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今村翔吾「海を破る者」 #007

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 年が暮れて弘安三年(一二八〇年)となった。この冬は温暖な伊予にしては珍しく、こがらしが吹く肌寒い日が続いていた。
 普段は賑やかな市もどこか元気がない。伊予人は寒さに慣れておらず、背を丸めて身を揉むようにして歩む者が多かった。
 活気が無いのは人の気の問題だけではない。穏やかな瀬戸内には珍しくここのところ海が荒れていて九州と畿内を往来する商船が少ないことや、漁に出ることがままならず魚が市に並ばぬことも原因である。
「二年続けて稲の実りは良かったから百姓はよいが、こっちはまるで仕事になりませんぜ」
 寒天の下、市を共に歩くむらかみよりやすはそう愚痴を零した。
 村上家の起こりははきとしていないが、河内かわちげんの庶流しな村上氏の流れを汲んでいるとか、村上天皇の孫であるみなもとのもろふさを祖とするなどと言われている。少なくとも百年以上前から伊予には存在し、歴とした武士の家系であることは間違いない。こう家とも幾度となく婚姻が交わされている。
 だが承久の乱の折、京方にくみした河野家に従って没落し土地を失った。故に今では漁師の取り纏め、海賊の取り締まりなどを行っていた。
「暮らしが苦しい者には、河野家からついえを出そう」
「それはあり難いのですが……河野家としても楽ではないでしょう?」
「人の心配をしている暇があるのか。幸いにも今年はりょうむらまさおかがわが常より多く年貢を納めてくれている。いざという時、領民を支えるのが領主の役目だ」
 河野家の旗本は決して多くはない。両村衆、志津川衆、正岡衆、なん衆、しま衆、しもじま衆の六つの地侍の集団を傘下に置いて家を成している。ろくろうが口にした三つの衆は主に田畑から収入を得ており、この二年は豊作のため年貢も多くなっていた。
 一方、頼泰の島衆、難波衆、下島衆はそもそも、土地を多く持っていない。漁師の取り纏めなど海の利権を拡大させて何とか生計を立てている訳だ。
「それに今、お主たちを失う訳にはいかないからな」
 両側に店の並ぶ道の先、白波の立つ海原を見つめながら六郎は言った。
 前回、げんが来襲した時は幕府の出陣要請を断れたが、次はそうもいくまい。往年の軍船などは船底に藤壺が湧き、木が朽ち果ててもはや使い物にならない。なんとか河野家の財政を建て直し、新たに軍船を建造しているときに、それを操る者がいなくては話にならない。島衆ら海に精通した者たちは、来たるいくさのために何としても守らねばならない。
「もう一つ。最近、海賊働きをする者が増えています」
 頼泰は苦々しく言った。
 海が荒れているため商船の往来が少ない。海賊たちもかすみを食って生きている訳ではないので、数少ない商船を必死になって襲っているらしい。
みなとの近くが危ないと噂が立てば、海が穏やかになっても商船が寄り付かぬことになる。何とかせねばな」
「例の船が間もなく仕上がります。試すには良い機かと」
 往年のような大船団を造ろうとすれば相当な費えが必要だが、今の河野家にそのような余力は残されていない。出陣の命が下ったならば、漁船も動員するほかない。ならばそこに十の小船を加えるよりも、いっそ旗艦となる一隻の大船を造るほうが良いと考えた。
 水居津から約一里半ほど沖に浮かぶ、つるしまにて二年にわたって造られている。それが間もなく完成すると報告を受けていた。
「何と名を付けましょう」
 頼泰は冬でも浅黒い頰を緩めた。
「さて……どうするか」
 新造船は河野家再興の象徴となるだろう。それに相応ふさわしい名にしたいが、まだこれといった名前は見つかっていない。
「初めて名を付けなさるのです。ゆるりと考えなさるがよいでしょう」
「そうだな」
 六郎が思案していると、頼泰は思い出したように話題を転じてきた。
「ここのところ見ていませんが、はんは達者ですかな?」
「ああ、力があり余っているようだな」
 普段は朝から漁に出た後、昼から剣や弓を修業している。それは寒風が吹く日でも、一日たりとも欠かすことは無い。最近は海が荒れて漁に出れぬことが多い。そんな時は、朝から夕暮れ時まで一日中稽古に励んでいる。
「漁もすっかり身に付いている。器用な男です」
 頼泰は感心したように嘆息を漏らした。繁の漁の腕前はくろうとの漁師が舌を巻くほどである。に至ってはすでに字も書けるようになっていた。何事もかんどころを摑むのが上手いのは確かだろう。
「いや……」
 が、こと剣や弓の習得が早いのは器用だけが理由ではなかろう。繁は両親と妹を何者かに殺されたと語った。後悔の念があるからこそ、武芸に打ち込んでいるのではないか。そんなことを思い出したが、他の者に話す訳にいかず言葉を呑み込んだ。
「違いますか?」
「確かに器用には違いない」
「そうでしょう」
 満足げに頷く姿に、頼泰が繁を気に入っているのが解る。
 二人歩いて浜辺まで来た。興居ごごしまという東西に長い島が見えた。その向こうに新造船のある釣島はある。
「桜の咲く頃には動かせるでしょう」
 頼泰は風に髪をなびかせながら言った。
「いよいよだな」
 己の船が出来るということには単純に心が躍る。だがそれが元との戦に備えるためのものだと思うと、怒りと戸惑いの入り混じった感情が湧いて来る。
 元来、船というものは争いのために造られたのではなかろう。川や湖、そしてこの大海原を越え、未だ知らぬ世を見ようとした人の心が生み出したもののはずである。
 未だ名さえ知らぬれいの国も海で繫がっているのだろうか。そのようなことを考えながら、六郎は細やかな泡の立つ海を眺めていた。

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