ブックガイドーー民主主義を巡って〈前篇〉~思想と歴史~|白石直人
ポピュリズムや権威主義化、民主主義の機能不全など、民主主義を巡る問題が、世界のあちこちで起きている。しかしそもそも、民主主義とはどういうものなのだろうか。民主主義はどうすればうまく機能するのだろうか。民主主義をよりよく理解するため、今回と次回の2回にわたり、民主主義を深く掘り下げるための本を紹介していきたい。
◆民主主義とはいかなるものか
民主主義を考える最初の一歩としては、佐々木毅・著『民主主義という不思議な仕組み』(筑摩書房)が読みやすい一冊である。中高生向けのレーベル(ちくまプリマー新書)から出ているので、書き方も平易で分かりやすい。古代ギリシャの直接民主制からフランス革命、イギリス議会制度などまでの民主主義の歴史、アリストテレス、ルソー、ハミルトン、バジョットなどによる民主主義思想、そしてエリートと大衆の関係、多数の専制、利益誘導政治の問題など民主主義を巡る重要な論点がコンパクトにまとめられている。
より現代的な民主主義の問題状況に対して社会思想がどう考えているのかを知りたいならば、森政稔・著『変貌する民主主義』(筑摩書房)がよい本である。扱う問題は多岐にわたるが、本書を貫くのは、社会の多様性、多元性が増している現代において、「集団的決定を行って影響を及ぼす人々」と「その決定の影響を受ける人々」が必ずしも一致しない状況をどう捉えるか、という問題である。
少数民族などのマイノリティを巡る問題はその最たるものである。また、ポピュリズムにおいて持ち出される「我々対彼ら」という構図は、この問題に逆向きから働きかけるものでもある。アイデンティティに訴える政治においては、アイデンティティを固定的に捉えると同時に、「異なる属性の人には、自分たちのことは理解できない」というレトリックがしばしば用いられる。これは特に反差別の解放運動において見られるものであり、実際それが一定の有効性を持ってきたことも事実だが、このような本質主義的な見方はかなり危険なものでもある。異なる属性の人々同士の相互理解の不可能性を強く訴えることは、そもそも異なる属性の人々同士の共存自体が不可能だという主張につながる。これは容易に分離主義や異質な他者の排除へと転化し、多元主義とは真っ向から対立する。著者は、意見や属性を固定的に考え、ただ頭数を集計するだけのものとして民主主義を捉える見方を批判し、熟議民主主義のような、意見の変容や結論に至るプロセスを重視する見方に意義を見出している。
現代の人々の要求にはリフレクシヴィティ(反省性)の低下がみられる。これは、予算等の制約のある公共空間に対する要求について、外から見てその要求は公共性や妥当性があるかを検討することをせず、とにかく自分の欲求をそのまま発出させてしまう状況を指す。「税金は下げて、福祉は充実せよ」のような不可能な要求が跋扈する中では合意形成は困難であり、その中で合意できるものは「今あるものはよくない」という、ポピュリズムでしばしば見られる現状制度の破壊に陥りやすい。こうした破壊に有権者がカタルシスを覚えるのは、政治をゲームのように眺めているからともいえる。これはスポーツ観戦における熱狂とも似ているが、スポーツとは違い有権者は政治の中にいるという基本的な事実がしばしば忘却される。
◆代議制をどう見るか
待鳥聡史・著『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(中央公論新社)は、代議制という切り口を用いて、民主主義の在り方を歴史や制度の観点から鋭く考察していく好著である。代議制民主主義は、有権者から政治家、そしてそこから官僚へという向きの委任の連鎖と、逆向きの責任の連鎖が基礎の一つにある。この「委任・責任関係」は、代表と有権者の間の同質性によって正当化されることが多かったが、既に見たようにこの同質性は現代においては必ずしも成り立たない。これが、現代において代議制への疑義の声が強まる原因の一つと著者は見ている。
本書を貫く一つの視座は、自由主義と民主主義の区別である。議会は今では民主主義のためのものと考えられているが、歴史的に見ると議会はむしろ自由主義のためのものであった。ここで「自由主義」とは、多様な政治勢力が争い合うことで権力の暴走や権利の侵害を防ごうとする立場を表したものである。権力集中の回避とエリート間の競争を基盤とする自由主義の思想は、民意を全面的に反映させようとする民主主義の思想と常に一致するわけではない。様々な政治勢力が歯止めとなることで極端な決定を回避しようとする自由主義は、民意の反映をエリートが妨害するものとも見ることができるからである。また、競争による権力の牽制が機能するのは、競争に参加するエリートが妥協して合意に至れるからであり、そのためにはエリートに裁量が与えられていないといけない。しかし、民意を反映する、あるいは有権者の委任を果たすという点では、エリートたる政治家や政党の裁量の幅は狭められた方がよい。
自由主義的要素は、議会と大統領という異なるアクターが立ち並ぶ大統領制において強まり、議会と首相が融合する議院内閣制において弱まる。民主主義的要素は、選挙制度の比例性の高さ(比例代表制の方が小選挙区制より民主主義的要素が強まる)で測れる。ただし、両方とも強ければいいというものではなく、むしろ両者のバランスをとることが肝要である。例えば両要素がともに弱い組み合わせ(議院内閣制かつ小選挙区制)の代表例はイギリスであり、本書ではこれは一方が強まることなく上手に運用されている例として紹介されている。むしろ両要素がともに強い組み合わせ(大統領制かつ比例代表制)はラテンアメリカで多く見られたが、両要素の対立はしばしば政策決定を下せない状況を生み出し、それが大統領緊急令の頻発や独裁化など超制度的な解決を招いてしまった面がある。ちなみに平成期の日本の制度改革は、中央政府については首相への権力集中を目指すような、自由主義的要素を弱めようとするものだったのに対し、地方政府では逆に関与するアクターを増やすような、自由主義的要素を強めようとするものであり、一貫性を欠いていたと著者は指摘している。
本書が扱う話題はこれだけではなく、政治の大統領制化[1]、汚染効果[2]、レイプハルトの類型論[3]など、多岐にわたるトピックスを手際よく捌いている。今回の記事で紹介した本の中から一冊選ぶのならば、私はこの本をぜひ薦めたいと思う。厚くはないが中身は凝縮された本である。
代表制の思想をさらに突っ込んで考える試みは、早川誠・著『代表制という思想』(風行社)においてなされている。代表は、代表される集団の性質をよく反映していることが期待されるが、同時に代表される集団の「最も優れた部分」を体現することもまた期待される。スポーツの日本代表はそのスポーツにおいて日本で最も高い能力を持つ人が選ばれるし、政治家に対して高い人格と能力を期待するのもこれである。著者はピトキンの代表論[4]を紹介しつつ「代表される集団とある面では似ているが、ある面では異なっていることが必要」という代表の二面的な側面を指摘する。
著者は、選挙による代表選出を、古代ギリシャで用いられていた抽選による代表選出と対比させる。選挙においては、選ぶ側は能力によらず等しく一人一票を持つが、選ばれる側は高い能力を持つなど何らかの意味で優れた者が選ばれる。これは、抽選において市民誰もが均等に代表になりうるのと対照的であり、この意味で選挙による代表選出は(広い意味での)貴族制の側面も残している。しかしこれが望ましくないのかというとそうではない。もし民意が確固たるものとして存在するならば、直接民主制や抽選制に軍配が上がるだろう。しかし、民意というものは固定的かつ一枚岩で存在するものではなく、不定で変容し続けるものであり、また民意は、争点問題の多様化・細分化に伴って断片化が進んでいる。選挙による代表選出は、民意をそのまま反映しようとするのでなく、変容し続け断片化する民意を代表から一旦切り離し、それを改めて代表の判断によって選び取らせる機能を持つものと、本書では位置付けられている。いささか逆説的な言い方をすれば、代表制の意義は民意を反映「しない」ことにあるのである。
◆民主主義はいかに広まってきたか
今では世界には民主主義国家も増えているが、民主化は一夜にして進んだわけではない。民主化の萌芽が見出されてもそれが消えることもあるし、途中まで民主化が進んでも揺り戻しが起きて非民主的な体制に逆戻りすることもある。民主化論は少し前の比較政治学の花形であった。
この分野の現代の古典ともいえる著作が、ロバート・A.ダール・著『ポリアーキー』(高畠通敏、前田脩訳、岩波書店)である。原著出版は1971年とだいぶ古く、具体事例は大きく変化してしまっている(例えばスイスが「女性参政権の制限された国」として挙げられている[5])が、本書で描かれる民主化の本質は変化していない。また、民主化という社会現象の謎を解き明かしていくプロセス自体も、なかなか面白さを感じさせてくれるものであり、一読に値する。
タイトルの「ポリアーキー」は、直訳すれば「多数の支配」だが、これは理想としての民主主義と区別して、現実に存在する比較的民主化された体制を指す語として用いられている。各国の民主化の度合いの比較軸として、著者は「自由化(公的異議申し立て)」と「包括性(参加)」の二つを挙げる。前者は公然の政府批判や反対政党の存在がどれだけ許容されているかの指標、後者はどれだけの人が選挙参加できるかの指標である。歴史的には、イギリスのように、まず政治参加できる人の範囲は制限されたまま政府批判の自由が認められ、次いで政治参加できる対象が広げられていく、という自由化先行の民主化が多かった。これは民主化の安定的なルートである。なぜなら、制限された同質的な少数集団内の方が、寛容と自由は認められやすいからである。だが現代の抑圧体制国家の多くは、(形式的なものであれ)幅広い対象への参政権を認めており、この自由化先行ルートはもはや辿ることができない。
経済状況や社会の不平等など、民主化にもたらす様々な要素の影響が考察されているが、「人々の信念」もまた重要な要素として取り扱われている。例えば「選挙に負けても、力ずくで結果をひっくり返してよい」という規範のある国では、選挙制度が導入されていてもその基礎は脆弱である。そのような例として、かつてのアルゼンチンにおける民主主義の退行が取り上げられている。
民主化はしばしば選挙制度の導入と同一視されてしまうが、実際には形の上では選挙制度が導入されているものの、民主的とは到底言えない国が多々存在している。J.リンス、A.ステパン・著『民主化の理論 民主主義への移行と定着の課題』(荒井祐介、五十嵐誠一、上田太郎訳、一藝社)は、民主主義の「定着」を議論する定評ある著作の抄訳である。本書では、単に選挙制度が導入されただけでなく、それが安定的に機能し、民主主義が「街で唯一のゲーム(民主主義以外の方法が考えられない状況)」となることを定着の特徴づけとしている。
本書では、無視されがちな要素として「国家性」と「経路依存性」の二つに注意が払われている。国家性の問題は、民主的決定を適用する「我々」の領域はどこまでなのか、という問題である。この問題は民主的に解決することはできず、民主的決定に先立って定められなければならない。またこれはその他の非民主的体制は直面しない民主的体制特有の困難であり、不適切な領域が選ばれていると民主的体制に対する不信を容易に呼び起こす。しかし、現在の非民主的体制の多くは多民族であり、また領域の境界が植民地支配の名残で極めて歪に引かれていることが少なくない。
経路依存性は、先行する非民主的体制や周辺国の状況がどのようなものであるかが、その後の民主化の成否に強く影響するというものである。例えば体制内ハト派と反体制内ハト派との協定による権力移行は民主化の有力な経路の一つだが、これは権威主義体制では起こりうる一方でスルタン主義体制[6]では(両ハト派が存在できないので)難しい。また、他国の状況や国際的潮流も影響を及ぼす。スペインのカルロス1世が民主化に肯定的だったことには、ギリシャ国王だったコンスタンティノス2世が民主化に否定的だったために追放されたことが影響している。
◆本当に民主主義はよいものか
ここまで見てきた本では、民主主義は様々な問題に直面しているが、しかし民主主義の理念そのものは大枠としては望ましいものだという立場に立っていた。これに対し、ジェイソン・ブレナン・著『アゲインスト・デモクラシー(上下)』(井上彰、小林卓人、辻悠佑、福島弦、福原正人、福家佑亮訳、勁草書房)は、社会科学と政治哲学の知見を組み合わせながら、民主主義を正面から批判する本である。著者が代わりに擁護する「エピストクラシー(知者の統治:賢明な少数者に政治的権限を与える制度)」は必ずしも支持できるものではないし実際私も支持しない[7]が、しかし著者の民主主義批判は民主主義を考える上で避けては通れないものだろう。
著者は、まず一般市民の多くは賢明ではなく、投票で愚かな判断を下しがちであるという(よくある)民主主義批判を確認する。そのうえで、民主主義を擁護する議論を一つずつ取り上げ、それに対して反駁を加えていく。
例えば、民主主義における熟議の過程は、それに参加する人々を賢明で寛容にするものであり望ましい、という擁護論はしばしば見られるものである。著者は、この命題は思弁的なものではなく経験的に検証可能なものであり、したがって実証的にその妥当性は確かめられるべきだとする。そして熟議の実証研究の多くは、熟議は容易に感情論へと転化し、他の参加者に対して影響力と権力を行使する立場を獲得しようとする争いに陥ることを指摘している。そうした熟議は、参加者にニヒリズムの感覚をもたらし、また自身が有するバイアスをむしろ強化することにつながりやすい。
また、一部の賢明な人々にのみ選挙権を認める制度は、選挙権を認められない者の尊厳を毀損するものだという議論がある。これに対して著者は、医療行為は医師免許を有する少数の人に制限されており、医師免許を持たない人が手術をしたいといっても認められないが、これは問題とされない、と反論する。能力に基づいて特定の人にだけ特定の行為が認められることは一般的であり、それによって尊厳が傷つく人がいたとしてもそれは通常考慮されない、ということである。
私たちのことを私たちで決定することこそが自由だ、という民主主義擁護論もある。しかしこれは「私たち」と「私」とを混同した議論だと著者は批判する。集団が下した政治的決定によって私個人の自由が制限されることは多々あるが、この決定に対して私が及ぼせた影響は微々たるものであり、実態は「私以外の集団構成員によって私の自由は制限された」である。もし私が参加しない「知者の統治」の決定で私の自由を制限することが不当なことならば、民主的決定で私の自由を制限することも同様に不当だろうと論じる。
[1] 与党という中間組織を飛ばして、有権者からの直接の支持を多く集める党首が政治権限を振るうこと。これが特に議院内閣制の幅広い国において見られていることが注目された。
[2] 異なる選挙制度を併用したり、あるいは国と地方で異なる選挙制度を採用したりした際に、それぞれの制度の短所が実現してしまうこと。
[3] アレンド・レイプハルト・著『民主主義対民主主義[原著第2版] 多数決型とコンセンサス型の36カ国比較研究 (ポリティカル・サイエンス・クラシックス)』(粕谷祐子、菊池啓一訳、勁草書房)において展開された比較政治学の議論。詳細は次回の記事で紹介する予定である。
[4] ハンナ・ピトキン・著『代表の概念』(早川誠訳、名古屋大学出版会)は代表論の現代の古典である。
[5] スイスで女性参政権が認められたのは連邦レベルで1971年、州レベルで1990年である。
[6] 一族による王朝的世襲と公私混同を特徴とする、中東でよく見られる専制体制。イデオロギーへの志向は特に存在せず、法の支配の意識が希薄である。
[7] 民主制の一つの特徴に「恣意性の排除」を挙げることはできるだろう。集団的決定(や入試選抜など)は、効率性や目的合理性よりも「手続きから恣意性が排除されていること」にかなり高い価値が置かれている。知者の選定基準は恣意性が不可避的に入り込むので、投票権を智者に制限した方が平均してより良い決定が下せたとしても、知者の統治を退けることには十分な理由があると考えられる。
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