二人をドアノー家の女傑たちがこのうえ許しておくわけがない。夏草の蔓延はびこった広い中庭をギィはエンジン付きの手押し草刈り器を押して這いずりまわり、修理は大きな熊手で刈り草を集めて回った。
 芝生を刈り込むようにとはいかないまでも伸び放題だった雑草をだいたい平らげるのに小一時間、最後には二人とも汗だくになっていた。
 ギィは汗だくの上半身を諸肌脱ぎに木陰の椅子にへたりこみ、修理はガーデンテーブルに突っ伏すようにして湿ったTシャツをぱたぱたやっていた。
 レティシアが冷えた白ワインとちょっとした軽食のプレートを持って出てくる。
 輪切りのバゲットのガーリックトーストに乾しトマトやオリーブが載ったオードブルだ。朝に求めた山羊乳チーズが塗り付けられたものもあった。修理が一つ二つぱくついている間に、ギィはカラフの白ワインを断って「そんな上品なものを飲んでいられるか」と瓶ビールを取りに行った。
 明日は予報は雨だが本当に降るだろうか。まだ風が熱かった。掃き出し窓の出入り口のテラスに水を撒いたら湯気が立っていた。
「一杯飲んだらシャワー浴びてこいよ」
 ラッパ飲みのギィが、例によって修理にも一瓶を押し付けて言った。
 
 シャワーを浴びてこざっぱりとした部屋着にきがえた修理がふたたび中庭に出て行くと、ギィが声をかける。
「さっぱりした?」
「うん。でもちょっとお湯が赤っぽかったな」
「この辺の水は沸かすと赤っぽい石灰分が出てくるんだよ」
 そういうものなのかと修理は納得したが、実は修理の言っていた「赤っぽい」というのは決して平常通り、、、、の赤っぽさではなかった。
 マルゴとセリアがガーデンテーブルでレモンを搾った生サーモンのカルパッチョをつつきながらワインを干している。
「玄関のアプローチの所だけね、あとは」
「敷き石があるから草刈り器じゃ駄目なのよね」
「エミリアンにナイロン刃の草刈り借りればいいんじゃない?」
「今日はもうやらないよ!」
 なにか残業を言いつけられていたギィが悲鳴をあげていた。「エミリアン」はちょっと先の地所に住む隣人の名前だそうだ。
「レティシアは?」
 修理がテーブルについて訊いた。
「シャワー浴びに行った」
「僕が待たせちゃってたのかな?」
「いや、奥の寝室のつづきのシャワールームだよ。問題ない」
 ところが「問題」はあった。レティシアが濡れたサンダルを引きずってサロンを横切り、中庭で休らっている家族に不平を……というより異常を訴えにきたのだ。
 
「水が赤い!」
 浴びていたシャワーを途中で打ち切って出てきた彼女はショートの髪がまだ濡れて額に貼りついている。
「もう、泡が立たないんだけど!」すっかりお冠だ。
 ギィが寝室つづきのシャワー室に様子をうかがいに行く。修理はまだ暢気に考えていた。
「この辺だとだいたいお湯が赤っぽくなるんじゃないの?」
「いや、あれは赤すぎ!」とレティシアが訴える。
 果たしてサロンに戻ってきたギィが肯って言った。
「あれはおかしいな。シュリが言ってたけど……普通の赤さじゃない」
 それでセリアと修理も連れ立ってシャワー室に向かう。ギィがシャワーブースの床に置いた洗面器にはなるほど赤っぽいぬるま湯が溜まっている。もちろん湯が血のように真っ赤に染まっているというほどではない。出がらしの紅茶か、パプリカの散ったコンソメか、といった程の色だが、シャワーヘッドから出てきてバスタブにまる湯としては、なるほど尋常の赤さではない。
「こんな感じだったよ、さっきも」
「ちょっとおかしいな、この赤さは」
「これじゃ髪がぎしぎししちゃうわね」と溜め息のセリア。
 ギィは湯に手を差し入れて指先を擦って見せる。
「だいたいこの辺の水はアンドル川か、その支流から取水しているんだけど、もともと土地に石灰分が多いんだ。そうすると湯沸かしには白く結晶するものだけど、トゥール以南の沼沢地にかけての田園ではそれがしばしば、やや赤っぽく析出せきしゆつする。それ自体は普通のことなんだ。深夜電力を利用した湯沸かしタンクがあるだろう?」
 ギィはシャワー室の隣にある納戸の方を指さす。納戸の中には壁面にドラム缶をやや細くしたぐらいの電気温水器のタンクが据え付けられている。
「あれのヒーターを定期点検の時に引っ張り出すと茶褐色のいがみたいなのがびっしり付着しているもんだ。それから湯沸かし時の圧力を逃がす弁だとか、ホースだとかにも赤褐色の薄片が溜まる」
「それが出てきてるっていうこと?」
「例えば数ヶ月ぶりに湯を沸かした、なんていう時だと湯が赤っぽく染まるのはよくあることだ。析出した石灰分が沈殿ちんでんして、蛇口から出る時の濃度が高まるんだな。だけどここまでっていうことはない」
「この湯沸かし器の問題なの?」と修理が素朴に訊いたが、ギィは首を振って一同を見回した。
「シュリがシャワー浴びたのは奥の風呂場だったろう? あそこの温水器はこことは別のやつだ」
「同時にこうなっちゃったってこと?」
「いや、上水道がもう赤いんじゃないか?」
 一同が階下へ下りていって台所の蛇口を捻る。グラスの中の水は真っ赤とまでは言わないが、やはり薄く濁っているようだ。
「どういうこと?」
「浄水場から、これが来てるってことだよ」ギィの言葉に、セリアとレティシアがあからさまに不愉快そうに眉根を寄せた。
 もともとこの地域ではあまり水道の水は飲まれない。もちろん衛生的な基準は満たしていることになっているが、蛇口から出る水は「パリ並に不味い」と言われている。セーヌ下流域と同様に、こちらの地方でも飲用水は、せめて濾過装置のあるジャーに一旦取るか、さもなくばペットボトルで他地域の天然水を買うことが多く、スーパーでも飲用水のコーナーがたいへん広く取ってあるものだ。とはいうものの、ギィが言うようにここまで上水道の水が濁っているとすれば、それは異常事態と見るべきだ。
「水道管が割れちゃってるのかな?」と心配そうにレティシア。
「浄水場がパンクしてるんじゃないの?」セリアの懸念はさらに深刻だ。
 その間にギィは近隣の住民に様子を聞いてみると言って電話をかけはじめた。
 レティシアによると、この辺りの上水道はもともと品質が低めで、取り回しも脆弱なのだそうだ。たとえば水圧も低くて、家庭用には差し支えなくとも、消火用には心許ない。そのため自治体の持ち出しで消火用遊水池や、余剰の消火水タンクなどが用意されているほどだとか。
「エミリアンのうちでもそうだって。もう市役所に注進ずみだが、しばらく飲むのは控えてくれって言われたってさ」
 その後の近隣住人の間の情報交換によって、少なくとも数ヘクタールにわたって上水に異常が出ている、原因は浄水場までさかのぼるが特定はされていない、混ざり物は単に地場の石灰分だけなのか、それとも他の混入物があるのか、そうした水質検査が目下間に合っていない、そして復旧の目処は一向に立っていないという絶望的な観測がもたらされた。
 飲用水や調理用にペットボトルを買うのは元よりのことだからまだいいだろう。しかし食洗機や洗濯機に回る水、洗面所や風呂場で使う水までが、ご覧の通りの不浄水ということになったわけだ。浄水が満足にされていないとすれば、ことによったらより差し迫った衛生的な問題もあるかもしれない。
「これじゃ食器を洗うのも躊躇ためらわれるわね」
「シャワーも浴びたくない感じじゃない? っていうか私、浴びちゃったんだけど」
「そういうものだと思っていれば、そこまでの違和感はなかったけどな」と相変わらず暢気なのは修理だ。
「クロードにすぐに帰ってこないほうがいいって連絡しとかなくっちゃだわね」
 マルゴは帰還すべき夫と嵯峨野さがの夫妻を不浄水では持て成せないと困惑顔でロンドンに電話をかけ始めた。
 この田園に囲まれた集落には数世帯があり、さらに森を挟んでおなじ台地上にも十数世帯を抱えた集落があった。おなじ浄水場から水道水を得ている彼らもまた蛇口からでる垢水に不信を募らせているらしい。隣人のエミリアンいわく、集落では移動が——避難が始まっているらしい。被害世帯の数が甚大とは言えなそうで、すぐに当局が人員を繰り出して問題の解決に乗り出すかは微妙だ。
 停電や電話の不通なら我慢のしようもあるし、火にしても通信にしても代替手段を用意出来るものだが、予告なしの断水はかなりの不都合を生む。赤い水は見た目にも不浄な感じがするが、水が飲めないといったことよりも、この周辺域で水の状態が悪化した時に一番懸念されるのは、上水道に直結した設備や家電に過度の負担が生じることだ。
 上水の不純物濃度が増したために電気温水器の運転を続けるとタンク内の沈殿物があっというまに溜まる。電気温水器には沸き上げ中に発生する膨張水を排水する逃し弁というものがあり、稼働時にそちらから常時微量の排水があるのは正常な運転ということになるのだが、こちらの逃し弁から続く排水サイフォンやホースに再結晶した石灰の薄片が溜まっていくのだそうだ。とくにフレキシブルホース——掃除機のホースみたいな蛇腹になっている部分で管が詰まる。これに気がつかずに一シーズン放置してしまった漏水のために、別荘の床が腐って抜けてしまうことがよくあるというからことは深刻だ。
 マルゴの命のもと、ギィとレティシアは各部屋の温水器の循環を止めてまわった。これでこのカントリーハウスでは湯の使用が出来なくなった。
「お前たち、それぞれ行く先を見繕える?」マルゴがぐるりと見回して訊いた。
「私たちもすぐに避難するってこと?」
「待っててすぐ復旧するものじゃなさそうだものな……」
「そんなに広域に生じている問題じゃあないんだよね?」修理が訊いた。
「給水塔を共有してるのは周りの三集落ぐらい」マルゴは隣町の名前を幾つか挙げて答えた。
「オルレアンに戻るかな」とマルゴ。「セリアはどうする?」
「クレアに訊いてみようかな」セリアは友人の名前を挙げた。
「トゥールだよね?」レティシアも知っている相手だったようだ。
「どのみち近々会いに行く予定だったし……」
「私もご一緒できる?」レティシアは取りあえずシャワーを浴び直したいと訴えている。
「復旧を待つにしても、ここの番はしておかないとね。俺は残ってようか?」とギィ。
「それじゃ僕も留守番してようかな」と修理も頷いた。
「しばらくお風呂も入れないかもしれないよ?」
「さっき入ったばかりだしさ」
「蛇口はもう開けないでね。水の備蓄は使っていいから。セリア、まだいっぱいあったよね?」
「見てくるね」
 マルゴの指示でセリアが台所脇の納戸デガジユマンを検めてきた。ミネラル・ウォーターのペットボトル2リットルの6パックがまだ幾つか積んであったそうだ。
 こうしてドアノー家では避難場所の確保に大わらわとなった。各人知り合いに連絡をとり始めた。サロンに戻ったみなが壁際に散ってそれぞれに電話を手にして窮状を訴えている。修理は手持ちぶさたに黙って座っているしかない。
 マルゴはオルレアンの自宅アパルトマンに一旦戻ると決めた。だが、このカントリーハウスで嵯峨野夫妻と合流して、それから南仏の友人宅に避暑というのがもともとの予定だったから、オルレアンの自宅にはその先は長居が出来ない。それというのもドアノー、嵯峨野の二家族で南仏を歴訪する間に、カナダの親戚が家族ぐるみでパリ、オルレアンに観光に来るので、その間の拠点としてオルレアンの自宅を提供する約束になっていたからだ。親戚のことだからサブレット契約があるというような話ではないが、ともかくも家は空けなければならない。
 実はマルゴはこっちに来る前に既にオルレアンを片づけてあったのだった。サロンから上階まで掃除は行き届いていたし、客用寝室のベッドメイキングも全室済んでいた。水回りもキッチンもきれいに拭ってあり、冷蔵庫はほぼ空になってウェルカム・ドリンクだけが納められているという具合である。人を迎えるべく片づけた自宅にまた戻らねばならないというのはマルゴとしてはたいへん遺憾いかんであった。シャワーの一つも浴びれば、また拭き掃除をしなければいけないではないか。
 シャワーと言えば、レティシアとセリアは急ぎシャワーを浴びられるようにとまずはトゥール市街地の同僚——クレア・何某の家に移動することになった。クレアはセリアのかつての学友だそうだ。
 それからギィと修理はひとまずカントリーハウスで留守番ということになり、必要だったら何処でもいいから近くの友人宅なりに身を寄せようということになった。
 端なくも一家離散である。冷蔵庫の生鮮食品を食べ尽くしたら、今晩中にも三々五々避難生活を開始しようと算段がまとまった。
 サラダを洗うにもペットボトルの水を使い、冷蔵庫のサーモンや豚腿のハムを全部引っ張り出して、品数だけは豊富な時ならぬ宴会になった。だが生鮮食品の「処理」が動機であるから贅沢な食事というよりは単に食料の蕩尽である。このあと各自、車で動く予定なので重ねてワインを開けましょうという話にもならない。
 美食家のドアノー家にしては冴えない、虚しいディナーとなってしまった。さきほど中庭のガーデンテーブルで頂いたものと素材はだいたい同じような品書きなのに、どうしてこうも色艶を失ってしまったのか。ワインが飲めないという理由ばかりではあるまい。
 
 いち早く出発したのはオルレアンの自宅を目指し、ざっと150kmをロワール川沿いに遡っていかねばならないマルゴだった。次いで娘姉妹が近場トゥール市街の友人宅へと向かったのだが、セリアのスバルにはギィと修理の荷物の旅行鞄を積み込んでもらった。残される男二人はその後バイクで移動することになるので、喫緊に必要ないものは集めてスバルのラゲッジに積み込んでおく。嵯峨野夫妻らを迎えるにあたって再びドアノー家とギィと修理は合流するだろうから、その時まで車で運んでおいた方が都合がいいだろうと考えたのだ。結論から言うとこれは浅慮だった。ギィと修理はこの後すぐに「カントリーハウスで様子見の留守番」という暫定的措置を撤回して、意図せぬ放浪生活を迎えることになる。とりあえずの手回り品を集めただけのギィと修理のナップサックは、今後しばらくの困窮の原因となる定めであった。
 それというのも早くも同日の深夜には、ギィと修理もカントリーハウスを見限って逃げ出す羽目になったからだ。上水の不始末はもう一点、予期せぬ障害を齎していた。トイレの水が止まらなくなったのである。
 石灰の薄片を含んだ赤水がトイレの水洗タンクの水を止める機構のダイアフラムに澱となって蓄積し、弁がきちんと働かなくなった。水が流れっぱなしである。これを放置して家を空けることもできないので、ギィはマルゴに電話して納戸の奥に探り当てた上水道の元栓を閉め、かくしてカントリーハウスは上水の利用がトイレに到るまで出来なくなってしまったのだった。
中庭でする、、、、、って訳にはいかないよな」
「止めてよね! あんたたちも早く出てきなさいよ」
 報告を受けたレティシアが悲鳴をあげていた。
「そっちは余裕あるの?」
 クレアのアパルトマンはあいにくトゥール中心市街の小さなストゥディオで、すでに姉妹が身を寄せているだけでほぼ満員といった具合である。かたやオルレアンはマルゴの自宅だが、そちらもマルゴ自身がほどなく引き払う算段であるから、ギィと修理だって今から出向く気にもならなかった。
「この辺に住んでいる奴に連絡してみるよ」
「庭でなんかしないでよ!」
「判ってるよ!」
 ギィはトゥレーヌ田園に実家があった筈の友人を連絡帳に探してみるとレティシアに告げた。先日のバイクの故障で足止めを喰った時に、「この辺の奴ら一覧」という通信履歴が出来ていたのが怪我の功名であった。その中から、なんとか返事が返ってきたのはヴァカンス中ということで近隣のサン・フロヴィエという町の実家に帰っていたギィの学友の一人マルタンである。電話口のマルタン・アルビドゥルは渋々という感じだったが、旧友ギィの苦境を案じて不承ぶしょうながらも、二人の「難民」を受け入れてくれたそうだ。ただしそちらはマルタンの実家、つまり彼の親の家なので今晩いきなり深夜に押しかけるという訳にもいかない。出発は明朝を待つ。この一晩はトイレは無しでなんとか過ごさなくてはならないということになった。
「それでは今晩は水分を控えて過ごそうではないか」
「じゃあもう寝るしかないよね」
 ドアノー家の女達がそれぞれ北へ落ちのびていったのに対し、ギィと修理はカントリーハウスからさらに南の町へとアンドル川を遡ることになったのだ。今晩中に準備することがあるかと見繕ってみてもなしうることもたいしてない。修理が言ったように朝までいろいろ我慢して寝るぐらいしかどうしようもない。
 
 翌朝にはギィは人気のなくなったドアノー邸の主ブレイカーを落とした。本来なら電気温水器はタイマーで深夜電力を利用して夏の間中稼働し、湯温を保ち続ける仕組みである。上水道の元栓も閉めたのに、電熱器に火が入るのはうまくない。温水器のコンセントは抜いて回ったはずだが見落としがあっては不都合なので、水道と同様に元から切断しておくことにしたのだ。
 ギィはカントリーハウスの戸口に鍵を掛け、中庭に続くポルタイユには南京錠の下がった鎖を絡ませた。本来は夏の終わり、新学期を迎えるまで待つはずだったヴァカンス終了の戸締まりである。中庭側のフランス窓も一々施錠を確認して回ったのだった。
 こうしてカントリーハウスに残った最後の住人、ギィと修理も殿備えの始末を諦め、尻に帆を掛けて逃げ出す羽目になった。ドアノー家に集まった一党の全員が、トゥレーヌ地方の田園に清水を失って、上水難民と成り果てることになったのである。
「水が出なけりゃビールを飲んでりゃ良いと思っていたんだがな……」
「飲み水なんかはどうとでもなっても、生活のための水ってのを結構使ってるものだね」
 実際、上水道を水量メーターのところで止めてしまったら、風呂に入れないどころかトイレが使えない訳だし、ちょっと手先を洗うといったほどのことにも差し支えがある。戸締まりに回っていたギィが中庭側の通用口の掛け金に指を引っかけて擦り傷を作ったのだが、絆創膏ばんそうこうを貼る前に傷口をすすぐのに修理がペットボトルの水を流しかけてやらなければならなかった。こんなこと一つでもちょっと面倒が増している。
 蛇口から水が出るという当たり前の一事がどれほどの生活の利便であるものか思い知った。そればかりか、水が出ないだけで生活が途端に紛糾するというのは、不自由の無い文明生活というものの基盤が存外脆弱であるということを知らせている。修理の胸には遠く暗雲を眺めるような、凶兆の予感、小さなわだかまりが滞った。
 かくして修理の望んでいた静かなヴァカンスが併せて終了となったわけだ。それどころか、ギィと二人、しばらく乏しい手回り品だけを携えて、中西部の知りあいの家を転々とする成り行きが待っていた。
 最高効率で町を経めぐる巡回セールスマン問題どころの話ではない。次に身を寄せることの出来る先が見つかれば這う這うの体で逃げ延び、すぐに気詰まりになって次を目指す。そんな風に行き当たりばったり手当たり次第、まるで骰子を振って次の目的地を決めるかのような二人の冴えないモーターサイクル・ダイアリーの始まりであった。
 
 朝はやくカントリーハウスを発ったギィと修理はギィとトゥール大で共に学んでいたマルタン・アルビドゥルの実家が待つサン・フロヴィエに向かった。
 道はトゥレーヌ地方の農道を南東に向かい、朝日はほとんど正面から差している。農道が蛇行するたびに朝日が正面にまわり、靄の向こうから道全体を一面に輝かす。サンバイザーの装備などなく、サングラスの用意もないバイクの二人である。道が朝日に正対するたびに目が眩んで、二人路肩に目をそらしてスピードを弱めるしかない。幸い対向車はほとんどなかった。
 
 農道は菜の花畑と向日葵ひまわり畑の間を縫って続く。この地域は欧州有数の食用油の生産地だ。なだらかな畑はときおり緩やかな谷間を渡り、遠く木立の向こうに教会の尖塔が見えれば次の町が待っている。
「こんな小村でも必ず一つは教会があるんだね」
「そうだなあ、住人が百人もいれば教会は建つな」
「それは町の人の持ち出しで建てるってこと?」
「いや、司教区の負担や地方領主の寄進で建てるのが普通だ。威信を懸けて建てるわけだ」
「それは日本の社寺も同じだね。するとまず司教区なり領主なりのイニシアティヴで教会が建って、だから住民が集まるってことなのかな?」
「いや、やはり住民があればこそ教会も建つわけだ」
「それにしちゃ、どんな小さな街でも必ず教会はあるみたいじゃない。教会が先行してない?」
「なんだかんだ言ってもやっぱり人が集まっているということが先決なんじゃないか。教会が建たないような僻地でも、領主の後ろ盾がなくても、小聖堂シヤペルを住民が手ずから作ったりすることもあるしな」
「それはやっぱり自然発生的に出来るんだろうか」
「村落があれば、人が生まれ、人が死ぬだろう。そうしたところには教会があって墓がなくっちゃいけないじゃないか」
「人が生きて死ぬってことが教会を要請するのか。やっぱりキリスト教国なんだよな。結局フランスの町っていうのは教会が中心になるってことだね」
「外形的にはそういうことになるかな」
「外形的?」
「教会はやっぱり事後的に求められるものなのかもしれないよ。やはりまずは人が集まっているっていうことが基盤になる」
「だって教会があるところに人が集まるんじゃないの?」
「それは結果論なんだよ」
「じゃあ人はどうして集まるっていうのさ」
「いま、回ってきたような町々にも、もう共通点はあるじゃないか」
 少し謎めかしたようなことを言うが、この場合のギィは歴史地理のドリュイエ先生というわけだ。修理はしばし首を傾げていたが、やがてにやっと微笑んで答えた。
「川筋ってことかな」
「教会よりも先に、まず村落の中心となる下部構造がある。それは泉だよ」
「泉……」
「どこの街でもそうだが、教会広場よりも古くからある広場がある——それは『泉の広場(プラース・ド・ラ・フォンテーヌ)』なんだよ」
「そうか……文明はいつも河川の賜物」
公教要理カテキスムで『人はパンのみにて生くるものにあらず』って説教されたら『お茶が要るよね』って答えた奴がいるけど……」
 修理が笑うとギィも笑いを返した。
「水が無けりゃ、文明以前に生命が成り立たないからな。定住、農耕の条件どころか、それはまず生命の条件だ」
 人はまず水の湧くところに住む。それは清流でもいいし、段丘崖だんきゆうがいの湧水でもいい。天然の泉でも鑿井さくせいした井戸であってもいい。人の集まり住む所を「市井」と呼ぶ所以である。
 もっぱら清泉の湧くところに町の萌芽が育ち、川筋をともにして文化文物を交換する。まことに皮肉な話だが、清い上水道を失って放浪の途に追われている二人からすると他人事ではない。
 
 バイクは教会前広場に停めて、二人は目的地のマルタンの実家に向けて緩やかな坂道を下り、坂の底で橋を渡った。すり減った石畳の橋だが幅は2m程で車は通れまい。橋から見下ろす小川は流れが淀んでいるが、川べりに洗濯場があった。もちろん現役の施設ではない。
 河水は葦の茂みの陰に静まっており、石畳にきしるギィのブーツの足音に応えるように、橋の袂で川へと飛び込んで逃げる蛙の水音が聞こえた。
 マルタン・アルビドゥルの実家は、サン・フロヴィエという小村の中心にある教会裏の橋を渡って小川からすこし上った小径に面したファームハウスだった。なかなか立派なお屋敷で橋のところから既に梢の向こうに母屋のマンサルドが望めるぐらいだったが……近づくにつれギィと修理の困惑は深まる。
 周囲の路地の駐車が多い。人気が多い。騒ぎがある。歓声が上がっている。門に近づいて呼び鈴を探す要もなかった。アルビドゥル邸にはこの午前にしてもう二十人からの客が犇めいていたのだ。
 ギィは昨晩に難民受け入れを願って電話した時のマルタンの「不承ぶしょう」な口ぶりの意味をおぼろげに悟っていた。
 アルビドゥル邸は既に客を迎えていたのだった。それも大勢の客を。何かの派手な宴の最中であるらしかった。
 まるでたまたま立ち寄った町でお祭りに出くわしてしまったような感じだ。だがこれ幸いとこの祭りを楽しんでいこうという気にはならない。ギィも修理も悟りはじめていた。
「なんの騒ぎだ?」
「何かのお祭りかな」
「ともかく……それは俺達を迎えてのお祭りってわけじゃあないだろうな」
「うん、これは他所のお祭りだ。僕ら……場違いだね」
「あんまり長居は出来そうにないよな」
 事情にぴんと来たのはギィが先だった。路駐の車のワイパーにリボンが絡んでいたのだ。
 そのリボンは修理には有効な手がかりではなかったが、アルビドゥル邸の生け垣の向こうに二人ほどの女性を見咎めて、修理の方も何かにぴんと来ていた。ややシックな装いだが明らかにそれはパーティー・ドレスだったのだ。そして視界を横切った小さな子供が……蝶ネクタイをしていた。
 決定的だったのは人垣を掻き分けて旧友ギィを迎えたマルタン・アルビドゥルがタキシードを着ていたことだ。ラペルに花まで挿している。
「ギィ……これって」
 マルタンの後ろから白いドレスの女性が進み出る。マルタンがギィに紹介しようとしているが、もうギィにも修理にも事情は明らかだ。
「まずいな……結婚式じゃないか!」
 マルタンが新婦シャルロットの肩を抱いて、旧友ギィと初対面の修理に紹介した。
 ギィはビズーではなく、新婦の白い手袋の手をとって膝を屈めてお辞儀をした。修理もそれに倣って膝をついた。なんというか「下々の者」みたいな態度をとるしかなかった。
 正装の新婚夫婦を前にして、バイクのヘルメットを携えた修理はバイクの後部座席でうっすら汚れたぺらぺらの部屋着のまま。ギィに到っては昨晩シャワーすら浴びていないし、カントリーハウスで草刈りをしていたままの垢染みた作業着で宴席に踏み込んでいたのだった。
 これはもう跪いて、なんなら大地に叩頭するぐらいしか挙措のとりようがないではないか。
 
 この様に、いざ事情が判ってみればギィも修理もたいへん居心地の悪い思いだった。昨晩の電話口のマルタン・アルビドゥルは、まさしく恋人のシャルロットと二人で、実家に結婚の報告および前夜祭に来ていたところだったのである。これで正式に家族が増えたねといって、近親縁者を呼び寄せて昨晩から祭りが続いていたのだ。本当に間が悪かった。最悪だ。
 もちろんアルビドゥル家の両親はすでにシャルロットと面識があったが、昨晩が両家の縁戚の者らに引き合わせた初めての食事会で、今日は市役所での婚姻届提出の日、そして今夕には友人たちも招いた宴の席が用意されていた。
 どう考えてもギィと修理の二人が「お邪魔してすみません」などと言っていられない状況だった。もちろん本来は宴にギィと修理の席があるわけもなかったが、そこは相互歓待の掟がローマ以来の習慣である。蛮族の難民だからといって締め出したりはしないのである。酒食は二人にも供される運びになってしまった。
 貴人の祝いの席に闖入してしまった蛮族の難民二人は末席で小さくなっていた。小さくして隅っこに収まっているより仕方がない。こんな汗臭く小汚いなりでうろうろしていてはホストのアルビドゥル家の沽券に関わる。
 いくらなんでも場違いにも程がある。しかも、そんな宴もたけなわのアルビドゥル家に訪れて、最初にしたことと言えば、御不浄をお借りすることだった。交代でお借りした。
 なにぶん似たような中西部の町、水系も同じアンドル川流域ということで、上水道のトラブルには共感もあったことだろう。とりあえずの緊急避難については是非もなく、その日は蛮族の難民二人は客間の暖炉の前のソファで眠ることを許された。今回ドアノー家のカントリーハウスに起こった椿事、水問題に関しマルタン・アルビドゥルとその一家は「なるほどそれはお困りだったでしょう」、「この辺ではよくあることで……」と同情もしてくれて、祝いのさなかにも何くれとなく持て成してくれたのであるが、その同情にかこつけて長逗留を決め込む厚かましさは二人にはなかった。
 長逗留どころか一刻も早く出ていきたいぐらいだったが、ここでさっさと踵を返すようでは「俺達は帰らせてもらう」なんていう態度と受け取られかねない。まるで「この結婚に異議がある」と言っているようではないか。異議は無い、まったく無いんで、せいぜい大いにお祝いしたいし、宴席のお邪魔はしたくないし、出来うることならこの場で融けるように消え失せたい。
 夕さり、マルタンとシャルロットの新夫妻はアルビドゥル家の両親や親戚縁者と一緒に市役所で法定上の婚姻の契りを結び、続いて教会堂の裏手の庭園で集合写真を撮ったりなど忙しくしていた。ギィと修理はその間に作業服、部屋着の装いを生かして夕べの立食パーティーの準備などを、それこそ業者宜しく引き受けた。
 市役所併設の多目的ホールに卓を並べてケータリングの食材をならべ、さらにホール手前のパティオに日除けのタープを張って、その下を即席の食堂ビユヴエツトに設えたのである。ビュベットには簡素な即席バー・カウンターとブタンガスのグリルが並び、飲み物や軽食を提供する形だ。結婚式のパーティーというよりは小学校の期末発表会フエツト・デコールの出店みたいだった。
 やがてばらばらと姿を現した会席者の中から新郎新婦や家族の者をみつけるとギィは改めて寿ぎを陳べ、立食パーティーの出席については固辞しようとしたものの、あいにく準備に手を貸したことが災いして参加を強制されてしまった。そこで参加はしますがパーティーの裏方というか仕事の方をお手伝いしますよと申し出た。それからマルタンやその両親には「明日早々にお暇しますので」と告げたのだったが、この時点でまだ次に身を寄せる先の目処はついていなかった。
 そんな訳で夕方の宴席の片隅には、また別の友達を近隣に見繕って電話をかけまわっているギィの姿があった。
 そして修理はと言えば、完全に進退きわまっていた。こうした鄙びた村にはまれなアジア人の登場を珍しがって、移動が自由な立食形式をよいことに会席者が次々と立ち寄っては「マルタンのご友人? シャルロットの方?」といった具合に、どういったご縁でいらっしゃったのかをいちいち訊いてくるのである。どう答えればよいのだろう?

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