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今村翔吾「海を破る者」

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日本を揺るがした文明の衝突がかつてあった――その時人々は何を目撃したのか? 人間に絶望した二人の男たちの魂の彷徨を、新直木賞作家が壮大なスケールで描く歴史巨篇
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今村翔吾「海を破る者」 はじまりのことば

 世界の長い歴史において最も大きな版図を築いた国はどこか。面積ならば第1位は大英帝国で、その国土は3370万㎢に及ぶ。だが当時の世界における人口比率で考えると20%で、大英帝国は首位から陥落する。  では人口比率から考えた第1位はどこの国か。それが本作の一つの核となるモンゴル帝国である。その領土はあまりにも広大で西は東ヨーロッパから、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断している。そして当時の世界人口の25・6%、実に4人に1人がモンゴル帝国の勢力圏で暮らしていたこと

堂々完結! 今村翔吾「海を破る者」#026(最終回)

荒波に呑み込まれんとする蒙古兵たちを前に、六郎が下した決断とは――。感動の叙事詩、堂々の完結! 「追い首は手柄にならぬ。ましてや抜け駆けならば猶更。ならばいっそのこと救い上げ、それでも向かって来た時に討ったほうがよい」  敗走する敵を討つのは誉とされず、手柄にならぬこともほとんど。それが抜け駆けならば、罰せられることさえあるのは確かだ。  しかし、短い付き合いであるが解る。手柄に拘る自らの流儀は崩さない。そのように見せ掛けてはいるが、それが決して本心ではないことを。季長は沈

今村翔吾「海を破る者」#025

六郎たち日ノ本軍は、圧倒的な兵力を誇る蒙古軍と睨み合いに。 ――その時、船をも呑み込む暴風雨が吹き荒れた。  日ノ本軍の奇襲は成功に終わった。どの船からも火矢を徹底的に浴びせ、多くの蒙古船を焼き払った。正確な数こそ不明であるが、その数は三十を優に超すであろう。半焼のものも含めれば百にも迫るほどである。  日ノ本軍は当初から敵船団の前で舵を切り、一撃を与えるのが目的であった。当然だが船というものは舳先より、側面を敵に向けたほうが、より多くが一斉に攻撃することが出来る。そうして

今村翔吾「海を破る者」#024

見渡す限りの蒙古軍が海を埋め尽くしている。 これが最後の戦――六郎たちは決死の覚悟を新たにした。  江南軍の船が迫って来た。季長は素早く矢を番えて弓を引き絞る。 「大将を射抜いてやるわ」  季長の弓は並のものより弦を強く張っており、射程が長い。矢は見事に頭に命中したものの、兜に弾かれて宙を舞い、海へと落ちていった。季長は大袈裟な舌打ちを見舞い、 「固い兜じゃ」  と、はき捨てた。  蒙古軍の兜は、日ノ本のものとは大きく異なる。人が被る兜は重さに限界があるため、鉄の厚さはさほ

今村翔吾「海を破る者」#023

「我が軍が抜かれれば、日ノ本は終わりだ」 夥しい数の江南軍の来襲に、六郎は最前線で戦うと意を決した。  江南軍が来た。繁と令那が旅立ってから四日後のことである。じわり、じわりと海を黒く染め上げつつ近付いて来る。島と海の見分けが付かぬほど、夥しい軍船の数であった。一艘、一艘が発する音はさほど大きくないだろうに、これほどの数となればやはり違う。海鳴りを彷彿とさせる不気味な音が陸にまで届いていた。その数、博多に来襲した蒙古軍の倍以上はあるかと思われた。軍兵は十万を下らぬだろう。

今村翔吾「海を破る者」#022

「海を破って行け。全てが終われば、いつか必ず――」 元の再襲来が近づく中、六郎は令那たちと約束を交わした。 「今、申した通りだ。我らの勝ち目は薄い」 「違う」  首を小さく横に振り、令那は震える声で言葉を重ねた。 「何故……そこまで……」  してくれるのか。と、令那は問うた。 「解るだろう?」  六郎はそっと頰を緩める。  始まりは少年の時分の夢であった。海の向こう。遥か遠く。未だ見ぬ国々があり、未だ見ぬ多くの人々が暮らしているのかと思い浮かべた。  それを多くの者は馬鹿に

今村翔吾「海を破る者」 #001

日本を揺るがした文明の衝突——その時人々は何を目撃したのか?  人間に絶望した二人の男たちの魂の彷徨を、新直木賞作家が壮大なスケールで描く歴史巨篇 序章 時を追う毎に一人、また一人と、集まって来る。  壁の無い茅舎のような粗末な御堂には、弟子や教えを聞きに来た近郷の僧で溢れ返り、その周囲を数十の民たちが取り囲んでいる。  一遍はすくと立ち上がった。他の僧たちも慌てて立ちあがろうとするのを手で制す。 「まだよ」  弟子の一人が物言いたげな目をしている。 「暑いな」  一遍は手

今村翔吾「海を破る者」 #002

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今村翔吾「海を破る者」 #003

 河野家の本貫地は風早郡河野郷である。先祖は国衙の役人として働いていたが、源平合戦で活躍して以降、この水居津の辺りまで勢力を広げることになった。  承久の乱で失ったのは、本貫地である風早郡なのだ。故に亡くなった父、伯父、郎党に至るまで、いつか河野発祥の地を取り戻すという宿願がある。だが六郎は流石に口には出せぬものの、  ——残ったのが水居津でよかった。  と、心より思っていた。  風早郡河野郷は内陸部にあり山も険しく決して水田も多くない。この水居津に残った領地は広さこそ風早郡

今村翔吾「海を破る者」 #004

 蟬の声が絶えると共に、少しずつ山野が色づき始めた。伊予は気候が安定していることもあり、毎年稲の実りは悪く無く、他の国に比べれば飢饉が起こることも珍しい。日々の暮らしが厳しくなると人の心も荒むものだ。伊予人に温厚な者が多いのもこの気候と無関係ではあるまい。  弘安元年(一二七八年)の秋は例年以上の豊作となった。百姓たちは豊穣を祝い、河野家としてもそれは嬉しい。が、手放しでは喜んでいられぬ事情もあった。そもそも河野家には、  ——土地が足りていない。  のである。  承久の乱で

今村翔吾「海を破る者」 #005

 師匠役を務めて欲しいと頼むと、庄次郎は初め露骨に渋った。 「得体が知れぬ男です。御屋形様の命を狙っているかもしれません」  と、しかめ面で言い放ったのである。 「繁がこの国の生まれではないからか」  六郎は思わず言い返した。庄次郎は白い片眉を上げて微かな驚きを見せた。が、この程度で臆する男ではない。ゆっくりと首を横に振って言った。 「違います。たとえこの国の者でも答えは同じです」 「お主の目には……繁や令那が間者や刺客に映るか?」  承久の乱で新たに伊予に土地を得た御家人た

今村翔吾「海を破る者」 #006

「御屋形様!」  部屋の前にいた布江が呼びながら近づいてきた。豪胆な布江にも似合わず、その顔は真っ青に染まっており、ただ事ではないことを察した。 「まさか……」  布江はすぐ近くまで歩み寄って囁いた。 「令那がおりません」 「最後に見た者は」 「半刻ほど前、御屋形様の部屋に向かうのを見た者がいます」  状況だけ見れば令那が下手人である。信頼が揺らぎそうになった六郎の脳裏に浮かんだのは、あの日、己に縋るように泣いた令那の姿であった。 「いや……違う。何か事情があるはずだ」  六

今村翔吾「海を破る者」 #007

 年が暮れて弘安三年(一二八〇年)となった。この冬は温暖な伊予にしては珍しく、凩が吹く肌寒い日が続いていた。  普段は賑やかな市もどこか元気がない。伊予人は寒さに慣れておらず、背を丸めて身を揉むようにして歩む者が多かった。  活気が無いのは人の気の問題だけではない。穏やかな瀬戸内には珍しくここのところ海が荒れていて九州と畿内を往来する商船が少ないことや、漁に出ることが儘ならず魚が市に並ばぬことも原因である。 「二年続けて稲の実りは良かったから百姓はよいが、こっちはまるで仕事に

今村翔吾「海を破る者」 #008

 繁と剣を交えて、令那から故郷の名を聞いてから三月ほど経った。あれから徐々に寒さは和らぎ、今では桜の花が綻び始めるようになっている。結局、あれが今年最初で最後の雪になった訳だ。  麗らかな昼下がりのことである。六郎は文机に向かっていた。風を取り込むために障子を開け放っている。小鳥が時折囀り、差し込んだ陽が廊下を暖かに照らしている。 「来たか」  跫音が近づいてくるのを察し、六郎は筆を擱いた。姿を見せたのは繁、そして令那である。月に一度ほど、二人と語る時を持つのは続いている。