【無料公開】イナダシュンスケ|とんかつ武士道〈前篇〉
第25回
とんかつ武士道〈前篇〉
とんかつ、と言えばロースかつです。「いや、ヒレかつのことも忘れてもらっては困る」と言う人もいるでしょうが、そういう人でもおそらく、とんかつと聞いて即、脳裏に浮かぶのはロースカツの姿なのではないでしょうか。
そのとんかつは、縦のラインで切断されています。カット数は様々ではありますが、概ね6切れが標準です。僕は常々、世の人々はとんかつひと切れひと切れを十把一絡げ的に扱いすぎなのではないか、という微かな不満を抱いています。なぜならその6切れはそれぞれが少しずつ異なる魅力をたたえており、その差異をあたかも無かったことのように「とんかつ」の一言でまとめるのは、少し大雑把すぎるのではないかと思うからです。
とりあえず左端のひと切れをL1とします。ひとつ隣がL2、そしてL3と続き、右端がL6ということになります。本当はもう少し趣のある名前を付けてあげたい気もしました。最初にイメージしたのは『七人の侍』でした。しかし、勘兵衛、菊千代などバラバラな名前では整頓が付きません。そこで、『南総里見八犬伝』の「犬」のように、全員に共通の一文字があり、なおかつ『アストロ球団』同様ナンバリングも兼ねる名前が良いのでは、とも思いました。しかしそうすると左から「豚一郎」「豚二郎」「豚三郎」……ということになり、なんだか締まりがありませんし、なぜか別の食べ物に見えてきます。なのでとりあえずL1、L2……で行きます。
基本的にはLの数字が大きいほど脂身の割合が多くなり、赤身の肉質はワイルドになって、筋も入り込みます。しかしここでひとつ落とし穴があります。これを僕は、トリミングの罠、と呼んでいます。トリミングというのは肉から不要な部分を除去することです。とんかつのロース肉の場合、基本的には脂身を適度に除去することを指します。このトリミングがある程度徹底された場合、肉の上部に付いた脂が薄く削られるのみならず、本来L6になるはずだった部分は丸々除去されることになります。場合によってはL5も半分がた削られます。つまりこのタイプのとんかつはL1〜6の差異が幾分小さいものになるということが言えます。
先ほど、トリミングは不要部分を削ること、と書きました。では、上部の脂や、本来ならばL5・6になったはずの部分は不要なのか? 僕はこれに対してははっきり「否」と答えたい。とんかつの脂身は多ければ多いほど良い、とまでは言いませんが、きっちりと、持て余しかねないレベルで、残しておいてほしいと熱望します。それこそがとんかつを喰らうというイトナミだからです。
しかし現実問題、過度にトリミングされたとんかつは世に少なからず存在します。遭遇しやすいのは特に安い店と特に高い店である、と聞いたら驚きますか? そこには以下のようなカラクリがあります。
安い店では輸入の豚肉が使われることが多いようです。ほとんどは北米産でしょうか。この輸入ロース肉は、最初から脂身がかなり極端にトリミングされています。欧米人にとってそれは概ね「不要なもの」なのでしょう。そもそも日本ほど豚をでっぷり太らせないような飼育方法が採られているという事情もあるようです。
価格が上がるにつれ、国産豚を使用する店がぐっと増えます。しかしその中には、輸入豚とは違いでっぷりと付いた脂を、切り捨て御免とばかりにバッサバッサと除去する店もあります。当然ながら、除去すればするほど、肉の目方は減ります。専門用語で言うと、歩留まりが落ちる、ということになります。だからそういう店のとんかつは価格が高めになります。
安いにせよ高いにせよ、そういうとんかつがダメと言っているわけではありません。しかしそこからは本来期待するとんかつならではのヨロコビが得にくい、と僕は考えています。だからそういう店では、期待するヨロコビの形を少し変更してそのとんかつと対峙する必要があります。僕の場合は、注文自体を「おろしとんかつ」にすることで乗り切ることが多いです。失われた脂っ気を、大根おろしの風味豊かな水分で補おうという算段です。
安いチェーン店などでは最初からそのつもりで臨むことも可能ですが、高い店の場合、どっちに転ぶかは食べ始めるまでわからないことも多いのは困りものです。ただ僕くらいのレベルになると、とんかつが目の前に出てきたら、その瞬間にどちらなのかを察することはできます。トリミングならではの形状の特徴があるというよりは、なんと言いますか、それは殺気です。でっぷり残した脂身をコロモの中に隠した凶暴なとんかつは、ただならぬ殺気、いや、妖気すら漂わせているものです。
とは言え、それはもっと事前に予測できるに越したことはありません。心の準備というものが必要ですし、食べ始めてから不意打ちを食らった場合は、そこから慌ててメニューを開きなおし、おろしポン酢の追加が可能かどうかを確認しなければならないからです。扉を開いた瞬間、照明を落とし気味にした店内からジャズのBGMが聴こえてきたら、そこは少し警戒を強める必要があります。更にメニューを開いてビールがハートランドだったら、ほぼ確定と言ってもよいでしょう。
そういった罠をかいくぐり、妖気すら漂わせる脂でっぷりとんかつに対峙することになったら、いよいよそこからが真剣勝負です。僕は、はやる心を抑えつつ、まずキャベツにソースをかけます。キャベツ用にドレッシングを用意してくれている親切な店も多いですが、僕はあくまでソース。ドレッシングがおいしいのもわかってはいるのですが、それは言うなれば、互いの信頼とチームワークでこぢんまりとやってきた会社に外部からキレキレのコンサルが入り込んでくるようなもの。一時的に業績は上がるかもしれませんが、長い目で見てそれは幸福なのかどうかという話です。細々とやっている町の道場が得体の知れない流しの剣豪を「先生! 先生!」と迎え入れた場合も、お話としては盛り上がりますが、大概ロクな結果にはなりません。
キャベツを一口大きく頰張ったら、いよいよ本丸であるとんかつそのものに攻め入ります。僕が最初に手を付けるのは、なんとL3です。勇猛果敢にも、敵陣のど真ん中に攻め入るのです。我ながら天晴れとしか言いようがありません。
L3は言うなれば大将です。エリートと言ってもいい。最近の高級とんかつでは、中心部分をほんのりロゼに仕上げるという高度な技術が取り入れられています。その場合、職人の意識はこのL3、ないしはそこからL4に連なる断面あたりに集中しているものと思われます。職人は、L3を最もうまく食わせるために精魂込めてとんかつを揚げている、と言っても過言ではありません。職人の魂が込もった技術の結晶を、ソースは付けずに塩だけで味わいます。ご飯にはまだ手を付けません。
L3という大将がいなくなったとて、とんかつは引き続き迫力十分。さすが盤石のとんかつ武士団です。ここでL3不在の列を左右から埋めて、再び完全体のように配列し直してみたくなる衝動にも駆られるかもしれません。L3の右辺と左辺はほぼ同じ長さなので、それは無理なく可能です。しかし僕は、それは少し道に外れた行為だとも考えています。儚くも散ったL3に対して、敬意を欠いた振る舞いに思えるからです。
ともあれその状態から、次に手を付けるのは順当にL1です。L1は最も脂が少なく、そのかわりにL6と並んでコロモ比率が最も高いひと切れ。そのコロモが醸し出す、どこかスナック的とも言える香ばしさが身上です。なのでこれは殊の外ビールによく合います。塩とカラシで食べます。「マスタード無しに肉を食べてはならない」というフランスかどこかのことわざだか人生訓だかを聞いたことがある気がします。ご飯にはまだ手を付けません。
店によっては、このL1をあえてやや大きめに切り出すところもあります。L2〜4と同じ幅で切り出すと、L1だけが極端に小さいひと切れになってしまうことを避けたのでしょう。これは繊細な配慮ですが、個人的にはあまり嬉しくありません。L1は、あくまで一口でパクリと食べられる軽快なサイズと形状であってほしい。軽装で戦場を機敏に駆け回る足軽には、足軽ならではの役割というものがあります。
次はL2です。L1と違い、L2はグッととんかつらしくなります。なぜならばその上部には、いよいよ脂身の層がはっきりと現れるからです。L2・3・4は、言うなればとんかつの一軍、とんかつ三人衆とでも言えるでしょう。その一翼を担うのがL2です。ただし奴はその中では一番若い。脂身の層があるとは言え、まだそれは比較的薄いものです。まだ脂が乗り切っていない若侍、といったところでしょうか。
僕はL2も塩とカラシのみで行きます。ここで初手のL3との戦いのことを思い出してください。その時僕は「塩のみ」でした。あえてストイックに徹したのです。L2はまだ若いとは言え、L3と接していた実力者でもあります。相手にとって不足はありません。脂と肉とカラシが口中で融合した瞬間、
「ああ俺はこの瞬間、とんかつを喰らっているのだ!」
という情感はいよいよ高まります。アドレナリンが全開になるのがここです。おそらくこの時点で、僕の目は血走っています。ご飯にはまだ手を付けません。ビールだけがグイグイと減っていきます。
お気付きでしょうが、前半戦を終えて、僕はいまだにご飯には一切手を付けず、ソースもキャベツにしかかけていません。かなりトリッキーな戦い方です。武士というよりは忍びの兵法と言えるかもしれません。しかしここから先は、一気に正攻法に転じていくことになります。そんなわけで、後半戦に続きます。
稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)
料理人・飲食店プロデューサー。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービス設立に参加。2011年に東京駅 八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店。現在は全店のメニュー監修やレシピ開発を中心に、業態開発や店舗プロデュースを手掛ける。
ジャンルを問わず何にでも喰いつく変態料理人、またナチュラルボーン食いしん坊として、X(@inadashunsuke)等でも精力的に発信。『おいしいもので できている』『ミニマル料理:最小限の材料で最大のおいしさを手に入れる現代のレシピ85』『「エリックサウス」稲田俊輔のおいしい理由。インドカレーのきほん、完全レシピ』『食いしん坊のお悩み相談』『お客さん物語―飲食店の舞台裏と料理人の本音―』『異国の味』など著書多数。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!