ブックガイド——中央ユーラシアから見る歴史|白石直人
従来の歴史記述の多くは、ヨーロッパ諸国や中国の歴代王朝の視点から書かれたものが多い。そうした視点の記述では、大陸の中央部を広く占める中央ユーラシアは見過ごされるか、「野蛮な敵」として貶められるかがほとんどである。しかし近年は、見過ごされてきた中央ユーラシアの視点から歴史を記述し直す試みが活発に行われている。今回の記事では、そうした中央ユーラシアを主人公として描かれる歴史の本を紹介したいと思う。
◆騎馬遊牧民の視点
ヨーロッパ諸国や中国の歴代王朝の視点の記述では「未開で野蛮な敵」として貶められた、騎馬遊牧民を中心に据えて世界史を書き直す試みを行っているのが、杉山正明・著『遊牧民から見た世界史 増補版』(日経ビジネス人文庫)である。特に歴代正統王朝を中心に捉える中華中心史観は、本書ではかなり厳しく批判されている。
アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世は、一代で巨大規模の国家建設(再建)を成し遂げており、それに比肩するのは世界史上でもクビライぐらいであると本書では評されている。しかしそのダレイオス一世の巨大帝国の野望を挫折させたのが、遊牧勢力スキタイであった。多様な遊牧民の連合国家であるスキタイは、以降の歴史でも繰り返し見られる焦土戦術によってダレイオス一世を敗走させた。その後、アケメネス朝ペルシャとスキタイ国家は南北で対峙し合うが、この南の巨大帝国と北の巨大遊牧国家の南北併存は、その後の歴史で見られる二つの国家パターンの源流をなしている。
中国に目を向ければ、漢と匈奴の関係はこれに類似する。秦滅亡後の中国というと項羽と劉邦の対決を多くの人は思い浮かべるだろう。しかし著者は、匈奴の冒頓も交えた三つ巴が正しく、しかも司馬遷の『史記』を注意深く読めば、冒頓こそが英雄の風格を備えた勝者として描き出されているという。劉邦はそこまでの能力を持たず、特に白登山の戦いでは劉邦は冒頓に完全に屈服させられ、実質的に漢は匈奴の属国となったと著者は評している。
その後の中国の歴史でも、遊牧民が入り乱れている。五胡十六国時代に漢王朝(のちに前趙)復興を掲げた劉淵は、匈奴と漢の双方の血をともに受け継ぐ存在であり、匈奴語を話し匈奴と連携した。後の統一王朝である隋や唐は、遊牧系の鮮卑拓跋部が作った代国から北魏を経て、連続して隋唐へとつながる「拓跋国家」と捉えた方がよい、と著者は提唱する。「五胡十六国時代」と、まるでこの時代だけが野蛮な遊牧民に中国が荒らしまわられていたかのように記述するのは、後の中華王朝による歴史編纂の恣意性によるものだという。
少し外に目を向けると、突厥(テュルクの音訳)は6世紀半ばに、満州からアラル海の北にまで至る世界帝国を築き上げた。突厥に押し出された形でヨーロッパへと侵入したアヴァール勢力はビザンツ帝国への脅威となった。巨大帝国突厥が東西分裂し、その後も弱体化していく中、その空白地帯に浸透する形で今度は唐が大きく西進する。唐を激しい混乱に陥れた安史の乱の首謀者である安禄山は、イラン系ソグド人とテュルク系の混血であり、それを撃退して唐を救ったのはウイグル遊牧国家であった。ウイグルはソグド人商人と手を結び、庇護下に置いた唐との交易で大いに繁栄した。9世紀半ばのウイグル瓦解後、テュルク族の人々は西へ移動し、中東[1]からインドにかけては、イスラーム系テュルク族が政治や軍事を担うこととなる。特にイラン地域では、遊牧国家システムがそのままイスラーム中東世界に持ち込まれ、遊牧移動圏を面で押さえる権力のあり方や、部族単位の結合などの側面が引き継がれた。
本書では以降も、契丹(遼)や金、そしてモンゴル帝国などの展開が続くが、これらの話題はこれから紹介する別の本でも取り上げるので、一旦ここまでとして次の本に移りたいと思う。
◆文字記録以前の遊牧民
騎馬遊牧民が文字を使って自らを記述するのは6世紀以降であるため、それ以前の騎馬遊牧民の歴史は、考古学の資料を用いるか、騎馬遊牧民を敵として眺めた人々の記録を用いるしかない。林俊雄・著『興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明』(講談社学術文庫)は、そうした文字記録以前の時代の騎馬遊牧民の姿に迫ろうとする本である。
著者は考古学を専門とする研究者であり、そのため特にスキタイまでの記述は、大きなストーリーを展開するというよりは、遺跡発掘の話や発掘史料の解釈・位置づけを巡る議論などに紙面を多く割いている。まず馬の家畜化や乗馬、馬車の起源を巡る論争が丸ごと一章使って論じられている。鞍も銜[2]もない前三千年紀末から前二千年紀初頭における最初の騎馬は、今とは大きく異なっていた。馬の背中は脊椎が出っ張っていて股を痛めるので、背中ではなく馬の尻のあたりに腰掛ける様式であり、また手綱も銜ではなく鼻輪に通していたと考えられている。しかしこうした方法での騎乗は非常に難しいので、スポーク付き車輪の二輪車が発明された。発掘された馬の骨の奥歯の摩耗から銜の使用の有無を推定したり、見つかった馬の雄雌比から野生馬か家畜かを論じたりなど、少ない史料からの論争もなかなか興味深い[3]。
スキタイに関しては、動物や空想獣をあしらった美術品が写真付きで多数紹介されており、眺めているだけでなかなか楽しめる。併せて、スキタイ独自の美術様式と、西方の様式がどのように混ざり合ったのかなども論じられている。
後半は匈奴が扱われているが、こちらは秦漢などとの関係を中心とした時系列の記述が主である。戎狄と中華帝国との激しい攻防はよく知られるが、杉山『遊牧民から見た世界史』と同様に、著者は長らく戎狄の方が武力では勝っており、そのため中華勢力は騙し討ちなどの手段を用いていたという。漢から匈奴へ寝返る人も少なくなく、匈奴も有能な漢人には秋波を送り気長に待った。匈奴はしばしば侵攻時に人や家畜を多く連れ去っているが、これについて著者は匈奴領内で農耕に従事させるためだろうと論じている。これは騎馬遊牧民の行動パターンの一つで、フン族も遠征時に同様の連れ去りを行っているという。
◆シルクロード
シルクロードという語には、かつてのNHKの番組の効果なども相俟って、独特の魅力と懐かしさがある。シルクロードというと、唐代の交易やその終着点としての正倉院の宝物をイメージする人が多いだろう。だが、シルクロード交易自体はそれよりもはるか昔から活発に行われ、歴史に大きな影響を及ぼしてきた。長澤和俊・著『シルクロード』(講談社学術文庫)は、旧石器時代から第二次世界大戦頃までのシルクロードの軌跡を記述した通史である。
一口にシルクロードといっても、まず思い浮かべるであろう砂漠の中のオアシスを抜けるオアシスルート以外に、北方ステップ地帯を抜けるステップルート、東南アジアからインド洋を抜けていく海のシルクロードと、大きく分けても三つの主要ルートがある。またこれらのルートは随所で南北にも結ばれている。サマルカンドなどからアフガニスタンを経てインドに抜ける南北の経路は、アレクサンドロス大王の東征から玄奘の入竺まで、多くの人や物が通っている。
砂漠の中のオアシス国家は、数十キロ先の水源からカレーズと呼ばれる地下水路を引いて、人間の不断の努力の下に維持されているものである。紀元前千年紀には既に、東西トルキスタン地域にはこうしたオアシス都市国家が多数作られていた。オアシスは水の制限から農地の拡張が難しく、そのためオアシスの民は特産物の採集や特産品製造、次いでそれを交換する交易へと乗り出していった。
仏教の伝播と変容には、シルクロードが大きな役割を果たしている。アレクサンドロス大王の東征により、ギリシャ人が現アフガニスタンなどの東方へと移り住んだ。一方紀元前2世紀ごろ、インドでは仏教弾圧が行われ、仏教徒は国外へ逃亡し、そこで布教を行った。ギリシャ人も住んでいたガンダーラ地域は、そうした布教の場の一つだった。当時の仏教では(人間を超越した存在である)釈尊を人間の姿で描くことは避けられていたが、神像や神殿を作るギリシャ文化の人々は、釈尊もまた人の姿として形作ることを欲し、人の形で祀った。これが仏像の起源の一つの有力な説である[4]。
技術面の交流も大きい。春秋戦国時代の中国の暦にはすでに、バビロニア暦の影響が明確にみられるという。琵琶やハープといった楽器も、漢代にはすでに中国に伝わっていた。唐代においては、唐とアッバース朝が衝突したタラス河畔の戦いによって紙の製法が西方に伝えられた。モンゴル帝国の時代には、印刷術、羅針盤、火薬といった技術が中国からアラブ地域を経由してヨーロッパへと伝えられている。
荒川正晴・著『オアシス国家とキャラヴァン交易(世界史リブレット62)』(山川出版社)は、主にソグド人商人が担っていたキャラヴァン交易の実像を掘り下げた小著である。薄い本だが中身は濃く、砂漠の中に点在するオアシス国家を行き来する交易の実態がよく見えてくる。
シルクロードのキャラヴァン交易というと、遠方の商品をはるばる運んでいくイメージが強いが、実際には近接するオアシス国家の間を行き来する形も多いという。近接オアシス間の交易であっても、一往復の交易の間に馬などの動物の3割が死没ないし行方不明になり、商人が盗賊に襲われることもあるなど、十分危険なものであった。また商人が遠距離移動をする場合でも、朝貢などを除けば、一つの商品をはるばる遠方まで運ぶのではなく、近接オアシス間でこまめに商品を交換して利ざやを稼ぐことが多かった。こうした遠距離移動の交易では、各地にいる同族は信頼できる重要な交易相手であった。
オアシス国家の王たちも、こうしたソグド人商人たちと連携し、安全の保障を与える代わりに課税や出資の見返りなどの形で利益を得た。またソグド人商人たちは「王の使節」として派遣される場合もしばしばであった。しかしオアシス国家の王の権力が及ぶ領域を超えて派遣される場合には、交易ルート上の他のオアシス国家に対して逐一王の書簡や手土産を渡して便宜を図り、安全を確保する必要があった。この問題は、突厥などの遊牧国家、次いで唐がこれらの地域を統一的に支配するようになると状況が大きく変わる。これら統一支配勢力が一括して交通の安全を保障してくれるようになるからである。また唐代になると交通の整備も進み、オアシス国家ごとの規制や市ごとの徴税などもなくなった。こうした変化は、シルクロード交易をこれまで以上に活発化させるものとなった。
◆中国史における遊牧勢力
中国史の標準的な解説だと、北方遊牧民はもっぱら外部の夷狄という位置づけのことが多い。しかし、杉山『遊牧民から見た世界史』でも指摘があったように、それは中華中心主義的な見方であり、実際には遊牧民は中国の歴史を形作る有力な勢力の一つである。古松崇志・著『草原の制覇 大モンゴルまで(シリーズ 中国の歴史3)』(岩波新書)は、普段は脇役とされることの多い遊牧民を中心に据えた中国史である。取り扱う時代は北魏や隋唐から元までだが、特に唐滅亡後から元成立以前の多数の国家が並立していた五代十国時代の遊牧系国家、具体的には契丹(遼)、沙陀、西夏、金などの記述が詳しく、類書も少ないので貴重である[5]。
安史の乱後の唐代後期には、唐にはもはや北方勢力を抑える力はなく、その中で契丹は力を伸ばしていた。契丹は遊牧勢力でありながら都市も作り、200年以上の繁栄を実現した。もう一つ、同じく唐滅亡期に力を伸ばしたのが、テュルク系遊牧勢力を中心とした沙陀勢力である。唐滅亡に一役買った李克用もまた沙陀勢力であり、五代のうち後梁を除く国(後唐・後晋・後漢・後周)から北宋に至るまではすべて沙陀に出自を持つか沙陀に属した漢人による国家である。著者は、これら一連の諸王朝は「沙陀系王朝」と呼ぶべきものだと書いている。
契丹と沙陀系勢力はしばしば軍事衝突を起こしたが、同時に平和的共存を実現させる工夫も行っていた。特に著者は、契丹と北宋の間で結ばれた「澶淵の盟」を重視する。現実の軍事力のバランスでは契丹のほうが上であったが、澶淵の盟では形の上では両者が対等な擬制親族関係を築いた。澶淵の盟は手本とされ、高麗や西夏などとの間でも類似の盟約が結ばれた。これらの国の間ではときどき軍事衝突は生じたが、そのたびごとに他国が仲裁に入るなどして和議が結ばれ、全面衝突には至らなかった。12世紀前半には、女身族の金が勃興し、契丹を滅亡させ覇権を握る。金もまた南宋、高麗、西夏などとの間に盟約を結び、平和的共存が図られる。ただし澶淵の盟とは違い、明確に金を上位としている点には注意が必要である。しかしこうしたバランスの変化はあれど、このような多国共存体制が、11世紀半ばからモンゴル帝国が台頭する13世紀初頭まで、東ユーラシア地域には形成されていた。
◆モンゴル帝国
世界史に圧倒的影響を及ぼした騎馬遊牧勢力といえば、やはりモンゴル帝国を外さずにはいられないだろう。最盛期のモンゴル帝国の戦線は、今のハンガリーやシリアにまで及んでいる。しかしその巨大帝国も、元をたどればチンギスのごくわずかな支配地から始まる。白石典之・著『チンギス・カン──“蒼き狼”の実像』(中公新書)は、著者が専門とする考古学的見地も踏まえながら、伝説化されがちなチンギスの実像を描き出す本である。
内陸アジアは10世紀ごろを境に、現在よりも二度ほど温度が高い温暖湿潤な環境から、現在よりも二度ほど温度が低い寒冷乾燥な環境へと変化し、食料状況は悪化した。こうした厳しい状況を背景に、モンゴル族含む北方勢力は契丹へと侵入するようになり、契丹は国境に簡易版「万里の長城」たる長い溝と壁を作って防衛した。行き先を失ったモンゴル族は西へと進出していくが、金の勃興と契丹の衰退に伴い、モンゴルは群雄割拠の中で領域を広げる。チンギスはこうした中で、リーダー格の一人の長男として生まれた。早い父の死と没落の苦難の時代を経て、高原統一政権たる大モンゴル国の君主となる。
チンギスによる制覇の背後には、鉄の確保がある。11世紀以降、鉄製矢じりの増加・大型化が生じ、馬具での鉄の使用も相まって、鉄の重要性は増大していた。モンゴル高原周辺には鉄産地は少なくない一方、モンゴル高原自体は鉄には恵まれていない。チンギスは、早い時期から鉄産地の確保に全力を挙げた。また考古学的証拠から、かなり大規模な製鉄武器工房群を、国の中心にある自らの宮廷に作りあげていたと著者は論じている。弟や息子たちを古来の幹線道路沿いに配備して交通を押さえ、後方で鉄を大量生産し前線へと効率的に送り出す。チンギスはそのような戦略で版図を広げていった。
世界征服者たるチンギスというと、豪奢な生活をイメージしがちであるが、発掘調査はかなり質素なチンギスの姿を示唆している。チンギスの宮殿跡の調査では、出土品のほとんどは陶器で、金銀財宝や戦利品などは見つかっていない。しばしばイメージされる巨大宮殿は二代目オゴデイなどのときのものとの混同であり、チンギスの宮殿は一辺約17メートルほどの四角いテントに過ぎなかったという。チンギスの生活は、質実剛健な普通の遊牧民のそれに近かったのである。
モンゴル帝国全体の歴史を知るなら、杉山正明・著『モンゴル帝国の興亡(上下)』(講談社現代新書)が、モンゴルを「野蛮で残虐な破壊者」とするイメージを大きく覆してくれる通史である。モンゴル帝国でイメージされるであろうチンギスは、上巻の1/4ほどであっさりといなくなる。本書の中心をなしているのは、第五代モンゴル帝国皇帝のクビライとその治世である。
モンゴルの残虐さのイメージは、敵とモンゴル自身双方によって膨らまされた側面もあると著者はいう。モンゴル軍は、自身に逆らったものは残虐な目に遭うと思わせることによって、敵を戦わずして降伏させることを最良の戦略としていた。そのため、虚偽の「モンゴルの恐怖」の話も、むしろモンゴル自身が積極的に広めていたのである。実際には、恭順の意を示した地域の市民がそのまま保護されたり、有能な人材ならばモンゴル側に登用されたりすることも少なくなかった。
現在の北京にあたる、大元の首都である大都は、クビライによって建設されたものである。綿密な設計により、『周礼』で示された理想の中華式帝都として作られた大都は、まさに空前絶後の都市であった。内陸都市でありながら巨大な港を持っており、それは大運河によって海へとつながっていた。大都は内陸部への交通網の起点でもあったので、陸と海の結節点をなしていた。
クビライは、経済面では重商主義と商業奨励をとった。中央財政の大半が専売と通商の商業利益で賄われており、農作物からの徴税に依存していなかったことはその証左である。王族たちもこぞって商業に乗り出し、各地で経済活動を展開することで国家収入も増えるという好循環を実現させた。専売である塩の引換証たる「塩引」は、実質価値の裏付けを持つ信用できる補助通貨として、国内の通貨需要を補い、取引で活発に使用された。
モンゴル帝国分裂後、帝国のかつての支配地からは、それ以前には存在しなかったような、似たようないくつかの帝国が生まれた。東では明・清帝国、西ではオスマン帝国、南ではティムール朝からムガル帝国、そして北ではロマノフ朝である。これらは(ムガル帝国がやや早く消滅するのを除き)第一次世界大戦頃まで存続し、そしてそこで一斉に消滅する。
◆チベット~もう一つの内陸アジア
騎馬遊牧民の世界とは異なる中央ユーラシアの重要なアクターとして、チベットの存在は外しがたい。チベット仏教はモンゴル帝国や清朝などを魅了し、19世紀になると欧米の探検家たちの垂涎の的となった。一方、現在では中国の弾圧によりその文化は危機的な状況にある。石濱裕美子・著『物語 チベットの歴史──天空の仏教国の1400年』(中公新書)は、近現代を中心としたチベットの平易な通史である。
チベット仏教の特徴の一つに「転生相続」がある。ダライ・ラマなどの高僧は、死の直前に予言された地に生まれ変わるとされ、弟子などはその転生者の子供を見つけ出し、その子が先代を引き継ぐ(理念的には先代と同一人物とされる)。多数の候補の中から優秀な人材を選び出し、高度な教育を受けさせるため、子孫が生まれなかったり優秀でなかったりする不安定性を抱える血縁相続よりも優れている。また、一人ではなく複数の高僧が転生することで、転生者が幼い間は年長者の側(ダライ・ラマならばパンチェン・ラマ)が教育を施し、権力の空白の発生を防ぐようにした[6]。
元々は分かれていた宗教、政治、軍事の権威が一人の下に統一される「政教一致体制」が築かれるのは、ダライ・ラマ5世(1617-82)のときである。ダライ・ラマ5世は古代チベット帝国の神話を意識し、ラサのポタラ宮を建設し、自身を観音菩薩や開国の王ソンツェン・ガムポと同一視させるような効果を生み出すなどして、自身の権威を高めた。政教一致体制はクビライの治世でも実現されていたことも、こうした体制の構築に役立った。この体制は、現在のダライ・ラマ14世が2011年に政治権力を民主的に選ばれた首相に移譲するまで続いた[7]。
チベットは1903年にイギリスの、次いで清朝の侵攻を受ける。ダライ・ラマ13世は清朝軍排除が完了する1913年まで、チベットを脱出し各地を転々とする。このダライ・ラマの大移動は「亡命」とネガティブに捉えられることも多いが、ダライ・ラマ13世が訪れた各地で仏教徒の信仰を促進するポジティブな効果も持っていた。ダライ・ラマ13世は各地で綱紀粛正にも熱心に取り組んだため、破戒を行う堕落した各地の僧らはむしろ困った立場に追い込まれたという。
1950年の中国人民解放軍によるチベット侵攻のさなか、わずか15歳で政治の長の座に就いたのがダライ・ラマ14世である。60年代の文化大革命でチベットの文化が完膚なきまでに破壊される少し前、彼はインドへと脱出する。亡命の身のダライ・ラマ14世は現実主義的であり、多くのチベット人が帰還を信じて仮設のバラックに住みたがる中、インドから土地を借りてチベット人居留区を作り、学校などの教育施設の再興を進めた。中国はチベットで弾圧と同化政策を推し進め、1995年にはダライ・ラマ14世が認定したパンチェン・ラマ11世の少年を拉致し、中国政府の傀儡となる人間をパンチェン・ラマ11世に押し立てた。ダライ・ラマの後継についても同様の方策を中国政府は目論んでいると見られるが、その目論見を防ぐべくダライ・ラマ14世は次の転生先はチベットの外であると繰り返し明言している。
[1] そもそも「トルコ」と「テュルク」は同じものである。
[2] 人間とは違い、馬には前歯と奥歯の間に歯の生えていないスペースがあるので、そこに銜という棒状の馬具を通し、手綱につなぐことで騎手が馬を制御できるようになる。
[3] 馬をめぐる最近の研究動向のまとめとして、中村大介「馬利用に関する近年の研究動向」(『埼玉大学紀要(教養学部)』第 55 巻第 1 号、2019 年)https://sucra.repo.nii.ac.jp/records/18767 もよくまとまっていて面白い。
[4] ガンダーラ起源説以外に、インドのマトゥラーを仏像の起源とする説もある。本書ではガンダーラ起源説が主にとられている。
[5] 元については、次節で紹介するモンゴル帝国のところを見ていただきたい。唐における遊牧勢力の影響については、森部豊・著『唐──東ユーラシアの大帝国』(中公新書)が、杉山『遊牧民から見た世界史』で提起されていた拓跋国家という視点を踏まえつつ俯瞰的視点から論じている。この本はまた別の機会に紹介したいと思う。
[6] それでもダライ・ラマや高僧が、女犯や飲酒などの破戒行動を繰り返して堕落する事例は見られた。そうした状況を外部の人々は呆れた目で眺める一方、当のチベット仏教徒は「密教者の行動である」と解釈して受け入れていたという。
[7] ちなみにダライ・ラマ14世は、それまでにも三度政治権限移譲を行おうと引退宣言していたが、そのたびにチベット人たちが熱心に懇願して取り下げさせていた。
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