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ブックガイドーー日本語と英語の不思議|白石直人

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 日本語は私たちが普段当たり前に使っているものだが、いざ落ち着いて考えてみると案外不思議な面も少なくない。逆に英語を習い始めたときには、英語の奇妙さに頭を悩ませた人も多いだろう。この記事では、英語と日本語の身近な疑問を、歴史や考え方から解き明かす本をいくつか紹介したい。

◆身近な日本語の再発見

 柴田武しばたたけし國廣哲彌くにひろてつや長嶋善郎ながしまよしお山田進やまだすすむ・著『ことばの意味1──辞書に書いてないこと』(平凡社ライブラリー)は、普段当たり前のように使っていることばの意味の微妙な違いを、多数の例文を取り上げながら考えていく楽しい本である。
 例えば「アガル」と「ノボル」という語は非常に似ている[1]。しかし「座敷にノボル」のはおかしいし、「山にアガル」だとヘリコプターで山頂に連れていかれたようである。「ノボル」は、単に目的地に着くだけではなく、そこに至る途中過程を重視する語なのである。しかしこれだけではない。「荷物がクレーンに吊られて」の後ろは、「アガッテいく」ならしっくりくるが、「ノボッテいく」だと不自然である。これは、「ノボル」は通常自分で動けるものに使うものだからである。また、「この線は左が少しアガッテいる」や「湯からアガル」のように、「アガル」には「始状態から変化する」という拡張された意味もある。さらには「雨がアガル」「仕事は五時でアガル」のような、不連続な完了の意味もある。これらは「ノボル」には置き換えられない。
 こうした背後の意味を踏まえると、慣用表現がどのようなニュアンスを込めているのかも見えてくる。「火の手がアガル」は不連続な変化を伝えている。「噂にノボル」は、噂が徐々に広まっていく過程を念頭に置くものである。「伊勢海老が食卓にノボル」も同じで、伊勢海老が食卓に並ぶまでの困難(お金とか調理の手間とか)を念頭に置いている。なので「イワシが食卓にノボル」だと違和感がある。
 本書は、「ツカレル/クタビレル」「サケル/ヨケル」「ツツム/クルム/マク」「ホス/カワカス」など、さまざまな語を取り上げて、その微妙なニュアンスの違いを深掘りしている。頭はツカレルけどクタビレない、服はクタビレルけどツカレない。人込みはサケルし汚い言葉もサケルが、「突っ込んできた自転車をかろうじて」の続きにはヨケルが来てほしい。同タイトル続編の『ことばの意味2』『ことばの意味3』とともに、普段は意識せず当たり前に使い分けられる言葉を再発見させてくれる本である。

 学校の国語の授業で習う文法は、実は日本語学における理解とは乖離している部分が少なくない。山崎紀美子やまざききみこ・著『日本語基礎講座──三上文法入門』(ちくま新書)は、日本語学の標準的理解であり、また外国人向けの日本語教育でも用いられている、三上章みかみあきらの文法理論を一般向けに解説してくれる。
 三上文法でよく知られているのは、「は」は主語を表すのではない、という指摘である。三上章の著書のタイトル『象は鼻が長い』は、「『~は』=主語」という理解がうまくいかない文章の代表例である。「~は」は主語を与えるものではなく、文章の主題を与えるものなのである。「象は鼻が長い」という文章は、「象という主題についていうと、鼻が長い」ということを表している。このような複雑さのない「吾輩は猫である」のような文章も、この文の主題が「吾輩」であり、それについて「猫である」と陳述している、と解釈できる。
「~は」の特徴として、それが句読点を超えて作用するという性質がある。例えば「吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。」という文章では、二文目と三文目の主題も「吾輩は」である。これが小説や一人称語りだからではないことは、「東京はビルが多い。しかし公園も意外とたくさんある」といった文章(二文目の主題も「東京は」である)が自然であることからも分かる。
 他にも、見落としがちな日本語の側面に気づかせてくれる箇所は多い。例えば、受け身表現は主語と目的語を入れ替えたものとして理解されがちだが、それでは解釈できないものもある。「居る」はこの理解では受け身になりえない動詞に見えるが、「彼に居られてはおちおち休憩も出来ない」という文章も存在する。これは「被害受け身」や「はた迷惑の受け身」と呼ばれるタイプの受け身表現である。

 ちなみに上で紹介した本で触れられている話題ではないが、日本語の発音について、かな表記は音と一対一に対応しているわけではない、という点も紹介しておきたい。例えば「行動」という単語は、「こうどう」とかなで書くが、発音は「コードー」あるいは「コオドオ」である。標準語ではかな書きをそのまま読んだ「コウドウ」とは発音しない。これは日本語の乱れではなく、現代仮名遣いとして昔から定められているものである[2]。

◆歴史から見る日本語の姿

 山口仲美やまぐちなかみ・著『日本語の歴史』(岩波新書)は、日本語に文字のない時代から現代まで、日本語の歴史を簡潔にまとめた本である。
 中国の漢字が日本に伝来した際、意味の対応で和語の音を漢字の読みとした(例えば「山」という漢字に「サン」という中国音だけでなく「やま」という和語の読みも与える)ところには、日本語の特殊性がある。これによって、一つの漢字が複数の読みを持つことになった。また、意味で音を当てない場合には、かな一音に一つの漢字を当てる万葉仮名を用いたが、これはかなり煩雑だったため、様々な省略が試みられた。漢字の一部分を取り出して文字としたのが、漢文訓読から生まれたカタカナであり、また漢字全体を崩したのがひらがなであった。
 また、奈良時代頃の日本語の発音は、現在の日本語の発音よりも多かった。音の数には諸説あるが、一説では61の清音と27の濁音があり、例えば「恋」と「声」の「こ」の音は奈良時代には区別されていた。この事実は、「こ」に用いられる万葉仮名が両者で異なることから突き止められたものである。
 江戸時代の人称代名詞についても、本書では詳しく取り上げられている。「オマエ」や「キサマ」は、今ではやや乱暴な言い方だが、江戸時代前期にはこれらは尊敬語だった。また、「オレ」は今では男性が自分を呼ぶ言い方だが、江戸時代初期には女性も「オレ」を用いていたという。
 日本語の歴史でも、特に漢字の多様な姿にフォーカスしたのが笹原宏之ささはらひろゆき・著『日本の漢字』(岩波新書)である。本書は冒頭で、日本語は非常に多様な文字の種類を柔軟に用いる言語であると指摘している。確かに、ひらがな、カタカナ、漢字だけでなく、ローマ字やギリシャ文字(+αなど)も用いる、数字もアラビア数字、漢数字、ローマ数字を用いる。「KYON2(キョンキョン)」という、驚くような用法も受け入れられている。漢字はそのような柔軟な環境の中でさまざまに変容してきた。
 「鮎」という漢字は中国ではナマズを意味したが、日本ではアユを指すように、中国の漢字を日本では中国とは異なる意味で用いるようなことも行われた。また省略された字が正統なものに認められることもある。「佛」という漢字は、右側を「ム」にした「仏」という略字がそのまま常用漢字表に採用された。しかし沸騰の「沸」にも「さんずいにム」という略字が存在したが、そこまで使用されていなかったので常用漢字表には採用されなかった。「涙」という漢字のつくりの「戻」は音「ルイ(レイ)」を表すものだが、意味を表した方が分かりやすいと、「泪」という異体字が作られた。これは現在でも文学作品などでは見かけるものである。
 色々な理由があって個人が漢字を作り出すこともある。「𪐷(くろい)」という漢字は評論家の吉本隆明よしもとたかあきが作り出した個人文字である。扁桃腺の「腺」は、もともとは宇田川榛斎うだがわしんさいという蘭方医が個人で用いていた文字であったが、便利であったために完全に定着してしまった。

◆日本語と英語の違い

 日本語と英語とでは、考え方や組み立て方が異なる部分が多々ある、マーク・ピーターセン・著『日本人の英語』『続 日本人の英語』(岩波新書)は、日本人が間違えがちな英語的な発想を解説した本として定評がある。
 日本人は英語の冠詞を単なる名詞のアクセサリーのように見なしがちだが、それは大きく間違っているという。むしろ、「冠詞(の有無)が名詞の意味を規定する」とさえいえる。無冠詞の「ham」は、対象や状況が特定されない「豚の腿肉」を指すが、「a ham」だと「一本の豚の腿部分」という意味になる。固有名詞にはtheが付かない、というのは中学校で習った規則だと思うが、これは多くの場合にtheと固有名詞の使用状況とが一致しないというだけであり、固有名詞にtheが付く場合もある。例えば「今の中村先生は、7年前の中村先生とは随分と違う」と言いたいときには、「7年前の中村先生」を「the Prof. Nakamura I knew 7 years ago」と書く。
 日本人は、英語の動詞の活用を誤りやすい。その理由として著者は、英語は「時(いつ生じたか)」を重視するが、日本語は「相(どの程度完了したか)」を重視する、という特徴を指摘している。「北京に行く前に、中国語を勉強した/北京に行く前に、中国語を勉強するつもりだ」はどちらも正しい日本語の文章だが、英語でいう場合には、前者の場合は「行く」を「went」と過去形に、後者の場合は「行く」を「go」と現在形にする必要がある。
池上嘉彦いけがみよしひこ・著『日本語と日本語論』(ちくま学芸文庫)は、タイトルだけではもっぱら日本語を論じた本に見えるが、本書は英語を中心とした外国語と日本語との比較が随所で議論されており、英語の考え方も併せて見ることができる本である。
 本書でも、「可算/不可算」の区別の流動性は論じられている。可算名詞は「切れ目のある個体」として、不可算名詞は「連続体」として捉える姿勢を表している。豆(beans)は可算名詞で、米(rice)や砂(sand)は不可算名詞で扱われることが多いのは、個々のものとして捉えられる大きさの限界がこのあたりにあることを示唆している。しかし、両者の区分の取り扱いは柔軟であり、通常不可算名詞のwineも、複数の銘柄を数える状況や、複数のワイングラスにワインが入っている状況であれば、「two wines」と言うことができる。逆に通常は可算名詞であるappleも、切り刻んでサラダに入れる状況を考えているのであれば、不可算名詞として冠詞なしで用いることもある。「Car is the best mode of transport.」という文章は、通常は可算名詞であるcarが抽象化され、日本語ならば「車というもの」とでもいうべき扱いとなっているため、carが不可算名詞となっている。
「次の駅はどこですか?」は、英語では「What is the next station?」と聞く。日本語では「どこ」という場所の疑問であるが、英語では「what(何)」というモノの疑問になる。日本語の方がよりぼかされた表現だといえよう。仕事が忙しくて二日前が誕生日だったことが全く意識にのぼらなかった人は、日本語だと「誕生日のことを忘れる」といい、英語だと「forget about one’s birthday」という。「こと」という非常に抽象的な言い方を日本語は用いるが、英語は「about(~のあたり)」という場所的な言い方をする。ちなみに誕生日の日付が分からなくなる状況は、「誕生日を忘れる/forget one’s birthday」である。

◆歴史を見ると英語が分かる

 英語は、不規則変化など不思議なルールがいろいろあり、また発音も一筋縄ではいかない。英語を習い始めたときには、こうした点に苦戦した記憶のある人も多いだろう。こうした複雑さは、英語が辿ってきた歴史にその理由がある。堀田隆一ほったりゅういち・著『英語の「なぜ?」に答えるはじめての英語史』(研究社)は、英語の疑問を歴史から解き明かしてくれる本である。
 言語の発音は時間とともに変化していくものである。特に1400-1700年ごろには大母音推移と呼ばれる、母音の大きな変化が英語に起きた。英語にとって不幸だったのは、印刷術などを背景とした綴り字の固定と標準化が、ちょうど発音の大きな変化が起きている時期と重なり、綴り字と発音の間に乖離が起きてしまったことである。例えば、「name」のaは「エイ」と発音するが、対応する古英語の「nama」では1つ目のaは「ア」の発音だった。大母音推移で発音が「エイ」と変化したのだが、その時点ではもはや「a」の綴り字を変更できる状況ではなかった。そのための窮余の策として、最後に「マジックe」とも呼ばれる文字eを付け、これによってaを「エイ」と読むことの印としたのである。発音の変化の際には、アクサン記号(フランス語)やウムラウト(ドイツ語)を付すなどして綴り字を最小限変化させて対応することが多いが、英語の場合はeの追加という手段が採用されたのである。
 不規則変化は、歴史の名残を引きずっていることが多い。例えばchildの複数形がchildrenなのは、かつて古英語に存在した複数形成語尾ruに由来する。これにさらに、sの次に多く複数形に現れるnの付加(ox-oxenなど)が生じて、現在の形になった。より激しい不規則変化は、全く違う由来の単語が入り込む形で生まれたものも多い。これは補充法と呼ばれる。補充法の代表例は、goの過去形wentであろう。もともとwentは「wend(向かう)」の過去形であり、これがgoの系列に滑り込んでいる。一般に、高頻度語ほど不規則変化が生じやすい傾向がある。これについて、高頻度の単語は幼少期から耳にする機会が多いため、子供が文法規則を習う前に聞きなれて記憶される可能性が高いから、という説明が本書では与えられている。
 「なぜ~だけ特別な表現を用いるのか」という疑問が、実はその真逆が答えである場合もある。「なぜ三人称単数の場合には動詞にsを付けるのか」というのは習いたての頃に誰もが感じる疑問だろうが、古英語では三人称単数に限らず、二人称単数や複数でもすべて動詞は異なる形をしていた。歴史を見るならば、むしろ正しい問いは「なぜ三人称単数以外では、動詞に何も付かないのか」なのである。また、仮定法で「If I were a bird,…」と、主語に対応する過去形wasではなくwereを用いることも、疑問に思った人が多いだろう。しかしこれも実は、そもそも古英語では接続法(現在の仮定法相当)過去形と通常の[3]過去形とは、一般の動詞でも必ずしも一致しておらず、それぞれ独自の規則があった。これがbe動詞以外では、いつの間にか両者は同じになってしまった。そのため、正しい疑問は「なぜbe動詞以外では、仮定法は通常の過去形になるのか」なのである。


[1] 実際、「上る」と書いて「アガル」とも「ノボル」とも読める。

[2] 文化庁「現代かなづかい」(1946-1986)https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/sisaku/enkaku/pdf/01_097.pdf 「現代仮名遣い」(1986-)https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/gendaikana/index.html

[3] 直説法のこと。

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