一穂ミチ「アフター・ユー」#005
涙の筋で、頰の一部分だけ突っ張る感じがした。先に口を開いたのは沙都子だった。
「とりあえず、上がってください。お茶でも淹れます」
「はい」
子どものように答え、洗面所で手を洗うついでに顔も洗った。鏡を見ると涙は止まっていたが、充血した眼球がまだ全体的に潤んでいる。頭全体が妙に腫れぼったい感じで鈍く痛み、明瞭な思考ができそうにない。ダイニングでは、沙都子が何事もなかったような顔で湯を沸かしていた。
「ハーブティでいいですか?」
「はい」
何を考えているのかわからなくて怖い——なんていうのは彼女の台詞だろう。夜中に出かけて行った連れが戻ってくるやわけのわからないことを言って泣き出すのだから。でも沙都子は淡々と茶の支度をし、青吾の向かいに腰を下ろした。ハーブティはやっぱり奇妙な味がした。すこしだけ冷静になった頭で考えてみても、さっきの電話や教会が夢や幻覚だとはどうしても思えない。
「……さて」
カップをソーサーに置くと同時に、沙都子が切り出す。
「さっき仰ってたこと、詳しく説明していただけますか? 多実さんの捜索をご自身で続けられる、という意味ですか?」
「いえ、そうではなくて……正直、僕自身理解できてへんのですけど——」
青吾はきのうの夜からの出来事をありのままに話した。多実の残したテレホンカードを公衆電話で使ったら多実と通話できたこと、さっきは恐らく過去の多実に繫がり、教会について話していたこと。実際、多実が言った場所に教会があったこと。沙都子は疑問も相槌も差し挟まず、表情すら変えずじっと聞いていた。
「頭がおかしなったんちゃうかと思われてもしゃあないです。自分でもだいぶ怪しんでます。でも……」
「——現実に起こったことだと、川西さんは思ってらっしゃるんですね?」
「はい」
頷くには勇気がいった。反面で、多実がいなくなった日から自分の現実は壊れてしまっているのだから、そこにどんな非現実を積もうが大した問題ではないという気もした。
「そうですか」
沙都子は立ち上がり、椅子の背に掛けていたパーカーを羽織る。
「じゃ、行きましょう」
「え?」
「その電話ボックスと教会にわたしも連れて行ってください。実際に電話が繫がるかどうか、試してみましょう」
青吾の話を頭ごなしに否定するのではなく、まず引き取った上で検証する。冷静な沙都子らしい判断だった。これで繫がらんかったら、病院でも紹介されるんやろか。
再び役場の前の電話ボックスまで車を走らせ、スマホとテレホンカードだけ持って中に入る。扉に身体を割り込ませた沙都子が、度数表示を見て「46……」とつぶやき、「お願いします」と言った。
「はい」
二種免許の実技試験より緊張する。青吾はスマホの電話帳を開き、『中園多実』の番号を沙都子に見せながら数字のボタンを押す。
呼び出し音は、鳴らなかった。そんな予感はしていた。沙都子は「他人がいると繫がらないのかもしれませんね」と言い、「わたし、ちょっと離れてます」と扉を閉めた。「五分経ったら戻りますので、結果を教えてください」
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!