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一穂ミチ「アフター・ユー」#006

今夜もう一度、電話ボックスへ――。
沙都子とともに遠鹿島に残った青吾は、多実と話せることを祈り、混乱した頭でその時を待っていた。

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『もしもし』
 の声だった。すこしかすれているが、間違いない。せいは、自分でも意外なほど平静だった。
『あ、スガワラさんですか? 調査報告書ありがとうございます。きょう受け取りました。すみません、無理言って郵送していただきまして……』
「多実」
 ざ、さ、と砂を踏みしめるようなノイズが混じる。呼びかけに対する応えはなかった。
『はい、だいぶよくなりました。残りのお金はあした振り込みますので、よろしくお願いいたします』
 通話が切られ、テレカが吐き出される。「42」に減った度数の表示を見ながらそれを引き抜き、一度、ぐっと唇をみ締めた。ここに残った選択は間違いではなかった、と思った。青吾が自身の過去を話せなかったように、多実にも多実の、言えなかった事情があり、自分はそれを知らなくてはならない。
 もう一度多実の番号にかけ、繫がらないことを確かめてからに『電話、繫がりました』とだけLINEを入れ、宿に戻ると、従業員用の勝手口の前で沙都子が待っていた。
「話せたんですね」
 彼女にしては珍しく、興奮を隠せない口調で駆け寄ってくる。
「はい、ただ、またよくわからない内容で……今回のことと関係あるのかどうか」
 多実が何かの調査を『スガワラ』という人間に依頼し、金を振り込んでいたらしい、という実に曖昧な情報を伝えると、沙都子は即座に「通帳」と口にした。「以前にも見ていただきましたよね」
「あの時は入金欄ばかり気にしていたので……」
「今すぐチェックしましょう」
 と言うが早いか先陣切って青吾の部屋に入っていく。あらぬ疑いをかけられる懸念は二の次になってしまったらしい。沙都子の、うずうずとしたどこか幼い視線を浴びつつ、多実の通帳を新しいものから順にさかのぼっていく。
「……ありました、たぶん」
「どれですか?」
 沙都子が膝立ちでにじり寄ってくる。距離の近さに少々気まずいものを感じながら『振込』の印字を指差す。二件あった。一回目は十万円ちょうど、それから二週間後の二回目は十七万三千四百円。振り込み先はいずれも『チヨマルソウゴウチョウサ』となっていた。「残りのお金」という多実の言葉とつじつまが合う。
「チヨマルソウゴウチョウサ……ここでしょうか」
 青吾からすれば目にも留まらぬ早業で沙都子の指はスマホの液晶画面の上を滑り、『千代丸総合調査』というサイトを表示させた。
「興信所みたいですね。二回に分けて振り込んだのは、弁護士事務所みたいに着手金と成功報酬って感じなのかもしれません。十年前の二月……この時、かわ西にしさんは多実さんと出会ってますか?」
「どやったかな……」
 即答できずにいると、沙都子の視線にそこはかとないとげを感じ焦った。「たぶん、知り合う前やと思います」
「『たぶん』……?」
「あ、いや、間違いないです。桜の菓子を持ってきてくれたん、思い出しました」
 そうだ、四月だった。花冷えの肌寒い日で、「せっかく冬のコートをクリーニングに出したのに」と多実はぼやいていなかったか。
 ——風邪とか引かれないようにしてくださいね。わたし、今年はインフルエンザにかかっちゃって、結構つらかったので。
 去り際にそんなことも言っていた。
「インフルエンザに罹った、言うてました。電話の『だいぶよくなりました』いうんはそのことかも」
「この『千代丸総合調査』のスガワラさんに何かを依頼して、結果が出た時にはせっていたから郵送してもらった。そのお礼の通話……」
 沙都子は何かを考え込み、顔を曇らせる。
「すみません、またしつけなことを言いますけど」
「どうぞ」
「調査って、川西さんのことだったりします?」
「え?」
「出会いは、多実さんのほうから接触してきたんですよね」
「接触って、そんな」
 まるでスパイみたいな単語に反感を抱いたが、言われてみると確かに不自然な話だった。多実は「忘れ物をした」と青吾を名指ししてきたのに、「勘違いでした」とわざわざ営業所まで謝りにきた。忘れ物が見つかったならともかく、勘違いしただけでそこまでするだろうか。それこそ電話一本で済む話だ。それに、最寄り駅が同じだったのは本当に偶然なのか。
 いやいや、と青吾は弱々しくつぶやく。「いくら何でも、だって……何のためにそんな」
「接点があるとすれば『レイカさん』——お母さんですよね。あくまで推測ですけど、多実さんは、レイカさんを通じて川西さんの存在を知るか聞くかしていた。そして消息を摑むために興信所に依頼して調べ、口実をでっち上げて川西さんに近づいた」
「何やそら」
 ぼそっとつぶやいた声は重苦しく、青吾は慌てて「すんません」と取り繕った。「いでぐちさんに言うたわけやのうて。ただでさえわけわからんこと続きやのに、とどめ刺されたような感じがして」
 今でも覚えている。「ご迷惑おかけしちゃってすみません」と和菓子の紙袋を差し出してきた多実の、やや恥ずかしそうな笑顔。コンビニのドリンク棚の前で「ひょっとして……」と声をかけられたことも、「よかったら今度お食事でもいかがですか?」と拝むように両手を合わせて誘われたことも。「気になってる焼き鳥屋さんがあるんですけど、女ひとりでは入りにくくて」という言葉も、すべてあらかじめ用意していた方便だったのか。
 俺は、嬉しかったのに。極力他人と関わらないように生きてきて、そのうち、わざわざ心がけるまでもなく、誰も自分みたいなつまらない人間に興味を持たないだろう、そんなふうに思うようになっていた。でも、多実だけが歩み寄り、手を取ってくれた。まるで砂漠の雨で、潤った瞬間に乾きと渇きを自覚させられた。
 ——ねえ青さん、よかったら一緒に暮らさない? そしたらきっと楽しいよ。
 ふたりで通うようになった焼き鳥屋の煙ったいカウンターで、オーダーを通すようにさらりと多実は言った。
 ——結婚とか、難しい話じゃなくてね。暮らしてみて違うなって思ったらやめればいいし……どうかな?
 断らなければ、と思った。すねに傷持つ身で、そんな、夫婦のまねごとみたいな生活を送るべきじゃない。でも、拒めば多実は離れていってしまうかもしれない、と思うと怖かった。
 青吾はずっと、寂しかった。
 でも、全部噓か。

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