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今村翔吾「海を破る者」

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日本を揺るがした文明の衝突がかつてあった――その時人々は何を目撃したのか? 人間に絶望した二人の男たちの魂の彷徨を、新直木賞作家が壮大なスケールで描く歴史巨篇
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#別冊文藝春秋2020年7月号

今村翔吾「海を破る者」 はじまりのことば

 世界の長い歴史において最も大きな版図を築いた国はどこか。面積ならば第1位は大英帝国で、その国土は3370万㎢に及ぶ。だが当時の世界における人口比率で考えると20%で、大英帝国は首位から陥落する。  では人口比率から考えた第1位はどこの国か。それが本作の一つの核となるモンゴル帝国である。その領土はあまりにも広大で西は東ヨーロッパから、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断している。そして当時の世界人口の25・6%、実に4人に1人がモンゴル帝国の勢力圏で暮らしていたこと

今村翔吾「海を破る者」 #007

 年が暮れて弘安三年(一二八〇年)となった。この冬は温暖な伊予にしては珍しく、凩が吹く肌寒い日が続いていた。  普段は賑やかな市もどこか元気がない。伊予人は寒さに慣れておらず、背を丸めて身を揉むようにして歩む者が多かった。  活気が無いのは人の気の問題だけではない。穏やかな瀬戸内には珍しくここのところ海が荒れていて九州と畿内を往来する商船が少ないことや、漁に出ることが儘ならず魚が市に並ばぬことも原因である。 「二年続けて稲の実りは良かったから百姓はよいが、こっちはまるで仕事に

今村翔吾「海を破る者」 #008

 繁と剣を交えて、令那から故郷の名を聞いてから三月ほど経った。あれから徐々に寒さは和らぎ、今では桜の花が綻び始めるようになっている。結局、あれが今年最初で最後の雪になった訳だ。  麗らかな昼下がりのことである。六郎は文机に向かっていた。風を取り込むために障子を開け放っている。小鳥が時折囀り、差し込んだ陽が廊下を暖かに照らしている。 「来たか」  跫音が近づいてくるのを察し、六郎は筆を擱いた。姿を見せたのは繁、そして令那である。月に一度ほど、二人と語る時を持つのは続いている。

今村翔吾「海を破る者」 #009

 拿捕した赤船は釣島に曳航し、海賊たちのうち無傷の者は牢へ、怪我を負った者には手当を、死んだ者は弔った。六郎は生き残った海賊に何故、瀬戸内に姿を見せたか尋問した。すると返って来た答えは意外なものであった。 「向こうにいては元に殺される」  彼らは生まれながらの海賊という訳ではない。元は南宋に拠点を置いた商人であった。だが南宋が屈服すると、元に協力的であった商人だけが今後も商いをすることを許され、彼らは船を持つことも禁じられた。故に海に逃げだしたのだが、元は執拗に取り締まり、行