見出し画像

朝倉かすみ「よむよむかたる」#003

一年ぶりに再開された〈坂の途中で本を読む会〉。
老人たちの熱心な姿を前にして、安田は……

前へ / 最初へ戻る / TOPページへ戻る / 次へ

 坂の途中で本を読む会では、課題本をひとり二ページ見当で朗読し、その都度、皆で感想を述べ合う。そうノートに書いてあった。これが一ラウンドで、時間の許すかぎり何ラウンドでも繰り返すらしい。
 課題本は「読む本」、朗読は「読み」と言い換えるのが定着していて、「読み」の順番は入会順。読む会では、オヤツ当番、読む本当番などさまざまな「当番」があるが、その持ち回り順はすべて入会順なのだそうだ。つまり、会長、まちゃえさん、マンマ、シルバニア、蝶ネクタイ、シンちゃん、そしてやすの順である。と、いい声が聞こえてきた。一番手の会長が第一章を読み始めた。
「二十年近い前のことだから、もうむかしといっていいかもしれない。ぼくはまだ小学校の三年生だった」
 さすがの「読み」だった。最初の一言が耳に触れただけで物語が滑り出した。あとはこの声に身を委ねてさえいればいい。それだけで物語のなかを歩いていける。そんな気にさせた。
 安田がことに感心したのは、がき大将の台詞まわしだった。会長は、わざとらしくない程度に声色をつくり、いばりん坊の男児を表現していた。小中高と十二年間、国語の授業で教科書を音読させられたが、安田は「突っかからない」一点を旨とした棒読みを貫いた。周りも似たり寄ったりだったが、たまに演技を入れてくる者がいた。あのときは聞いているだけで身をよじりたくなるような照れ臭さを覚えたものだ。なのに会長の「読み」はちっとも恥ずかしくなかった。元アナウンサーによる、いわばプロの朗読だからだろう。
 第一章の第一節で会長の担当分が終わった。ページ数でいうと四ページとちょっとだった。
「読み」の区切りは事前郵送の「読む会通信」にて会長からみんなに通達されていた。安田のもとにも届いた。わりと大きめの茶封筒だ。キッチリ折り畳まれた白い紙が入っていた。広げてみたらA4のコピー用紙で、そこに会長の手書き文字が詰め込まれていた。全体の雰囲気としては、書店で見かける手づくりのフリーペーパーに似ていて、安田は少し驚いた。
 会長の字はかいしよで、横書きだったのだ。老人は崩し字を用いるものだと思い込んでいた。そうろうぶんとまではいかないが、どんな文書もあのような空気感の縦書きで作成するとイメージしていたのだった。
 横長の四角や、いくつものえんの中に、ラジオでいうとオープニングトークのような会長のごく短いエッセイと、会員ひとりずつの割り当てページと名前が書いてあった。今回の「読み」は、ひとり一節でいくようである。そして今日のうちに第一章をすべて「読む」計画らしい。
 ちなみにこの本は、ある夏、町のこどもたちがとりもち作りに夢中になるところから始まる。みんなよりちょっとちいさい小学三年生の「ぼく」は、自分だけのもちの木が欲しくて町はずれの峠まで冒険に出て、こんもりと繁った小山にたどり着く。するとその向こうに三角形の平地が広がっていて、美しい泉まで湧いていたのだった。

「じゃ、まちゃえさんから」
 第一節の読みを終えた会長が手のひらを差し出すようにした。感想タイムに入る。まちゃえさんがゆっくりと頭を下げた。
「いやいや、もうもう、いつもながら会長の読みは最高の一言だワ。よくようといい、間の取り方といい、言うことナシだもんね。『ぼく』がもちの木ば探していって、フッと三角の平地に出たところなんかサァ、『ぼく』の見た景色が、『ぼく』の見たようにして、あたしにも見えた気したワ」
 以上です、と、はむっと口を閉じたまちゃえさんが、隣のシンちゃんに向かって手のひらを差し出すようにする。シンちゃんがゆっくりと頭を下げる。
「会長の読みにぼくらがなんか言うのもマーおこがましいんですが、会長の読みのよさは、『うまく読んでやろう』とか『どうだこの読み』というんでなくて、ただひたすら作品世界をゆたかにしようとそれだけ心がけてることだと思うんですよね。うん、最高。ヤー今回も勉強さしてもらいました」
 以上です、とシンちゃんはまったく人のよさそうな笑みを浮かべ、隣の蝶ネクタイに向かって手のひらを差し出すようにした。蝶ネクタイがゆっくりと頭を下げる。
 そっか、ああするんだ。安田はかすかにうなずいた。神社で前の人の身振りを見て、参拝の手順を確認するようなうなずきである。
 感想の述べ方は美智留ノートに書いてあった。「読み手の左隣から時計回りの順」で、発表する感想は「まず『読み』について、次いで内容」で、「『読み』への感想はマスト、内容についての感想はオプション(おもに本文からインスパイアされた各人の思い出話)」と注意書きが添えられていた。
 全体像は理解できたが、発言の締めの言葉「以上です」からの次の番手への手のひらの差し出し、それを受けての一礼といった細部は、やはり、実際に参加してみないと分からないものである。
 安田がこの手の「ちいさな集まり」に参加するのは初めてだった。
 学生時代に部活動や学内サークルに所属したことはあった。そんなに熱心に活動したわけではなかったが、先輩後輩同期との人間関係の「あるある」くらいは体験している。だけども、地域の、趣味の、サークル、には縁がなかった。というより関心を持てずにきた。
 地元愛深めで絆強めの人々や、元気印のご近所老人が集まって、内部で盛り上がっている、そんな印象があった。それはオンラインでのやりとりが主戦場のサークルでも変わらない。はん、要は内輪受けだろ、とポッケに手を入れ、肩をそびやかしたい気分が安田にあった。
 ところが実際に参加してみたら、珍しかったり面白かったり可笑しかったりで斜に構え切れない。なんなら普通に溶け込もうとしている自分がいた。
 冷笑主義は世の中の仕組みという仕組みを看破した人物が右往左往する民草を高みから見ているようで最高に格好いい——。思春期の安田はそう思った。十数年のときを経た現在は、むしろダサいと思うようになっている。なんでもすぐに分かった気になること、あらゆるものを見くびってびんしようと嘲笑とを混ぜ合わせた薄笑いを浮かべること。
 冷笑主義の格好よさなど、安田のなかでは、いまや梅干しの種ほどの大きさだった。だけどもその中心に天神さまがいるようなありがたさがなかなか消えない。
 ゼリーみたいにぷるぷる揺れる自己評価同様、我ながらうつとうしい。一皮けたい、と、切に思う。だからここ小樽までやってきたのかもしれない。

ここから先は

9,916字

《読んで楽しむ、つながる》小説好きのためのコミュニティ! 月額800円で、人気作家の作品&インタビューや対談、エッセイが読み放題。作家の素…

「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!