今井真実│妄想ホームステイーーベルクワンダーランド
第2回 妄想ホームステイーーベルクワンダーランド
駆け足で駅の階段を降りると、新宿行きの急行と各駅停車が、同じタイミングでホームへやってきた。到着までの時間の差は、10分弱。どちらに乗ろうか――少し逡巡して、各駅停車の方へ乗ることにした。
新宿に着くまでに、少し時間がほしい。ランチのお店を決めるには、落ち着いてゆっくりと考える必要がある。
今日の外出の目的はファンデーションのリフィルを買うこと。
ここ2週間ほど、四隅に残ったパウダリーをいじらしくちびちびと使って、まだいけるわよねえ、と粘っていた。しかし今朝、手元がすべって落としてしまい、そおっとケースを開けると無惨にも砕け散った肌色の粉。あーあ、やっちゃったよお。ついに買いに行かなきゃ……。
以前は家の近くのショッピングセンターにも取扱いがあったのにな、とちょっぴり恨めしい気持ちになる。調べると、うちから一番近いお店は新宿のよう。仕方なく午前中に時間を捻出して出かけることにした。
あ、でも、ちょうどお昼時じゃない。さっとランチを新宿で食べればいいんだわ! 最近ずっと家の中に閉じこもっていたしね。たまには街の空気に触れなくては。そうと決めると、まるで偶然降ってきたご褒美のよう。
そして飛び乗ったのが各駅停車の電車だった。車内は空いていたので座席に座って、スマホを眺める。はて、どこのお店で食べようか。
目的地は駅ビルだし、そこから離れてランチの旅に出るほどの時間はない。とはいえ、久しぶりの都心だから、近所にないようなちょっと珍しいものが食べたいなあ。
グーグルに「新宿 ランチ」と入力して検索をかける。予算は1000円……いや1500円? うーん、まあ落ち着こうとリーズナブルなお店から探すことにした。
さすが新宿、検索しても候補の店が多い。親指でリストをどんどんスクロールしていく。どこのお店もおいしそうなのだけれど……華やかなレストランばかり。
キラキラしているメニューを見ていると、なぜか気持ちも胃も重くなってきた。そうか、今日の私は、がっつりの気分ではないのだな。
なにしろここのところ、締め切りが重なり、ひたすら新作レシピの試作を繰り返していたのだ。そのせいで食べ物に対する飢餓感があんまりない。お腹もそこまで空いてないし、素朴で優しいものがいいなあ。油や調味料をふんだんに使ったものではなく、ほっとする家庭の味のような……。
しかし、それはどうやって検索すればいいのだろう。どんなワードを入れたら自分の心が求めている食事に辿り着けるのか。考え疲れて、スマホ画面をオフにしてバッグにしまった。
電車に揺られながらしばらく目をつぶり、新宿に到着するというアナウンスが流れた頃にふと思い出した。
あそこだ! 私ったらうっかりしていた。あのお店なら、今の気分にぴったりではないか。
ウキウキと新宿駅の改札を出て左手に曲がり、その先を足早にまっすぐ進むと、「BERG(ベルク)」の看板が見えてきた。ああ良かった、今日は並んでない。
お店に到着するなり急いで飛び込んで、あらいけない、とすぐに出た。あまりに不用意だった。丸腰でいきなり注文ができるわけがないのに!
「ベルク」のメニュー数はものすごい量だ。店の外に貼られている料理の写真と説明をじっと眺めていると、選択肢の渦に巻き込まれて頭がぐるぐるしてくる。
前に食べたのは何だっけ。今日はどうしよう……。ランチセットだけでなく、単品やトッピングメニュー、冷蔵ショーケースには日替わりのお惣菜やジビエを使った創作料理まである。胃袋はひとつしかないのに組み合わせが無限なのだ。散々お店の前をうろうろした挙句に、やっぱりまたいつものにしちゃおうかな……。うーん、どうしよう! いや、もう決めた。あれが大好きなんだもん。
いざレジに並んで注文すると、地に足がついていないような心細い気持ちになる。ついつい「やっぱり変えます!」と叫んで違う料理を頼みたくなる衝動に襲われる。まったくメニューひとつでこんなに心が掻き乱されるなんて、と自分でもおかしくなった。
でも、大丈夫。このチョイスはなかなかの鉄壁なのだ。大麦と牛肉の野菜スープ、キッパー卵サンド、それに焼きソーセージを1本。我ながらニヤついてしまうバランスの取れた組み合わせだ。あんまりお腹が空いてないなあなんてさっきまで思っていたくせに、やはり追加のソーセージは外せない。メニューの文字の面構えだけで我慢できなくなってしまった。
レジで支払いを済ませると、まるで魔法のようにあっという間に、料理がトレイに載ってやってきた。
ここでいつも少し葛藤がある。スープを見つめて、ごめんなさいと心の中で謝りつつカウンター脇に置いてある塩をちょっぴりかける。置いてあるってことは使っていいんだよね、と言い訳しながら。
ベルクでこのスープを飲むときは、いつもわずかに外国のおうちにお邪魔したような厳かな気持ちになる。それがイギリスなのかどこなのかはわからないのだけど、私の家でないどこかの誰かの「おうちの味」。
いんげんや牛挽肉、レンズ豆が入っていて、具材は大好きなものばかり。だけど味付けは「私のうち」よりだいぶ優しい。大麦をもぐもぐしていたら、ほのかにスパイシーな後味。これが、このおうちのスープの味なのだなあ、へえ……と、妄想ホームステイをしながら食べるのもいつものこと。
ちょっぴりお塩をかけると、ぐっと我が家の味に近づくのだけど、それはそれでせっかくなのになあ、ともったいない気持ちにもなってしまう。でも、やっぱりかけちゃうんだけどね。
さあ、スープでお腹と喉を温めたら、次はキッパー卵サンド。
キッパーとは、ニシンを燻製にしたイギリス料理のことだ。水分が少なめの黒パンに、このキッパーと卵が生野菜と共に挟まれている。かぶりついて、よくよく噛み締めていると香ばしい薫りが鼻を抜けていく。パンのばさっとした素朴さが、なんとも心地よく、ちょうどいいのだ。ああ、かっこいい味。
お店でサンドイッチを食べようとすると、具材がボリューミーだったり油脂やソースがたっぷりだったりすることが多い。しかし、ベルクの「キッパー卵サンド」はそれらの対極にある。お料理上手のおばあちゃんが冷蔵庫にあるものでさっと朝ごはんに作ってくれたような、日々の風情。
ぷるんとした自然卵も良い。マヨネーズでタルタルのように混ぜてるわけでもなく、しっかり油で焼いているわけでもないので、清らかな存在感なのだ。
脇役にしては目立ちすぎる焼きソーセージを食べ始めるのはこのタイミング。ひとりで外食ランチをするからには、ちょっぴり特別感がほしい。そこで1本追加したソーセージなのである。
ベルクの罪なところはソーセージだけで何種類もあるところ。お気に入りは焼きソーセージなのだけど、ここは今後チェンジするかどうか考えていきたい課題だ。
プチンと一口齧るとソーセージから肉汁が溢れ、口の中に溶けていく。それを受け止めるために、すかさずキッパー卵サンドを一口。これがたまらない。スモーキーさと豚の脂が混じった強い味よ。そしてスープをすすると、はっと正気に戻る。そしてまたてらてらと輝くソーセージに目を向けて……この繰り返しが、幸せへのプロセスなのである。黄金のトライアングル。あたらしい「三角食べ」だ。
ちなみに「三角食べ」とは、子供の給食指導のときに初めて知った言葉だった。全てのおかずとご飯、汁物を並行して食べましょうと推奨される食事法のことらしい。食べる順番なんて自由にすればいいのにと思うけれど、ベルクのこの三角食べならば、私も推奨したい。
お腹が満ちてきたら、やっと店内を見回す余裕ができた。
隣の老齢の男性はコーヒーを飲みながらノートパソコンを開いて仕事をしている。ビールをひとりで飲んでいる女性や、カレーを一心不乱に食べている若い男性もいる。
みんなバラバラのものを食べ、バラバラの顔をしている。しかし誰もが好きなものに酔いしれ、心地よさを味わっているよう。穏やかな良い風景だ。
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