矢月秀作「桜虎の道」#004
第3章
1
池田孝蔵は西新宿の高層ビルを訪れていた。五十階のワンフロアを貸し切っているのは、警備会社〈アイアンクラッド〉だ。
社内に通された孝蔵は、奥の社長室に案内された。
一面ガラスの窓からは、新宿のビル群と街が一望できる。左手には執務机があり、中央の広いスペースにゆったりとした応接セットが置かれていた。
孝蔵は腰が沈むほどのソファーに深く座り、もたれ、脚を組んだ。
対面には、目鼻立ちのはっきりした細身で長身の男がいた。少しパーマをあてた髪をラフな感じで横に流し、体形にフィットしたスーツを身に着けている。
組んだ脚は膝下も長くすらりとしている。モデルのようだった。
「なるほど。その桜田という男から、預かり証を奪って、木下義人の秘密証書遺言を取ってこいというわけですね」
男が言う。
「そういうことだ。頼めるか?」
「難しい話ではないですが、報酬次第ですね」
「これでどうだ?」
孝蔵が指を一本立てる。
「千ですか?」
「いや、百なんだが……」
孝蔵の笑みが強ばる。
と、男はふっと笑った。
「冗談ですよ。春人社長には仕事も回してもらっていますから、実費で結構です」
相手を包み込むような柔らかい笑顔を見せる。ルックスがいいだけに雰囲気もあり、ふっと気持ちを持っていかれそうになる。
しかし、うっかり気を許すと、骨の髄までしゃぶられる。
目の前にいるのは、アイアンクラッドの代表取締役社長、平尾皇成だ。都会のギャングを恐怖で支配したレインボーギャングのリーダーと噂される男だった。
初めて平尾に会ったのは、孝蔵がまだ美佐希と結婚する前、投資コンサルタント会社を経営していた頃だった。
投資コンサルといっても、高い金を取ってセミナーを開き、参加料で稼ぐといった類のもので、セミナーを受けた者が儲けられるわけではなかった。
今の情報商材販売と似た手口だ。半分、詐欺でもある。
そのため、高額セミナーを受けた者の中には、騙されたと騒ぐ者もいて、一時期、脅迫をされ、セミナーの開催も危ぶまれる事態にまで追い込まれたことがあった。
そこで警備会社を探していたところ、知人から紹介されたのがアイアンクラッドだった。
当時、まだ二十代の若者だった平尾と会った時、レインボーギャングのリーダーだったという噂は、ただの都市伝説だと感じた。
平尾に威圧感はなく、見目のいい若者だとしか思わなかった。
従業員や幹部には、目つきが悪く、タトゥーを入れている者も多い。口を利いただけで刺してきそうな雰囲気の者までいる。
そうした猛者をよくまとめているなと感心するほどだった。
だが、付き合いを続けていくうちに、平尾の本性が見えてきた。
セミナーへの脅しは時々あったが、実際に会場へ姿を見せる者はいなかった。
しかし、念のために、アイアンクラッドに警備を依頼した。
当時はまだ、平尾を含め、十人程度で警備を行なっていた。平尾は警備員の服を着たマネキン人形のようだった。
会場を訪れる、特に女性客にはウケがよかったので、平尾をそのまま出入口に置いていたが、ある時、本当にセミナー中に怒鳴り込んできた者がいた。
四十代のサラリーマンで、柔道や空手の心得がある者だ。体も大きく、声もデカい。
男は強引に中へ入ろうとした。その前に、平尾が立ち塞がった。
頼りなげだった。
平尾は後ろ手でセミナー室に続くドアを押した。男の怒鳴り声だけが響き、ドアがゆっくりと閉まった。
瞬間だった。
男の怒鳴り声が聞こえなくなった。廊下で何が行なわれているのかわからないが、少しバタバタとした音が聞こえた後、静かになった。
参加者たちも、不安げにドアの方を見つめていた。
と、平尾が入ってきて、参加者たちに笑顔を向けた。
申し訳ありませんでした。彼とは別室で話し合いをしますので、ご安心ください。
透き通るような声と爽やかな笑顔に、参加者たちは安堵の笑みをこぼし、その後、セミナーは滞りなく終わらせられた。
参加者が帰った後、孝蔵は平尾に訊いた。
男はどうしたのか、と。
平尾は、確認しますか? と言い、孝蔵と地下の駐車場に降りた。
警備員たちが乗る大きめの黒いワゴンがある。平尾は孝蔵を連れて行き、後ろのスライドドアを開いた。
男は手足を縛られ、口に養生テープを巻かれて、後部シートに寝かされていた。顔は原形がわからないほど腫れ上がり、テープの脇からは血が溢れている。
男が顔を起こした。平尾を認めたとたん、男はくぐもった悲鳴を漏らし、目を引きつらせた。
平尾から逃げようと、反対側のドアの方へ芋虫のように動く。
助手席や三列目シートにも警備員たちがいる。しかし、男が怯えていたのは、間違いなく平尾だった。
何をしたんだ、と孝蔵は訊いた。
話し合いですよ、と平尾は答え、男を見やる。そうですよね、と男に言うと、男は震えながら何度も何度もうなずいた。
とても話し合ったとは思えない光景だったが、孝蔵はそれ以上、何も訊けなかった。
平尾は、あとは任せてくださいと言い、男をどこかへ連れ去った。
男は今も行方不明だ。
不気味ではあるが、警備の腕は本物だった。
美佐希と結婚し、春人が設立したSEPの手伝いをするようになった時、警備要員としてアイアンクラッドを紹介した。
アイアンクラッドは、従業員三十名ほどの会社に成長していた。
さらに、SEPと組んでからは、会社の規模がどんどん大きくなり、今では従業員二百名を超える、東京証券市場に上場を果たした株式会社となった。
上場したものの、五十パーセントを超える筆頭株主は平尾で、会社の株価が上がるほど、自分が儲かる。
また、おそらくだが、株価を操作したようで、アイアンクラッドの株価は右肩上がりに伸びていた。
今や、平尾はそこそこの資産家でもあった。
「で、いつまでに済ませればよろしいですか?」
平尾が訊く。
「なるべく早い方がいい」
「SEPの資金繰りの関係ですか? よろしければ、うちでお貸ししますよ」
笑顔で言う。その笑顔に鳥肌が立つ。
「今は大丈夫。その時は頼むよ」
孝蔵は差し障りのない返事をした。
「本当に大丈夫ですか? 僕の耳には、SEPは火の車で、春人社長の吉祥寺のビルも抵当に入れられているという話も入ってきていますが」
平尾は脚を組み替えた。
孝蔵が思わず、渋い顔をする。平尾は笑みを崩さない。
「池田さん。経営コンサルタントとしてのあなたと話をさせてもらいますが」
平尾はまっすぐ孝蔵を見つめた。
「うちも大きくなって、このフロアが手狭になってきてましてね。自社ビルでも持とうかと役員と話しているんですよ」
「まさか、吉祥寺のビルを渡せと?」
孝蔵の片眉が上がる。
「銀行の融資分を肩代わりして、相場の二倍で買い取ります。SEPも、よろしければ、池田さんの会社も入居してください。家賃はいりません」
「何を考えているんだ?」
孝蔵は怪訝そうな目を向けた。
平尾は笑顔を崩さない。
「春人社長や池田さんのおかげで、僕らもここまで大きくなれました。せめてもの恩返しにと思いまして」
平尾が言う。
その言葉を額面通りに受け取ることはできないが、疑う理由もない。
平尾の言うとおり、アイアンクラッドはまだまだ成長途上の会社だ。自社ビルを構えて、もっと大きくしようという話はわかる。
会社が成長するとなると、吉祥寺駅前という立地を考えれば、春人の借金を清算して、相場の倍で買い取っても、損はないのかもしれないが……。
「それとなく、春人社長に話しておいてもらえませんか。僕の方はいつでも、春人社長さえよければ、買い取らせていただきますので」
「まあ、タイミングを見てな」
「お願いします」
平尾が脚を解いて頭を下げた。
孝蔵は薄気味悪さを感じつつ、平尾を見つめた。
ドアがノックされた。
「社長、失礼します」
ドアが開き、坊主頭の大柄の男が顔を出す。
平尾の側近で副社長の沢井泰司だ。筋骨隆々で目もぎょろっとしていて、眉尻の切り傷も相まって、対峙するものを威圧する。
「じゃあ、俺はこれで」
孝蔵が立ち上がった。
沢井は孝蔵に一礼した。孝蔵はうなずき、そのまま社長室を出た。
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