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一穂ミチ「アフター・ユー」#003

青吾の前から消えてしまった多実。
彼女は、五島列島に渡るフェリーに乗っていたという。
青吾は、多実と一緒にいた可能性が高いという出口波留彦の妻・沙都子と共に現地に向かうことを決意した。

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 羽田空港の待ち合わせ場所でを見つけた瞬間、何より先に「一緒に歩きたくない」と思った。
「太陽の塔」という金色のモニュメントの下にいた彼女のいでたちは、白いつば広の帽子、大きなサングラスにふくらはぎと足首の中間くらいまでの丈の白いワンピース、華奢なストラップのサンダルも白。キャリーバッグを家来のように従え、クリーム色のカーディガンを肩に羽織った姿はどこぞの女優がバカンスにでも出かけるところかと思うほどさまになっていて、だからこそこっちはいたたまれない。エーゲ海とかに行く格好ちゃうんか。上京する時に着替えを詰めて持ってきて以来クローゼットに死蔵されていたボストンバッグを提げ、ポロシャツとチノパンとスニーカーで全身総額一万円に収まりそうなせいは、付き人にしてもしょぼすぎるかもしれない。
「あ、おはようございます」
 沙都子は青吾に気づくとさっとサングラスを外し、折り畳んでワンピースの胸元に引っ掛ける。ノールックの手慣れた仕草にますます気後れが募った。パラソル並にでかい日傘でも差し掛けて後ろに付き従うべきだろうか。
「おはようございます」
「十月なのにずっと暑いですね、つい夏の服装で来ちゃいました」
「ああ……」
 鈍いあいづちを気にするそぶりもなく、楽しげにさえ見えた。心労が溜まりすぎて振っ切れてしまったんやろか。
「きょうから三日間、短い間ですがよろしくお願いしますね」
「はい」
 頷きながら、頭の中で三日間、と復唱する。この、まだ知人ですらない女と二泊三日で離島。何でこんなことに、と遠い目にならざるを得ない。
 一週間前、青吾が「鹿じかじまに行ってみます」と言い、沙都子が「いつにします?」と言った。そこで青吾は、いったん我に返った。勢いで口走ってしまったものの、本気か? と自問すれば途端にテンションが下がり始め、なのに沙都子は「平日のほうが空いてていいですよね」とすっかりその気でスマホのカレンダーをチェックし始めていた。
 ——え、いや、あの。
 ——飛行機と宿はこちらでまとめて取っちゃっていいですか? たぶん、ホテルはなくて民宿になっちゃうと思いますが。
 ——ちょっと待ってください、いったん冷静になりましょう。
 このままでは旅程を勝手に決められかねない。どうにか異を唱えると、沙都子はじっと青吾を見つめ「そうですね」と応じた。
 ——じゃ、まず落ち着いて、携帯ショップに行きましょうか。通話ができないと困りますから。
 それは仰るとおりで、もともと行くつもりでもあったので、なぜ沙都子がついてくるのかは釈然としないままキャリアの店舗に行った。五年ほど使っていた機種は修理より機種変を勧められ、言われるまま最新機種に変更した。LINEのトーク履歴はバックアップできると聞いてほっとしたが、の指紋でも残っているかもしれないと思うと壊れたほうも下取りには出せなかった。手続きを終えて新しいスマホやらが入った紙袋を受け取ると、沙都子がそっとそこに何かを入れた。
 ——スマホケースです。落としても大丈夫なように。
 いつの間に買っていたのだろう。落としたのではなく、怒りに任せて床に叩きつけたことを見透かされている気が、何となくした。いただけません、とは言えなかった。
 ——……ありがとうございます。
 ——で、かわ西にしさん、遠鹿行きですが。
 ——その件なんですけど、ちょっと、すいません、僕、ついぽろっと言うてもただけというか……。
 ——行かないんですか?
 ——いや……どうなんでしょう。何にしても、いでぐちさんと連れ立って、というのは変な気が。
 ——もし、島の方にいろいろ訊きたいのであれば、わたしと一緒のほうが話が通じやすいと思いますよ。
 それも仰るとおりだった。行きましょう、と力強く誘われた。
 ——何も外国に行くわけじゃなく、たかが長崎です。さっきのテレホンカードについて、何か知りたいことがあるんでしょう。
 ——でも、よく考えたら今さら……。
 煮え切らない青吾に、沙都子は「今から卑怯な手を使いますね」と前置きし、言った。
 ——川西さんの中の多実さんは「来ないで」って言ってますか?
 瞬間、夢で見た多実がよぎった。鮮烈な夢だったはずなのに、ものの数時間で急激にいろせ始めているのに気づいた。こっちの世界に持って来られない架空の思い出は、ドライアイスみたいに呆気なく気化してしまう。でもまだ、あの声が耳に残っている。
 何があるかわからないぞってどきどきするから。ほら、潜ってく。
 ——ほんまに、ずるいですよ。
 それが答えだった。頭では納得しているし後悔もないのだが、妙なことになったな、という戸惑いは消えない。長崎空港行きの飛行機がゆっくりと動き出しスピードを上げると、見えない手のひらがぐぐっと上体を背もたれに押しつけてくるのを感じ、無意識に歯を食いしばっていた。やがて足の裏をふっと持ち上げられ、斜めに傾いたままぐんぐん高度を上げていく。せっかく窓側の席なのに、ぎゅっと目を閉じ、シートベルト着用サインが消えるまで青吾は身じろぎもできなかった。
「飛行機、初めてでした?」
 ようやく顎とまぶたの力が抜けたタイミングで、隣の沙都子に耳打ちされた。
「はい、実は……顔に出てました?」
「かなりそうな面持ちでしたね」
 上昇しきってしまえば、高速で飛んでいる実感もなく、時おり揺れる程度で窓の外を覗く余裕も出てきた。どこまでも広がる雲と、地上では見られない、したたるような濃さの青空。おとぎ話に出てくる天国そのままの眺めでびっくりした。多実もこんな景色を見たんやろか、などと考えていると、実にタイムリーに沙都子がつぶやいた。「どこの座席に座ったか、調べておけばよかったかもしれないですね」
「え?」
「夫と、多実さんが。どうせなら同じ席のほうがよかったかも。航空会社に言えばいいのか、警察に言えばいいのかわかりませんけど」
 その場合もきっと、俺には教えてくれへんのやろな、と思った。最後に乗った飛行機の何列目のどっち側に座っていたのか、そんな些細な情報さえ。青吾は「どこでもそんなに変わらへんでしょう」とだけ答え、ワゴンサービスのアイスコーヒーを飲み干した。空になった紙コップを目の前のシートポケットに突っ込むと、その代わりのように、沙都子が足下のトートバッグから書類封筒を差し出してきた。
「転覆したクルーザーの写真です。遠鹿港にえいこうされてきたのを、海保の方が撮影して送ってくださいました。ご覧になりますか? 特に、何か衝撃的なものが写っているわけではないですけど」
 気は進まなかったが、沙都子が見たのなら自分が拒むのはずるい気がした。受け取って中身をあらためる。本当に、拍子抜けするほど「ただのクルーザー」がフロートに載って係留されているだけだった。船体に目立った破損は見当たらず、これがちゃんと戻ってきて、乗っていた多実が行方不明になってしまったなんて納得がいかない、と思った。せめてもっとまんしんそうなら。
「この船は、これからどないなるんですか」
「海保の実況見分は終わって、あとは保険会社の調査を待って廃船にすると思います。具体的な手続きは保険会社でやってもらえるそうです。もともとは夫のお父さんが所有していたのを夫が相続し、そこからさらに夫の旧い友人に名義を変更しました。その方は遠鹿で暮らしていますし、船舶の操縦歴も長いので、たまにしか来られない夫よりきちんとメンテできるだろうということで。なので、保険の契約者も船主も、そのうらさんという男性になります。今回の件ではとてもご迷惑をおかけしているので申し訳ない限りです」
 申し訳ない、という言葉が胸に残った。沙都子は、青吾には見えないところでいろいろ頭を下げているに違いない。彼女にいっさい非がなくても、夫婦だから。青吾は、多実について何の権利もない代わりに、責任も負っていない。手出しできないぶん、誰にも邪魔されず混乱や悲しみの中でもがいていられた。青吾は急に自分が恥ずかしくなり、同時に沙都子から「この度はうちの夫が……」などという正式な謝罪を受けていないことに気づき、ほっとした。青吾や多実に対して悪いとは思っていないのかもしれないし、彼女なりのプライドがあるのかもしれない。どちらにせよ、ひこと多実がどういう関係であろうが、沙都子には謝られたくない、と思った。

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