堂々完結! 今村翔吾「海を破る者」#026(最終回)
荒波に呑み込まれんとする蒙古兵たちを前に、六郎が下した決断とは――。感動の叙事詩、堂々の完結!
「追い首は手柄にならぬ。ましてや抜け駆けならば猶更。ならばいっそのこと救い上げ、それでも向かって来た時に討ったほうがよい」
敗走する敵を討つのは誉とされず、手柄にならぬこともほとんど。それが抜け駆けならば、罰せられることさえあるのは確かだ。
しかし、短い付き合いであるが解る。手柄に拘る自らの流儀は崩さない。そのように見せ掛けてはいるが、それが決して本心ではないことを。季長は沈みゆく者を討つことを良しとは思っていない。溺れる者たちを見るその目が物語っている。
「これで借りは無しだぞ」
この男なりの己への恩返しでもあるのだろう。季長はぶっきらぼうに続けた。
「ああ、助かる」
六郎は口を微かに綻ばせて頷いた。
「お主の方がやはり余程変わっている」
「かもな」
季長は大袈裟でわざとらしい舌打ちを見舞うと、自身の郎党に向け、討つことを禁じること、後の手柄とするために救うことを命じた。
「海若!」
甚助の逞しい声が掛かる。出航の用意が整ったのだ。
「よし」
荒縄が一斉に切られ、風切り音を立てて蛇のように宙を躍る。道達丸が、河野の船が、薄暗い海をずいと進み始めた。舳は波を割り、舷は飛沫を裂く。強風に帆が震える音、帆桁が軋む音、それら全てが入り混じり、道達丸が雄々しく歌っているかのように聞こえた。
海と共に生きてきた河野の男たちの操舵である。一睡もしていないとは思えぬほど躰に力を漲らせ、互いに声を掛け合い、荒波を物ともせずに越えていく。
河野家の船が出たことに御家人の誰かが気が付いた。ざわざわと潮騒の如き声が上がり、あっという間に大きくなっていく。
今は河野家が抜け駆けをしたと見ているのだろう。続こうとしている者もいるかもしれない。しかし、この海に突貫出来る家はそうはなく、地団駄を踏んで悔しがっているはずだ。
流れゆく木端や家財の群れの中に突入した。もはや蒙古の船は目と鼻の先だ。野分で甚大な被害を蒙っている中、応戦出来る船は一艘とて、抗える者は一人とていない。日ノ本軍の船が肉迫してきたことに、愕然、絶望、恐慌する者ばかりである。
「引き上げろ!」
六郎は吼えた。木板に摑まって漂う者に向け、両弦から長い棒が突き出される。突いて沈めようとしていると思ったのだろう。伸びて来た棒先に対し、まだ力が残っている者は片手で懸命に振り払い、残っていない者は虚ろな目で見つめる。
蒙古兵の一人が棒を摑んだ。その瞬間、数人でぐっと棒を引いて舷まで近付け、同時に縄が投げ込まれた。蒙古兵は次にそれに摑まって懸命に這い上がって来る。藁にも縋る思いもあるだろう。が、何の言葉の往来もないままにこれが行われていく。
蒙古兵が遂に船縁まで上がって来た。歳の頃は三十ばかり。恐る恐るといった様子で、乱れた濡れ髪の間から覗く目には、怯えの色がありありと浮かんでいた。
河野の者が、日ノ本の者が、ゆっくりと手を差し伸べる。蒙古兵は小さく嗚咽を発し、瞬く間に目を潤ませる。そして、しかとその手を摑んだ。
「よし、引き上げろ」
「傷は負っておらぬか」
「震えているぞ。薦を纏わせてやれ」
それから間もなく、四方八方から人が助け上げられ、河野の武士の声が船上に飛び交うようになった。蒙古兵は己たちが助けたことに疑問を挟むより、命が救われたことに喜び、安堵する者ばかり。恐らく感謝を伝えているのだろう。涙ながらに彼らの言語で同じことを繰り返している者もいた。
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