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朝倉かすみ「よむよむかたる」#004

老人たちの読書会で「読み」担当となった安田。
彼の音読に感極まったまちゃえさんは、亡き息子の思い出を語った

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 そうこうするうちに読む会では「〈おみとりさん〉はこぼしさまのマキ説」が敢然と打ち立てられた。「マキ」は、一族という意味らしい。会長の解釈と併せ、めでたく定説となった。
 みんな、熱気で上気した頰を振り立てるようにして口々に「会長、最高」とオリジナル定説の確立をことほぎ、「この歳になってこんなにいい仲間に巡り合えるとは」とうっすら涙ぐんでは「読む会、最高」と乾杯するように言い合った。そうしてまた会長の「読み」の発表から始まる事の次第を臨場感たっぷりに振り返った。
 皆の昂揚は収まる気配がなかった。六節のラウンドが延びに延びている。次の七節の読みはやすだ。安田のきもちはオリジナル定説爆誕の喜びから初の読み披露への緊張に移りかけている。
 少し前から喉仏のあたりの皮を摘んでみたり、控えめに咳払いしてみたり、尻をちょっと浮き上がらせては椅子の位置を直してみたりしていた。今、左胸に手をあてがい、鼓動を確かめた。ドキドキしてきたな、と揶揄からかうように胸の内で言った。課題本を手元に引き寄せ、七節にざっと目を通す。七節は大事なパートだった。ここに書かれたエピソードが今後この物語を引っ張っていく。
 夏休みの終わり、「ぼく」が小川の流れの中を歩いていくと、曲がった先の段々岩に「女の子」が座っていた。おかっぱの頭をうつむけて、一心に小川の流れの中を見つめている。
「ぼく」がわざと音を立てると、彼女は驚いて立ち上がった。その拍子に赤い運動靴の片方を小川に落としたらしい。責任を感じた「ぼく」が探しに行くと、草の根に引っかかっていた赤い運動靴が水に押されて流れ出すのが見えた。
 駆け寄ると、赤い運動靴の中には「小指ほどしかない小さな人が、二、三人乗っていて、ぼくに向かって、かわいい手をふって」いたのだが、ようようつかみ上げた赤い運動靴の中は空っぽだった。

 安田の頭の中心に映像が出現した。ごくちいさなもので、双眼鏡の反対側から覗いたようだった。意識を向けたら、みるみる拡大した。少女の横顔だ。前髪を厚くおろしている。俯いているのでまつが目を隠していた。黒く濃い睫毛だった。
 ん? 安田は内心の声を鼻に響かせた。まただ、と口が動く。自室で読んでいたときもそうだった。課題本に登場した「女の子」のイメージなのだが、違和感が拭えない。まず極めてクリアなこと。次に課題本の「女の子」よりおそらくとしかさなこと。安田の頭の中のほうは、まぶたと頰のふくらみ具合から察するに、十歳前後。もうすぐせきを切ったように大人になっていく年頃に見えた。
 少女の映像にはそこはかとなく見覚えがあった。安田の脳内ファイルに保存されていたのだろう。ただ、いつ、どこから引っ張ってきたのかは不明だった。だから、リアルの思い出なのか、映画やアニメやネットえつらんちゆうにふと印象に残ったシーンなんかの切り抜きなのか、はたまたほかの小説を読んだときに思い描いたイメージの流用なのか、見当がつかなかった。
「ハイ、じゃ次は、エーット、お、安田のやっくんですね」
 会長の声がした。浮き立たせたようにクッキリと聞こえた。安田はなんとなくハッとして目を上げた。見わたすと、みんな、こちらを見ていた。あの盛り上がりはすでに落ち着いたらしい。
「初読みですので」
 シルバニアが、ぱた、ぱた、ぱた、と音を立てないタイプの拍手をした。
「初体験かい?」
 マンマがシルバニアに聞こえよがしの内緒話をしかけたら、シルバニアもおでこを先にしてマンマに顔を寄せ、手のひらを返して口元を隠し「筆おろしですので」と言い、ふたりして「やだもー」、「それはコッチの台詞ですので」とこづき合ってケタケタ笑った。
 下ネタいくんだ、と安田はだいぶ驚いたが、会員たちは特にどうということもなさそうだった。いつものにこやかな表情でシルバニアとマンマを眺めている。ふとちようネクタイが安田に顔を傾けた。楽しいですね、という目をして安田にうなずく。ええ、まったく。安田がうなずきを返したら、その場のざわめきがどこかに吸い込まれるように消えた。みんな一斉に課題本に目を落とす。これすなわち読書会の呼吸とでもいうもの。安田は鼻から息を吸い、吐くと同時に読み始めた。

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