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一穂ミチ「アフター・ユー」#002

ある日姿を消してしまった恋人。
最悪の事態に怯える青吾のもとにかかってきたのは、警察からの電話だった。

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『もしもし? 大丈夫ですか?』
 大丈夫って、この上なく漠然とした言葉だと思った。気遣いっぽく聞こえるだけで、中身は空っぽだ。何について訊いとんねん。この状況で大丈夫なわけがあるとでも思うんか。「大丈夫じゃありません」って言うたら、何かしてくれるんか。いちゃもんのような問いを溜め込んだまま、せいは「はい」と答えた。
なかぞのさんという女性が、三日前に長崎県のとう列島で転覆した小型船に乗っていたかもしれません』
「え、あの、すいません、」
 舌が前歯の裏に貼りついてうまく発音できない。
「可能性とか、かもしれないって、どういうことですか」
『羽田発長崎行きの飛行機にナカゾノタミという女性が乗っていたことはわかっています。佐世保港から五島列島の鹿じかじまに行くフェリーにも中園多実さんの名前で予約が入っていました。遠鹿港から出港した小型のクルーザーが天候不良のために転覆し、乗っていたとみられる男女二名が行方不明になっていますが、これは個人の船で乗船名簿などはありません。現場周辺の聞き込みから中園さんではないかとみられています。捜索活動を行ってはいますが、現場付近の海流が結構激しいみたいで、発見には至っておりません』
 スマホを押し当てている右耳から左耳へと情報が通り抜けてしまう気がして、青吾は左手で左耳を押さえた。ちゃんと頭で受け止めなくては、と思う側から、「その持ち方、古くない?」と多実にからかわれた記憶がぽこぽこ湧いてくる。
 ——それ、昔の固定電話とかガラケーの持ち方でしょ。スマホのマイクって底についてるから、こう……顎のちょっと下で、水平に持つんだよ。
 ——ほんまや、こうしたら若者っぽいな。
 ——えー、若者はイヤホンしてハンズフリーだよ。
 ——そうか。こうしてどんどん時代に取り残されていくんやろなって、最近よお思うねん。若い頃から流行にはうとかったけど、それとは全然違う感じで。
 ——そうだねえ。そのうち、ふたりともコンビニで買い物もできなくなって、電車にも乗れなくなっちゃうかも。
 ——絶望的やな。
 ——何で? そしたら、ベランダで野菜を育てて、歩いていける範囲で生きていけばいいんだよ。
 そんな日が来るのが、むしろ楽しみだと言いたげに笑っていた。笑顔の残像を、忙しないまばたきで振り払う。
「でも、別の人かもしれないんですよね」
『ええ、もちろん』
 電話口の声は急にやさしげになり、かえって自分の望みがの糸のようにはかないものだと思い知らされた。おそらく、警察はもう多実だという前提で動いている。
『同乗していた男性ですが、イデグチ・ハルヒコという名前です。年齢は四十二歳。ご存じですか?』
「いえ、まったく」


 考えるまでもなかった。多実との会話で、芸能人以外の男の名前が出てきたことなどない。
『そうですか。あすにでも現地の警察が直接お話を聞きに行くと思います。夜はご在宅ですか?』
「七時頃には帰宅してます」
『では、お手数ですがお願いします』
「はい。あの、さっき、彼女の弟さんが家に来てまして」
『弟さん? 連絡がついたんですか?』
「はい、職場から連絡がいったらしくて」
 事後承諾でええんやろかと一瞬迷ったが、こうの名前と、渡された名刺にあった携帯番号を伝えた。
「長いこと会ってなかったらしくて、弟さんのほうでも何もわからないってことだったんですけど」
『そうですか、でも一応そちらにも警察が伺うと思います』
 通話を切ってから、すぐ康二にかけた。警察から電話があったことを伝えると「えっ……」と絶句していた。それから「警察は、何て?」と問いかけるまでの短い沈黙の間に、思い出らしい思い出がないという姉について、何を思ったのだろう。
「五島列島の遠鹿島というところで転覆したクルーザーに乗っていた可能性があるそうです。現在行方不明だと」
『五島って、長崎ですよね』
「はい」
『行かなきゃならないんでしょうか』
 康二は困ったように言った。
『その——見つかった時、身元確認とか。今の姉の顔なんか、わからないんですけど。日帰りできる場所なのかな……今、仕事が忙しくて。親も歳ですし』
 船に乗っていたのが多実であること、そのうち遺体となって発見されること、そのふたつがもう確定事項であるかのような口ぶりに怒れる心の余裕はなく「警察がこっちに来るそうです」と答えた。
『事情聴取ってことですか? お話しできるようなことなんか何もないですけど……』
 康二からは「面倒に巻き込まれたな」というわずらわしさしか感じられなかった。青吾自身、血の繫がりに思い入れがないから、肉親らしい情を見せろだなんて思わない。ただ、逆の立場なら、多実はきっと康二の身を案じるだろうに。
「何か、確認せなあかんようなことがあれば、極力こっちで対応します。ただどうしても、家族でないと、という時もあるかもしれません」
『まあでも、かわ西にしさんとは事実上の夫婦みたいなものでしょう? 最近はそういうの、認められていく風潮じゃないですか。紙切れ一枚の契約交わしてなくても、みたいな。大丈夫だと思いますよ』
 風潮って何やねん。知らんわ。そんな風や潮の流れに身を置きたければ、「認められる」ように努力しなければならない。契約と同等の関係性を、具体的に提示しなければならない。署名と捺印で済む紙切れの契約より難しくはないか。康二の、責任を回避したいのが見え見えの雑な請け合い方に反論はせず、「ですかね」と同じ雑さで流し、電話を切った。これ以上のやり取りは無駄でしかない。
 警察と康二、合わせて十分も話していないのに、スマホは苛立たしいほど熱を持っていて、手のひらが汗でぬるついた。放り投げてしまいたい気持ちをこらえ、ネットで「五島 転覆 不明」と検索した。『長崎県きたまつうらぐん遠鹿町の沖合で小型のクルーザーが転覆、乗船していたとみられる男女二名が行方不明に』と、さっきの警察からの説明と同じような短いネットニュースが見つかっただけだった。それから、遠鹿島の場所を調べてみる。長崎の西に位置する五島列島の、だいぶ北の方だった。遠い、と漠然と思った。飛行機とフェリーを乗り継いで行く離島にたった一泊ではろくに観光もできないだろう。多実はどうしてそこに行こうと思ったのだろう。遠鹿島についてさらに検索してみると、五島の中でもマイナーな島のようだった。観光案内のサイトを見ても「美しい自然」や「人との触れ合い」などのふんわりとした謳い文句ばかりで、裏を返せばめぼしい名所はないということだ。有名な潜伏キリシタンの教会もないし、マリンレジャーならほかの島でもできる。
 何か、そこでなくてはならない明確な目的があったのか、と考え、聞いたばかりの名前がひらめく。イデグチ・ハルヒコ。そうだ、土地の情報より先にその男だろう。慌てて検索バーに入力してみたが、それらしい人物はヒットしなかった。井手口? 井出口? 春彦? 晴彦? 漢字を訊いておくんだった。
 あした来るらしい警察の人間に教えてもらわなければ、と思い、なぜ自分が何の疑いもなく「あした」など信じているのか、不意にわからなくなった。眠るために目を閉じ、朝が来たら何事もなく目を開ける保証なんて、誰にも与えられていないのに。
 多実。旅立った日、顔も合わせなかった。喧嘩をしていたわけでもなく、早朝というだけの理由で。後悔は、ふしぎなほど感じない。たぶんまだ遠くにある。沖で頼りなく揺らめくハンカチみたいな白波が岸に近づくにつれ高さと勢いを増し、やがて大波になって打ち寄せてくるように、いつか青吾を呑み込むかもしれない。
 ——青さん、わたし、来月ちょっと旅行に行ってくるね。一泊だけ。カレンダーに書いとくから。
 ——うん。
 あの時、もっと突っ込んで訊いておくべきだったのか。やめとけと言うべきだったのか。そうしていたら——。
 手を動かさないといてもたってもいられない気持ちになり、多実の番号にかけた。あの、うんざりする音声が返ってくるだけだった。それでもまたかけ直した。『おかけになった……』の『お』が聞こえた瞬間に切り、何度もリダイヤルを繰り返した。電波の届かない多実のスマホには、この発信の履歴すら残らないと思うとやるせなかった。
 気づけばバッテリーの残量がわずかになり、液晶にでかでかと赤い電池のマークが表示されていた。ようやくスマホを手放してベッドに転がると、途端にひどい眩暈めまいがして天井が回り始める。まだ確定やない、と自分に言い聞かせるほど、現実に裏切られてしまう気がした。イデグチ・ハルヒコとかいう男とクルーザーに乗ったのは、多実じゃないかもしれない。海に投げ出された多実は、まだ波間で救助を待っているかもしれない。多実が死んだ、と想像しても、生存可能性がゼロじゃない、と想像しても、同じくらいの動悸で胸がきりきり痛んだ。希望とは不穏なものだと初めて知った。でも、諦めという平穏には至りたくない。
 目を閉じると、今度は頭を支点に首から下がぐるぐる回転しているような感覚に吐き気が込み上げた。荒れた海に身ひとつで放り出されたら、どんな感じがするのだろう。

 細切れの睡眠の中に、何本立てかわからない夢の断片がちりばめられていた。夜が明けて残ったのは疲労と頭痛だけで、重たい身体を引きずって身支度を整え出勤すれば、こんな日に限って客が途切れないのは不運なのか、多実のことを頭から追いやれるから幸運なのか。今は車両の位置をGPSでリアルタイムに把握されているから、ひと気のない公園でサボりもできない。経済評論家と名乗る男が「景気の実感てのはさ、日銀の指標なんかよりタクシーの運ちゃんに訊くのがいちばんなんだよねえ、最近どう?」と話しかけてきたり、怪談しゆうしゆうと名乗る女が「何か怪異に遭遇した経験ありませんか?」と話しかけてきたりしたが、「いや、ちょっとわかんないですね」と気のない反応を貫いた。アプリ配車の客だから低評価をつけられたかもしれないが、どうでもいいと思った。朝食を抜いてしまったので、何か食べなければと昼過ぎにコンビニに立ち寄り、おにぎりやパンの棚の前をうろついても食べたいものが見つからない。胃は空腹を訴えているのに、目に映るものは「違う」のだった。これじゃない。たまに行く定食屋やラーメン屋のメニューを脳内で列挙しても一向にそそられない。仕方なくエネルギー系のゼリー飲料だけ買って店先で吸引した。甘ったるい香料が舌にこびりついて気持ちが悪い。
 多実の作る酢豚。いつだったか、催事で買ってきてくれたさんまの棒寿司。ふたりで初詣に行った時、歩きながらつまんだ露店のベビーカステラ。思い浮かべて喉が鳴るのは、今は手に入らない食べものばかりだった。ぺたんこになった容器の飲み口を行儀悪くくわえたままぼんやり突っ立っていると、隣で煙草を吸っていた若い男が「あ」と声を出し煙草を灰皿に捨てた。若い女が小走りに近づいてくる。
「おせーよ」
「ごめーん。てか出かける前に煙草吸わないで」
「いやお前が待たせるからじゃん」
 文句を言う男の口元に、女がガムを差し出す。恒例のやり取り、という雰囲気だった。そして手を繫いで歩き出す。
 ええなあ、と漏らしてしまいそうになった。待ち合わせをして、出会えている。お互いが何の障害にも見舞われず、それを当たり前の日常として受け止めている。彼らの無邪気さが、羨ましかった。多実がいなくなっても世界は変わらない。ただ、青吾の見え方と感じ方が変わってしまって、もう戻らないかもしれないと考えると、一気に十も二十も老け込んだような倦怠感に見舞われた。しんどい。
 仕事を終えて家に帰ると、七時五分前にインターホンが鳴った。刑事はふたり一組、という青吾の思い込みに反し、やって来たのは男ひとりだった。五島からの交通費がかさむせいかな、と余計なことを考える。青吾より歳上に見える男は「長崎県警しんかみとう警察署のもんです」と名刺をくれた。
「多実は見つかったんでしょうか」
 えずきそうなほど緊張しながら真っ先に尋ねると刑事は「残念かですけど」とかぶりを振った。
「そうですか……」
 首の皮一枚で望みをつないでいると思うべきか、最悪の宣告が先延ばしにされているだけだと思うべきか。
「台風の近うなっとって、きのうの夜から海のひどう荒れてきよるとですよ。捜索活動も難航しとるらしかです」
「捜索っていうのは、その、いつまでやってもらえるんですか」
「そもそも、捜索は警察じゃなくて海上保安庁がやりますもんでね。はっきりしたことは言えんとですけど……。なんも見つからんでも、専従捜索は数日のうちに打ち切りとなる可能性の高かと思います。ばってん、通常の警戒業務の中で捜索は続きますし、ボランティアで捜索してくれるNPOもありますけん」
 おっとりした方言に反し内容はかなりシビアで、そのギャップがこたえた。ATMみたいに無味乾燥な標準語で言われたほうがましだと思う。何らかの反応をしなければ、と頷いてみせると、それを合図に刑事はジャケットの内ポケットから折り畳まれた紙を取り出し、広げた。
「遠鹿港のフェリーターミナルの防犯カメラ画像です。こん女性は、中園多実さんで間違いなかでしょうか?」
 くるぶしまでのワンピースにカーディガン、中くらいのトートバッグ。モノクロの粗い画像だったが、間違いなかった。背格好だけではなく多実の佇まいまでがはっきりわかり、何年も姿を見ていなかったような激しい懐かしさが押し寄せてきて紙を握りつぶしそうになった。そうや、こんな横顔やった、こんな頭のかたちやった、こんな立ち方やった。これが最新の、そして最後の姿なのかもしれない。
 はい、と青吾がかすれる声で答えると、刑事の人差し指が、多実の隣にいる男をとんとんと示した。
「そいやったら、こっちん男性は?」
「知らない人です」
「もっと鮮明な写真もありますけん」
 今度はスマホの画像を見せられた。よく陽焼けした男が写っている。半袖のTシャツから覗く二の腕はがっしりと引き締まり、屈託なさそうな笑顔が背景の青い海と空に似合いすぎていた。まぶしい。思わず目を細めた青吾を、刑事はどう思ったのか。
「まったく見覚えがありません」
「本当ですか?」
 疑っているというより、青吾の返答が早すぎたので熟考を促したのだろう。でも答えは変わらない。
「はい。この人がイデグチ・ハルヒコさんですか?」
「そうです」
「どんな字を書くんでしょうか」
 刑事はメモ帳にさらさらと書き、『出口波留彦』という名前を青吾に見せた。姓も名も、想定外の漢字だった。
「これで『いでぐち』って読ませるんですね。初めて知りました」
「こっちでは『でぐち』ですけど、五島では割とメジャーか名字なんです」
「ということは、地元の人なんですか」
「そうですね、遠鹿の出身の方です。現住所は東京都内ですけど、仕事の関係でちょくちょく島に来とったごたるです。防犯カメラの映像ば見る限りじゃ、中園さんと面識のある雰囲気でした。佐世保発のフェリーから降り立った中園さんば出迎えて、親しげに何か話ばしたあと、ターミナルば出とります。たぶん、その足でクルーザーに乗ったとじゃなかでしょうか。出口さんと中園さんの接点とか、思い当たる点はなかでしょうか?」
「いえ、まったく……何も聞いたことはありません」
 青吾はまた、近所の警察署で話したような説明を繰り返した。多実は旅行に行くと言って出かけたこと、行き先は訊かなかったこと、十年ほどのつき合いだが、多実の家族とはまったく面識がなかったこと、など。刑事はふんふんとやけに軽い相槌を打ちながらメモを取り、青吾の仕事について「ああ、タクシーの運転手さんですか、最近は人手不足らしかですね」といったん雑談を挟んでから、「中園さんとの関係ですけど」と切り出した。「最近は、どげんでしたか?」
 それを訊きたくて来たんだな、と直感が働いた。
「別に……どうということはないです。さっきもお話ししたように、出かける前日も普段どおりやったと思います」
 あれ、と刑事が書き込む手を止める。
「関西の方なんですね」
 自分よりなまりのきつい相手から指摘されるのは、腹が立つというわけではないが、妙な気分だった。
「はい、高校まで大阪におったんで。就職するタイミングで上京しました。どうしても標準語が身につかへんで」
「へえ、わざわざ東京に出んくても、大阪も大都会ですけどねえ」
「いえ、東京に比べたら全然……」
 顔の強張りに気づかれただろうか。落ち着け、と自分に言い聞かせる。仮に経歴を調べられたとしても、後ろ暗いところなどないし、多実の件と関係があるはずもない。
「奥さん、いえ、パートナーっていうとですか、一緒に暮らしとって、旅先も訊かんとが『普段どおり』? ……いえ、当てこすりば言いよるわけじゃなかとですよ。ずいぶん淡白いうか、お互い自立ばしたカップルやったとですね」
「自立かどうかは知りませんけど、いい大人ですから」
「立ち入った質問で恐縮ですけど、中園さんから別れ話ば切り出されたり、他に好きな男性ができたようなそぶりはなかったとですか?」
 要するに、多実と出口波留彦が交際関係にあり、旅行の目的は五島で落ち合うことだった、と推測しているのだろう。アホか、と思った。好きな男ができたのなら、青吾を切ればいいだけの話だ。理由を告げる必要すらない。「旅行に行ってくるね」と同じ口調で「もう別れてね」と言われても、青吾は「うん」と受け入れただろう。それがわからない多実じゃない。でも、主張する気にはなれず「ありませんでした」とだけ返した。
「そげんですか。まあ、単なるご友人って可能性もありますけん。とにかく、川西さんとしては、出口波留彦さんをまったく存じ上げておらん、ということでよかですか?」
「はい」
「わかりました。そしたら、何か新しか動きのありましたら、基本的には肉親の弟さんにまず連絡がいくと思いますけん」
「こっちには何も知らされないということですか?」
「とんでもなかです。ばってん、こちらも人手不足でして、連絡の不備があってもどうかご容赦ください、という話です。では、失礼致します」
「夫」ではないが「赤の他人」でもない、いわばグレーな青吾の存在は面倒なのだと言われた気がした。警察にしてみれば、この事故を処理するためには窓口が一本あればそれでこと足りるのだから。帰り道にコンビニで買った二本目のゼリー飲料を胃に流し込み、昨夜の自分が残した大量の発信履歴を眺めて、ちょっと引いた。『多実』という名前ばかりが延々と続いている。きょうはとてもこんなことをする気になれない。でもあしたの自分が生きていたら、また繫がらない電話に執着するかもしれない。固形物をっていない腹がしくしくと痛み出した。風呂に入る気力もなく、ダイニングの椅子に片膝を立ててぼんやり座っているとテーブルに置いたスマホが鳴り、驚かされるのにも慣れたはずの心臓が跳ね上がった。登録したばかりの『中園康二』が表示されている。もう「新たな動き」があったのか。だとすればそれは——。
「もしもし」
『あ、川西さんですか?』
 康二の声は特に沈痛というわけでもなく、ほっとした。最悪の報せではなさそうだ。
『きょう、警察の人、来ました?』
「はい、一時間ほど前に」
『僕のところにも、昼休みに来ました。すごいですね、警察って。そんな大層な用事でもないのに、わざわざ会いに来るんですもんね。電話とかメールで済みそうなもんですけど』
 何と答えたらいいのかわからず青吾が黙っていると、気分を損ねたと思ったのだろう、康二は慌てて『姉の件ですが』と言った。
『防犯カメラの画像を見せてもらったんですけど、僕には正直何とも言えなくて……川西さん、どうですか?』
「本人で間違いないと思います」
『そうですか……あの、一緒にいたっていう男については』
「それは、全然知らない人でした」
『まあ、普通に考えてそうですよね』
「普通に、とは?」
『いや、だから……同棲相手に、ほかの男の存在は隠すでしょ。友達にしろ、別の関係にしろ』
 今度ははっきりと不快になって唇を引き結ぶ。康二は構わず続けた。
『姉の職場には、事故の件を伝えました。就業規則に従って、一カ月以上行方不明の状態なら自動的に退職手続きが取られるそうです。就業規則って、そんな細かいケースまで書いてあるんですね。ちゃんと読んだことなかったから、思わず自分の会社の就業規則調べましたよ』
「お手数かけました、ありがとうございます」
 不快でも、自分にできない手続きをしてくれたことに礼を述べた。
『いえいえ。で、これからのことなんですけど』
「はい」
『単刀直入に言いますね。僕は、姉が生存してる確率は限りなく低いと思ってます。ぶっちゃけ、もう駄目だろうと』
 警察も明言を避けた多実の安否について初めてはっきりと告げられ、ショックだった。でも、そらそやろな、と反発心は起こらなかった。「普通に」考えて、既に死んでいる。
『遺体が見つからなければ、一年後に失踪宣告を申し立てるつもりです。なので——』
 何かの決意を固めるように、康二が短く息を吞んだのが電話越しにでもわかった。青吾は、やっぱりスマホを耳に押し当ててしまう。
『もし、おふたりの共有貯金みたいなものがあれば、それは勝手に使い切ったりしないでほしいんです』
「は?」
『内縁の夫婦でも、川西さんに相続権はありませんので。姉が遺言でも残していたら話は変わってきますが。法的な権利のない関係を望んで続けていたんですから、そこは配慮していただかないと』
「何の話をしてるんや?」
 急に変わった青吾の口調にも、ひるむようすもなく『これからの話です』と切り返してきた。
『現実的な……あと、生命保険に入ってたかどうかも知ってたら教えてください。いずれ、弁護士に頼んで照会すると思いますが』
「恥ずかしくないんか」
 喉仏が膨らみ、声帯を圧迫しているかのように苦しく、発した声は重たくひしゃげていた。
「今からそんな話……」
『ないですよ。どうか生きていてくれってひたすら無事を願ってればいいんですか? いつまでですか? こっちはあなたと違ってやることがたくさんあるんです。正当な相続を主張して何が悪いんですか?』
 康二も腹を立てたのか、早口でまくし立てる。
『ほとんど交流もなかった姉に何を思えばいいんですか? 母は病気がちで、父は認知症で要介護です。施設に入っていても、しょっちゅう通って世話しなきゃならない。それに、うちには幼稚園に通う子どもがふたりいます。僕と妻が毎日どんなに大変か、川西さんにわかりますか? 姉は、親の面倒も見ず好き勝手に生きてたんでしょう。どこで何があったにせよ、姉のことにかまけてられないんです。ライフスタイルだか何だか知りませんけど、いい歳して籍も入れずにずるずる同棲してるようなだらしない人たちのほうがよっぽど恥ずかしい』
 一方的に通話を切られ、青吾はスマホを床に叩きつけた。派手な音を立てて一度跳ね、ふっと液晶が落ちる。壊れたのかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。自室に駆け込むとベッドに飛び乗り、枕に顔を押しつけて「うわーっ」と何度も叫んだ。それはくぐもったうめきになって体臭の染みついた枕に吸い込まれていく。
 悔しくて、情けなくて、たまらなかった。多実が死んだ前提の話をされたことも、憤りに軽蔑で返されたことも、自分がひと言も反論できなかったことも。ここ数日で溜まりに溜まったストレスを吐き出そうとするように青吾は叫び続けた。すぐに息苦しくなり、はあはあ言いながら顔を上げると、枕に敷いたタオルからは唾液が糸を引いていて、いっそう惨めさが募る。タオルを剝がして洗濯かごに放り込み、やかんを火にかけた。戸棚から取り出したカップヌードルに熱湯を注ぎ、床に転がったままだったスマホを拾い上げて蓋代わりにする。フローリングは軽くへこんでいたがスマホの電源はちゃんと入り、ひびも傷もついていなかった。八つ当たりをされたのに、何事もなかったように作動する機械が妙にいじらしく思えた。
 寂しい。多実がいない。
 多実がいなくなって、一緒におろおろしてくれる相手がいない。どないしたんやろ、何でやろ、何があったんやろ、早よ見つかってほしい……そういう、「これからの話」じゃない、実のない会話をしたかった。混乱と心細さを分かち合いたかった。でもそれを康二に望むのは無理な話だった。青吾には誰もいない。
 何分経ったのか、計っていなかったのでわからない。蓋を開けると麵はかなり汁を吸って膨らんでいた。箸で持ち上げると一気に湯気が立ち込める。鼻水と麵を一緒に啜り上げ、せそうになりながら食べた。味はなく、熱さしか感じられなかった。青吾はレギュラーが好きで、多実はシーフード派だった。戸棚に数個ストックされているシーフードはこれからも開封されないままかもしれない。

 二日経ち、警察からも康二からも何の音沙汰もなかった。多実がいないと靴下のありかもわからない、ということはなく、大雑把ながら青吾もひと通りの家事はできるので、掃除や洗濯をし、会社に行って車を走らせた。頭はちっとも回っていないのに、刻み込まれた日常の習慣が青吾を動かしてくれている。生活とは、何と強固な生命維持装置だろう。
 昼間は暇だったのに、夕方から激しい雨が降り出し、途端にアプリや流しの客をあっちからこっちへ、こっちからあっちへと運び、一時間ほど残業した晩だった。家に帰って濡れた傘を広げていると、インターホンが鳴った。モニターには知らない女が映っていて、青吾は『通話』のボタンに伸びた指を思わず引っ込める。心当たりのない来客が夜にあると、女所帯じゃなくとも身構える。服装を見るに、配達員のたぐいではない。NHKの受信料は払っている。また警察か? それとも宗教とかセールスとか……ためらっている間に、女が再度インターホンを鳴らしたので仕方なく「はい」と応答する。
『川西青吾さんのお宅でよろしいでしょうか』
 きびきびとした声だった。
「はい」
『突然すみません、わたくし、出口と申します。出口波留彦の妻です』
 康二が突然やってきた時以上に驚いた。出口波留彦に妻がいるなんて聞いていない。独身だとも言われていないが、夫でない青吾にそこまで話す必要はないと思われたのだろうか。
『すこし、お話を伺えないでしょうか。どこか、お店を教えていただければ向かいますので』
「あ、はい、ええと……」
 上がってください、と言いかけたが、初対面の男の家なんて向こうはごめんだろう。青吾は駅前のファストフード店を指定した。
『わかりました、では先に行ってお待ちしておりますので』
「はい」
 すぐに追いついてしまうと気まずいので十分ほど時間をつぶしてから、まだ水滴をまとった傘を再度開いて外に出た。もう九月も半ばだというのに、雨で多少は涼しくなるかと思えば、蒸し暑さが増して息苦しいほどだった。店の一階にはテーブル席がなく、レジでアイスコーヒーだけ頼んで二階で沙都子を探すと、窓を背にしてハンバーガーをむしゃむしゃ食べているところだった。
「あの」
 青吾がおそるおそる声をかけると顔を上げ、ごくんと口の中のものを飲み下したのがわかった。
「川西さんですか?」
「はい」
「すみません、レインコートがかさばるので奥の席に座っちゃって」
 特に悪びれたようすはない。
「いえ」
「どうぞおかけになってください。ドリンクだけですか?」
「はい」
 落ち着いた喫茶店などがとっさに思い浮かばなかった青吾の落ち度だが、ハンバーガー片手に話をするわけにもいかないだろうと思った。しかし、沙都子のトレイにはポテトもチキンナゲットも並んでいる。
「お夕飯、まだでしたらどうぞ召し上がってください。わたしひとりで食べるのもなんですから」
「はあ、では……」
 再びレジに向かいかけると、「スマホでオーダーしますよ」と引き止められた。
「階段降りるの面倒でしょう。どれにします? この、期間限定のセットにしますか?」
「あ、はい、じゃあ、それで」
「ドリンクもうひとつきちゃいますけど、単品で頼むより安いしいいですよね。アイスコーヒーですか? 了解です」
 あっという間にオーダーを済ませ、青吾が財布を出しても「わたしがお時間を作っていただいたので」とかぶりを振る。それでも、無理やり千円札を受け取らせてアイスコーヒーに口をつけるとすぐに注文が運ばれてきた。ハンバーガーなど食べるのは久しぶりだった。青吾も多実も、さくっと食べたい時には立ち食いそばを選ぶほうだった。
 期待せずにかぶりつくと、薄っぺらい肉も、ぱさついたパンも、思いがけないほどうまかった。しなしなのポテトも。ただしやくして体内に送り込むだけでなく、ちゃんと味わっている実感がじんわりと腹を温めた。サラリーマンや学生でごった返す周囲の話し声のほか、階下から店員の声も聞こえてくる。独特の抑揚で放たれる「いらっしゃいませぇー」や「お待たせいたしましたぁー」、ポテトが揚がったことを知らせるメロディ、よくわからないコラボをPRする店内放送、とにかく一秒の静寂もなく雑音で満ちていて、そのざわめきが心地よかった。静かな喫茶店とかじゃなくて正解だった。青吾は夢中でハンバーガーとポテトをむさぼった。最初に頼んだアイスコーヒーを一気に飲み干してふうっと息をつくと、こちらをまじまじと見つめている沙都子と目が合った。彼女のトレイにはまだポテトとナゲットが大半残っていて、途端にばつが悪くなる。いくら何でも、がっつきすぎた。
「……生まれて初めてハンバーガーを食べたんですか?」
 からかわれたのかと思った。けれど沙都子は至って真顔で、冗談ではなさそうだった。
「いえ、すみません、空腹だったもんで、つい」
「お腹いっぱいになりました?」
 問いかけに、一瞬多実がよぎった。食卓を囲んでいて、青吾が「ごちそうさま」と箸を置くと、決まって「お腹いっぱいになった?」と訊くのだった。本当に腹具合を気にかけているわけではなく、「ただいま」に対する「おかえり」のようなある種の決まり文句に、青吾は満腹でなくとも「うん」と答えた。何でもない平凡な日々のルーティンが、今となってはすべてささやかな儀式だったように思える。交わす挨拶、毎晩一緒に飲むサプリ、掃除の手順。日常を続けていくためにふたりで作り上げた、たくさんのルール。あの言葉ももう、聞けないのか。膨れた腹と違う場所にどうしようもなさが詰まっていって、苦しい。青吾は「うん」ではなく「はい」と言った。
「ならよかったです」
 二杯目のアイスコーヒーをちびちび飲みながら、悠然と食事を続ける女をこっそり窺う。物腰や口調は落ち着いているが、青吾よりかなり若そうだ。潔いほど額をむき出しにしたロングヘアで、妙な迫力を感じるのは一重まぶたに三白眼という目元のせいかもしれない。本人的にはフラットな表情でも、怒っているように見えるタイプだ。客として乗ってきたら緊張するやろな、と思った。ルートや運転技術について冷静に突っ込まれそうな怖さがある。多実とは全然違う。
 沙都子はペースを崩すことなく食べ終えると、紙ナプキンで口元を拭って「お待たせいたしました」と頭を下げる。
「改めまして、出口波留彦の妻の沙都子です。突然の訪問にもかかわらずご足労いただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、どうも、この度は……」
「警察の方に仲介していただいて、中園さんの弟さんにお会いしたんです。そこで、川西さんの連絡先を伺いました。何度かお電話差し上げたんですが、繫がらなくて」
「えっ?」
 記憶になかったので、慌ててスマホを取り出す。着信履歴を確認しても見当たらなかった。
「かかってきた形跡がないんですが」
「え? でも」
 沙都子のスマホに表示された発信履歴は、確かに青吾の番号だった。
「電源切ってました?」
「いや、そんなはずは」
「じゃあ、今かけてみますね」
 沙都子がリダイヤルをタップすると、しばらくして、聞き飽きたあのアナウンスに切り替わる。青吾のスマホはうんともすんとも言わない。バッテリーにも電波状況にも問題はないのに。
「あれ? 何でや」
「わたしの番号にかけてもらってもいいですか? 080の……」
 言われた番号にかけると、しばらくして「接続できませんでした」の表示とともに勝手に切れてしまった。
「おかしいな、ネットには繫がるのに」
「ひょっとして、故障してるんじゃないですか?」
 と言われて思い当たったのは、床に叩きつけてしまった時のことだった。
「ちょっと前に床に落としてしまったので、そのせいかもしれません。すみません、お手数をおかけして」
「いえ、すこし心配だったので。ただの故障ならよかったです」
 表情こそ乏しいものの、声がやわらかくなった。本当に心配してくれていたのがわかる。青吾が、彼女と同じ立場の人間だから。裏を返せば沙都子もこの一件で心中はつらいはずなのに、気丈な人だと思った。
「きょう、専従捜索が打ち切りになったと、海保の方から連絡がありました」
 想定内とはいえ、やはり、見捨てられたようでショックだった。でも、淡々と告げる沙都子の前で動揺など見せられないと、精いっぱい平静な声で「そうですか」とつぶやく。
「きのう、対馬つしま沖で漁船同士の衝突事故があったそうで、そちらに人員を割かなければという事情もあるそうです」
「そうなんですね」
「川西さん」と沙都子が居住まいを正す。
「はい」
「夫は、中園さんと不倫関係にあったと思われますか?」
 わだかまりの核心に触れられ、ぎくりとした。そんなことはわかるわけがない。自分は本当に何も知らないのだから——正直にそう言えば、目の前の女も青吾に呆れるだろうか。黙っていると、沙都子は「不躾な質問でごめんなさい」と謝る。
「でもわたし、本当に、わからなくて。夫が、自分だけを見ていたなんて思ってるわけじゃないんですけど。唐突に、知らない女の人とクルージングしてて行方不明になった、なんて言われても……川西さんは、いかがですか」
「僕もです。正直、何もかもが寝耳に水というか」
「これが夫の写真です」
 沙都子がスマホの写真フォルダを開いてみせた。警察に見せられた写真と同じ笑顔の男がいる。見かけで判断するのは短絡的すぎるが、こんなに曇りなく笑える男に裏切られたら人間不信になるかもしれない。
「川西さんが、夫に見覚えがないと仰ったのは本当ですか?」
「はい」
「今も変わりませんか?」
「はい」
「よろしければ、中園さんの写真を見せていただけませんか。どんな方だったのか知りたいんです」
「それが……」
 写真がないのを説明するのはこれで三度目だった。青吾が「一枚もありません」と話すと沙都子は「そんなの、困るじゃないですか」と眉をひそめた。
「すいません」
「このまま帰ってこなかったら、川西さん、お顔も思い出せなくなるかもしれないのに」
「え、僕が、ですか」
「ええ」
 てっきり、「普通は写真くらいあるでしょう」と責められたのかと思った。多実の顔を、忘れる。今は考えられない。ふとした折に、噴水のように記憶が噴き上がり抑えられない。でも、このままひとりで歳を取るうちに、多実の面影は薄れ、あるいは変質していくのかもしれない。もしそうなっても、証拠を持たない青吾は修正しようがない。
「……考えたこともなかったです」
「弟さんにお願いしてみたらどうでしょう。お姉さんとは交流がなかったようなことを仰ってましたけど、昔の写真とか卒業アルバムとか」
「ああ、そうですね」
 消極的な相槌を打っていると、沙都子は「今、お電話してみては?」とスマホを差し出してくる。青吾に会いに来る行動力といい、非常にてきぱきした性格のようだ。青吾は「今、ちょっと気まずくて」と白状せざるを得なかった。
「そうなんですか?」
「電話でちょっと、意見の相違というか……僕が配慮のない発言をしたからあかんかったんです」
 沙都子はそれ以上訊こうとせず、「こういう時ですから、お互いにぴりぴりしちゃうのかもしれませんね」とスマホを引っ込めてくれた。そして「中園さんのお勤め先にも行ってみたんです」と言う。
「わざわざ?」
「ええ。売り場の方に夫の写真を見せて、何か知りませんかと」
 刑事や探偵みたいなまねをしても、女だったら警戒されずに対応してもらえるのだろうか。
「もう事故のことをご存じで、わたしが行方不明者の身内だと名乗ると、同情なのか好奇心なのかわかりませんけど、一生懸命考えてくれました。あ、ちなみに、川西さんもお店に行かれました?」
「はい、まだ事故の報せが入る前ですけど」
「やっぱりそうだったんですね。最初に教えてくれたのが、最近中園さんを訪ねてきた男の人がいるっていう情報だったので」
 俺はそんなに、何人にも言いふらすほど怪しかったんか、とぼやきたくなる。
「でも、店長さんが、『そういえば』と教えてくれました。いつ頃かはっきり覚えていないけれど、男の人と『出会う』のを見たそうです」
「出会う?」
「店長さんの表現そのままです。売り場に立っていたら、中園さんが急に一点を見つめて固まって、知り合いでも見かけたのかな、と視線を辿ったら、男の人が立っていたそうです。向こうも中園さんを見ていて、明らかに見つめ合っていた、と」
 あの、混雑したデパ地下を思い出す。買い物客でごった返すフロアで、多実が出口波留彦に目を留める、波留彦も多実に気づく。障害物に遮られながらも、視線が結んだ糸は切れない。そして——そんな、ドラマのワンシーンみたいな出来事が多実に起こるなんて、ちょっと想像できない。でも、もっと想定外のことが現実になってしまっている。
「その男の人は売り場にまっすぐ歩み寄ってきて、店長さんにおかきの詰め合わせを配送で頼みました」
「よく覚えてはるんですね」
「そうなんですよ。おまんじゅうとかには目もくれず、申し訳程度に置いてあったおかきだけ買ったのも印象に残ってたそうです。『あの人の接客しなくてよかったの?』って中園さんをからかったら、『やめてくださいよ』って流されて、ただそれだけのやり取りだったみたいですけど」
「でも、出口さんかどうかはわからないんですよね」
「はい。顔までは覚えていないと言われました。でも、わたしも時期は定かじゃないんですけど、そのお店のおかきを食べた覚えがあります。夫が買ってきてくれて。ひょっとしたら、宅配ボックスで受け取っていたのかもしれない」
「わざわざ自宅に送ったってことですか?」
「ええ、うちはおぎくぼなのに、重たくもないおかきを、わざわざ送料払って。……これはわたしの想像でしかなくて、裏付けは取れていません。中園さんと『出会った』のが夫だとしたら、配送を頼んだのは、連絡先を自然に教えるためだったんじゃないでしょうか」
「あ、そうか、伝票……」
「はい。住所氏名と電話番号を書き残せる。売り場にいればタイミングを見計らって控えることができるでしょう。だから、接客は敢えて中園さんを選ばなくてもよかった」
「じゃあ、何ですか、お互いにひと目惚れをして……」
「うちの夫が、クソみてえなナンパをしたことになりますね」
 沙都子の言葉遣いがいきなり汚くなったので、思わず椅子ごと身じろいだ。
「もちろん仮説です。夫のスマホは海中ですし、パソコンにはパスワードがかかっていて、いくつか試してみましたが駄目でした。年賀状や郵便物にも中園さんからのものはありません」
「いや、でもその場合、連絡を取ったのは多実からってことになりますよね」
 そして、ことによっては数年間、青吾をだましていた。
「ええ」
「うーん……何か、腑に落ちないんですよね。僕が鈍感やったと言われればそれまでですけど」
「わたしもです。夫がそういうことをする人だなんて、考えたこともありませんでした。でも警察の方からは気の毒そうに『よくある話ですよ』と言われました。ずっと連れ添ってきた配偶者に裏の顔や秘密があって、何かのきっかけでそれが明るみに出て、残された側が呆然とするのは」
「それはまあ、そうでしょうけど」
 一般論としては理解できるのだが、多実に当てはまる気がしない……とこの期に及んで否定したい気持ちが消えない。多実の幻想にすがりついているだけなのだろうか。
「好きな男ができたんやったら、そう言ってくれれば、僕は、何も……」
「わたしは違います」
 沙都子はきっぱりと言った。
「わたしと結婚している状態でほかの女の人に熱を上げたら、そこは戦いますし、相手の女性とも話をつけます。全面対決するよりお互いに隠れたまま続けていこうっていう方針だったのかもしれません。それに、夫と恋愛したからって必ずしも川西さんを嫌いになるわけじゃないでしょう」
「女の人って、そのへん、すっぱり切り替えるイメージがあるんですけど」
「人それぞれだと思いますよ。失礼を承知で申し上げるなら、人と一緒に暮らすほうが生活費は抑えられますし」
 沙都子の指が、ハンバーガーの包み紙をくしゃくしゃと丸める。短く切り揃えられた爪にはネイルも施されておらず、無防備な指先は多実と同じだった。
「話せば話すほど、陳腐な不倫の結末って感じですよね。本人たちにとっては運命的な出会いがあって、互いの妻にもパートナーにも隠し通してきたのに、不慮の事故で……」
 包み紙は、あっという間にパチンコ玉くらいのサイズにまで圧縮された。
「夫は、遠鹿島の出身なんです。高校を出てから一度も戻ってなくて、わたしも行ったことはありませんでした。でも、三年くらい前でしょうか、急に小型船舶の免許を取りたいって言い出して、講習なんかに通って二級を取ってました。それから、遠鹿にUターンしたいって」
「何か、きっかけがあったんでしょうか」
「お父さんが亡くなって、故郷に貢献したくなったとか何とか……いずれは遠鹿の観光に携わりたくて、船舶免許もそのために取ったと言ってました。彼はホテルに勤めていたので、それ自体は不自然には感じませんでした。ある程度歳を取ったら生まれ育った土地が恋しくなるのって、あるあるじゃないですか」
「僕にはちょっとわからないですけど、よく聞きますね」
「Uターンには反対しませんけど、わたしも仕事があるので、そうなったら週末婚かな、と漠然と考えていました。そんなにべったりしたいほうではないので、別によかったんです。でも、夫の未来予想図にわたしはいなかったのかもしれませんね。中園さんを連れて戻るつもりで、今回の旅は下見だったのかなって思ったりします。中園さんにふるさとを案内したくて。船が出港したあと、天候が急変して転覆したようだと聞きましたけど、それも、彼女にいいところを見せようと無理をしたのかもしれない」
 今後も足繁く通う、あるいは移り住むつもりだったのなら、初回が一泊でもありか、と思った。多実は販売員で相手はホテルマンとなれば、互いのシフトを擦り合わせるのが難しかったのかもしれない。
 ありふれた不倫旅行の最中に事故に遭った。他人のゴシップとして聞いたら「悪いことはできへんもんやな」と思っただろう。天罰や、とも。でも、これは多実の話だ。
「もう、やめましょう」と青吾は言った。「ふたりがどんな関係で、どんなつもりやったかなんて、考えても答えは出えへんでしょう。本人たちにしかわかれへんのやから……思い詰めても、出口さんがつらくなるだけですよ」
「川西さんはどうなんですか?」
 即座に打ち返される問いに、自分の臆病さを見抜かれている気がした。
「それは——僕も、いい気持ちはしないです。もし生還してくれたら、問い詰めようもあるとは思いますけど、その可能性は、もう……」
「本人には訊けないから、考えるんです」
 沙都子の眼差しは眉間を撃ち抜くように鋭く、おっかないのに目をらせなかった。
「本人にとっては不本意でしょうが、現状、わたしに残されたいちばん大きなものは、夫の秘密です。わたしはそれと向き合いたい。傷ついたっていいんです。それだって形見です。生きている彼が、わたしを傷つけることはもうないでしょうから」
 その覚悟と潔さをくじく言葉が、青吾の中にあるはずもなかった。このまま、一晩じゅうでも瞬きひとつせずに青吾を縫い止めそうだった沙都子が、不意に長く細い息を吐く。
「でも、川西さんがお気を悪くされるのであれば、秘密に触れるのを強要することはできません。きょうはいろいろ無礼なことを申し上げてすみませんでした」
 店を出ると、雨は上がっていた。別れ際、青吾は「お身体に気をつけて」と言った。青吾と同じか、それ以上に打ちのめされているだろう彼女に、何か温もりのある言葉をかけたかったのに、気の利いた台詞など思いつかない。
「ありがとうございます、川西さんも」
 沙都子は深々と頭を下げ、「ずっと言いそびれていたことが」と声をひそめた。
「何でしょう」
 身構える青吾の口元十センチほど手前に、すっと指先が迫ってきた。
「ケチャップついてます。では」
 そのまま、にこりともせず沙都子は駅へと歩き出していった。

 夢を見た。気づけば多実と電車に乗っていた。あ、と思った時には電車がゆっくり動き出し、かもめを横に並べたようなもくもくとした屋根の見慣れた駅舎が遠ざかる。夢だとわかっていても夢の成り行きには干渉できず、多実のことばっかり考えてるからやな、と自覚しながら青吾は黙ってシートに座っていた。外は、早朝か夕方かわからない薄いだいだい色だった。電車は次の西台を通過し、その次のはすにも停まらなかった。「蓮根」の駅名標がスローモーションのようにゆっくり流れていき、隣の多実が「れんこん」とつぶやいた。「いっつも、この駅に来ると『れんこん』って思っちゃう」
「うん」
「わたし、電車乗るたびこの話してるよね」
「うん」
「でも、青さんは『何回も聞いた』って言わないね」
「うん」
「青さんのそういうところがいいと思う」
「そうかな」
 こんな、どうでもいい話をしてる場合か。夢の外側にほんのすこしはみ出した理性が青吾にそう告げる。夢ならではのままならなさがれったくはあるのだが、どうせ現実とは違う、とわかってもいる。夢のシナリオ(あるのなら)を無理やりぶち壊そうとしたら、覚醒してしまうかもしれない。すこしでも長く、多実といたかった。
 志村三丁目から志村坂上に向かう途中で、多実が青吾の手をぎゅっと握った。
「もうすぐ地下に入るね」
「うん」
「地上と地下、両方走るのって得な気がする。青さんは地上に出る時と地下に潜る時、どっちが好き?」
「地上に出る時かな。ぱって明るくなるから」
 曖昧な思考と行動はリンクせず、勝手に口が動いている。
「ふうん、わたしは潜る時だな。真っ暗な中に突っ込んでいくのって、何があるかわからないぞってどきどきするから——ほら、潜ってく」
 突然、景色が真っ暗になる。潜った、と思った瞬間、全身が波打つようなけいれんとともに目を覚ました。高所から落ちる夢を見た時のように。枕元のスマホを見ると、もう昼過ぎだった。久しぶりに長く眠れたらしい。
 身体は、心に引きずられ続けるのをよしとしてくれない。どこかにストッパーがあって、食べるにせよ眠るにせよ、ちゃんと「欲」を取り戻して生きるようにできている。それを浅ましい、恥ずかしいと思う気持ちも、いずれ消えるだろう。多実の顔を忘れてしまうよりはずっと早く。
 外はいい天気だった。といって外出する気分でもなく、冷凍の炒飯を食べて枕カバーやシーツを洗濯機にかけると、多実の部屋に入った。康二がやってきた晩以来閉め切っていたので、換気くらいしなければ。窓を開け、クイックルワイパーで簡単に床を拭く。すぐに終わってしまった。てかてかしたフローリングに寝そべり、窓から射し込む陽光が微妙に色や角度を変えていくのをぼんやりと眺める。目覚めた直後は、多実の手を握り返せばよかったという後悔が生々しかったのに、もう薄れた。夢は夢だ。
 多実がいない、どうしよう、と途方に暮れる反面、こんなふうに光の移ろいを見守っているだけで時間は過ぎていくのだから、十年も五十年もあっという間だろう、と思ったりする。ただ生きて、何も残さずに死ぬ。空しさなんて、きのうきょう抱えたものでもない。
 窓の外から、誰かのスマホの着信音が聞こえてきた。あ、ショップ行かなあかんかったのに、と思い出す。こうしている間にも、重要な連絡がきているかもしれない。多実が、生きて見つかったとか、死んで見つかったとか。
 本格的に日が傾き、部屋の中が青っぽいグレーに染まっていく。あと一時間もしないうちに真っ暗になる。夢の中で多実が言った「何があるかわからないぞってどきどきする」という言葉を思い出す。
 青吾はむくりと起き上がった。何があるかわからないなんて、怖いからいやに決まっている。でも、もし遺体が見つかれば、また金の件で康二にやいやい言われるかもしれない。こっちが執着していると勘繰られるのは不本意だから、多実の秘密はそのままでも、持ち物はどうにかしなければ。
「……ごめんな」
 ぼそっとつぶやき、キャスターがついたとうの三段チェストに手をかけた。越してきた時、一緒に組み立てたのを覚えている。一段目は化粧品やドライヤーだった。二段目は、文庫本や細々した文房具。そしていちばん下を開けると、マチの広いドキュメントファイルがふたつ並んでいた。ひとつ引き出して中を見ると、郵貯の通帳と印鑑が出てきた。几帳面な多実らしく、古い通帳も残っている。いくつかに仕切られた隣のスペースには生命保険の契約書や資料もあり、これをそのまま康二に渡せばいいのだと思うとすこしだけ気が軽くなった。その隣はもう空っぽかと思いきや、カードのようなものが入っている。キャッシュカードにしては薄い。
 取り出してみると、テレホンカードだった。表面の印刷はだいぶ劣化して剝がれたように色が落ちているが、50、30、10、5、1、0の数字が残っていて、50の近くに穴がひとつ空いている。懐かしさより、何でこんなもんが、とふしぎだった。ほぼ未使用だからもったいなくて捨てそびれていた? それにしても、状態は悪いし、貴重品と一緒にしまっておくようなものには見えない。青吾は立ち上がって部屋の電気をつける。カードの図柄は、男女の写真だった。それぞれタキシードとウエディングドレスを着ていて、ああ昔の引き出物か、と思い当たる。新郎も新婦も、顔の部分は白くぼかされたように印刷が飛んでしまっている。単なる劣化なのかもしれないが、気味が悪い。
 カードの左隅には、ローマ字と日付が控えめに記されていた。
『MINAMI SEIICHIROU&KUMIKO 1980.5.11』
 全身から、噴き出すように鳥肌が立った。何や、これは。何であいつがこんなもんを。急激ににじんできた手汗をスウェットになすりつけながら、テレホンカード片手に狭い家の中をうろうろと歩き回る。残されたもの、秘密、という言葉が、足取りに合わせて脳内で渦巻く。
 無意味な歩みを止めさせたのは、インターホンの音だった。モニターには沙都子の姿が映っている。
「はい」
『出口です。連日すみません。きのう、傘をお忘れだったのでお届けに参りました』
 そんなんどうでもええ、という言葉が口をついて出そうになったが、かろうじて「すみません、ありがとうございます」と答えた。「今、そっちに行きます」
 一階に降りると、沙都子はきちんと畳まれた青吾の傘を差し出した。
「改札の手前で、川西さんが手ぶらだったのを思い出したんです。お店に戻ると椅子の背にかかったままでした。本当はその足でお届けするつもりだったんですけど、急にオンライン会議が入ってしまって。きょうもまだお電話が繫がらなかったので……」
「お手間取らせて申し訳ありませんでした」
「いえ。……あの、それは?」
 青吾が持ったままのテレホンカードに沙都子が目ざとく気づく。テレホンカードです、と青吾は答えた。
「ああ、懐かしいですね。ひょっとして、スマホが使えないからですか?」
「いえ」
 たぶん、誰でもよかったと思う。誰ひとり傍にいない青吾のところにたまたま沙都子がやってきた、だから吐き出さずにはいられなかった。
「多実の部屋で見つけました。たぶんこれは、俺の両親が結婚した時の写真です。何でこれを、あいつが持ってたんでしょうか」
 沙都子は困惑をあらわにした。
「それは……もともと川西さんが持っていたものが、中園さんの私物に紛れ込んだんじゃないですか?」
「ありえません。こんなものが存在することすら、知りませんでした」
「じゃあ、ご両親に訊いてみれば」
「それは無理です」
 無理、という言葉をどう受け取ったのかわからないが、沙都子は口をつぐんだ。そしてまたすぐに開いた。
「川西さん、わたし、きょうは傘を届けにきただけじゃなくて。中園さんの弟さんに電話しました。差し出がましいとは思いつつ、中園さんの昔の写真があれば川西さんにいただけないかと。一枚もないと言われました。中園さんが家を出る時、残らず持っていったとか。それだけ折り合いが悪かったと、弟さんは仰ってました」
「そうですか、わざわざすみません」
「それだけじゃないんです」
 冷静な彼女らしくなく、たかぶった口調で言った。
「中園さんと弟さんは、異母姉弟だそうです。弟さんのお母さんが後妻にあたるわけですね」
 それでか、と康二の冷淡さにようやく合点が行った。
「お父さんは、中園さんのお母さんと別れないまま愛人をつくって弟さんが産まれて、二重生活を続けて……離婚騒動でごたごたしていた時、中園さんは、五島の親戚に一時預けられていました」
「えっ?」
「弟さんも、それは知らなかったそうです。彼の中では、四、五歳の時に『新しいお姉ちゃんだよ』と中園さんを紹介されたので、単に親権が決まって父方で引き取ることになったという認識で。今回、お父さんに詳しく話を聞いて初めて知ったみたいです」
「それは、五島の、遠鹿島なんですか」
「そこまではわからないんです。お父さんが認知症で、詳細には覚えていないとか」
「でも、ひょっとすると、多実と出口さんは面識があったかもしれないんですね」
「はい。だから、デパートでのあれは『出会い』じゃなくて『再会』だったのかも。不倫説がいよいよ強固になっただけって気はしますけど」
 離島で知り合った昔馴染みと、大人になってから東京で偶然再会した。ドラマチックだ。運命的なものを感じても無理はない。でも、そのドラマに紛れ込んだ異物のようなこのテレホンカードはいったい何なのか。
 気づけば、青吾は口にしていた。
「遠鹿に行ってみます」
 はい、と沙都子が頷いて言った。
「いつにします?」

[次回:2024年5月公開予定]

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