見出し画像

ピアニスト・藤田真央エッセイ #28〈モーツァルトの真骨頂――巨匠ヤノフスキとパリ・デビュー〉

#27へ / ♯1へ戻る / TOPページへ

 昨年はイタリアでの公演は1度きりで、あまり縁がない国だなと思っていたのに、今年は数多の公演に呼んでいただけた。それはフランスも同様で、コンサートがないなあと思っていたら、立て続けにオファーがあり、何度もシャルル・ド・ゴール空港を訪れることになった。

 そう、今年5月26日、私はパリでのオーケストラ・デビューを果たした。曲は《モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番》、オーケストラはフランス放送フィルハーモニー管弦楽団。指揮はこれまた大ベテラン指揮者、御年84歳のマレク・ヤノフスキだ。
 公演前日の朝8時45分に私はフランス放送フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、オーディトリウムにいた。このホールはラジオ・フランスの放送局の建物内に2014年にオープンした、比較的新しいホールだ。放送局内にはさまざまな展示品が飾ってあり、見どころはコンサートホールだけではなさそうだ。私はここで働く放送局員と同じように、入館パスとホールにアクセスできるパスをもらい、それを首から下げて優越感に浸っていた。入館する際には管理人さんに「ça va?」(元気?)と声を掛けられ、「très bien」(トレビアン)と答える私の姿は、まるでここで働く職員のようだったのではないか。

 そんなことはさておき、なぜこんな朝早くホールを訪れたのかというと、ヤノフスキとの打ち合わせが9時から行われるからだ。もともと9時半から30分の打ち合わせのはずだったのだが、前日にヤノフスキから1時間に延ばしてほしいと言われたのだ。
 指揮者との打ち合わせは、テンポや掛け合いのタイミングなどについて、オーケストラと合わせる前に意見をすり合わせるために行われる。編成もコンパクトで短いモーツァルトの作品で、はたして1時間も必要なのだろうかといささか怪訝に思っていたが、それは杞憂に終わった。1時間かけてヤノフスキは私の音楽、音色を理解し、それをリハーサルでオーケストラに伝えた。そして約2分で終わるオーケストラの主題提示を30分ほどかけて、私の音色にまろやかに適合する音を作ってくれ、おかげでオーケストラとこれ以上ない密接ぶりが感じられた。
 だが、そのリハーサルは非常に厳しく、空気はとてつもなく凍っていた。それは彼の異常なまでの音へのこだわりからくるものだった。まるで目の前で、トスカニーニやセル、はたまたムラヴィンスキーといった古の巨匠たちの、厳格なリハーサルが行われているようだった。リハーサルの進め方はクラシカルな手法で、上手くいかない箇所があれば、その楽器はできるようになるまで延々と弾かされる(吹かされる)。言わば“公開処刑”で、一回出来たとしても、またすぐに最初から繰り返しなので、完全にできなければ先へ進めない。

ここから先は

2,504字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!