第三信「追跡の手がかり」(文・池内さん)
ご無沙汰しております。池内です。
先日私は、ダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー』に隠した暗号について、冒険的な解釈を述べました。しかし、前回お伝えした観測記録は、あくまでもデフォー自身の人生や当時の時代背景といった「物語の外側」にある要素から推測したものに過ぎません。そこから得られた「仮説」を検証するためには、作中で綴られた言葉それ自体との整合性について考えてみる必要があるはずです。
そこで今回は『ロビンソン・クルーソー』の作中、物語の内側にある断片から、私の「仮説」を検証してみたいと思います。
『ロビンソン・クルーソー』という作品の大部分は、感情を押し殺したような分析的、定量的な筆致で描かれているように感じられます。それはまるで、感情や主観を極力排除するというルールが、作品世界のどこかに存在でもしているかのようです。
一方で、『ロビンソン・クルーソー』の作中には、しばしば、デフォー自身の内面の吐露であるとしか考えられないような、極めて饒舌で直情的な言葉もみられます。
小説というよりむしろ報告書のような無機質な描写のなかに時折紛れ込む饒舌な語り、これは一体何を意味しているのでしょうか?
『ロビンソン・クルーソー』を何度も読み返すうちに、私はこうした語りの内容やその背景に、ある種のパターンがあるように思えてきました。
もし、そのパターンが単なる偶然や気まぐれではなく、何らかの必然性を持つものであるとすれば、それはデフォーが『ロビンソン・クルーソー』に込めた謎の輪郭を示しているはずです。
つまり、時折姿を現す「饒舌な語り」のパターンを注意深く観測することで、デフォーが『ロビンソン・クルーソー』に託した謎の姿が浮かび上がってくるのではないか……。
以下、『ロビンソン・クルーソー』の記述を引用しながら、「追跡の手がかり」を辿ってみたいと思います。
まずは物語の冒頭、船乗りになろうとするロビンソンを彼の父親が諭すシーンです。
身も蓋もない表現で、繰り返し繰り返し、くどいほどに「中産階級」という身分の有難みを噛んで含める様子は、老成した大人の分別を感じさせるとともに、どこか超然として冷たい印象を受けます。肉親への愛情というよりは、自分の経験や確信の正しさを論証しようとしているかのようです。
そして、ロビンソンの父が説く「安楽と充足」は、デフォー自身が何度も手にしていながら、その都度捨て去ってきたものでもあります。
デフォーの本心は、むしろ父が否定した「秘めたる野心」ないし「のっぴきならない状況」に身をゆだねることを良しとしていたはずなのです。
ロビンソン(に仮託されたデフォー自身)の本質を頭から否定し、自分の正しさを論証しようとする父の言葉。
滑稽なまでに、これでもかと誇張された表現は、むしろその言葉の強さゆえに、若者が持つ「海への憧れ」(これは、デフォー自身の野心と同じものだと言ってよいでしょう)を押さえつけることの困難さを暗示しているようにも思われます。
次は、ロビンソンが19歳で家を飛び出し、初航海に臨んだ際の一節です。
出港直後に嵐に遭遇し、恐怖と船酔いですっかり参ってしまったロビンソンは自分の愚かさを呪い、生きて帰れたならば必ず父親の助言に従って生きようと誓います。しかし、その誓いは長くは続きませんでした。
ご覧の通り、父の言葉とは逆に、極めて率直で自由、歯に衣着せぬ豪快な文章です。おそらくこれがデフォーの本心なのでしょう。
「ものの一週間足らずで、良心の呵責に対して見事に勝利を収めた」あるいは「反抗したい盛りのどんな若者と比べても、見劣りしないほど見事に良心を欺いた」といった書き振りには、現代的な表現でいえば「痛々しい」若さが極めて艶めかしく表現されています。
18世紀の小説でありながら、どこか森見登美彦氏的な筆致といえるかもしれません。
三番目は、ロビンソンが初航海で難破し、九死に一生を得てロンドンに辿り着いた際の一節です。
物分かり良く振舞うことへの違和感や嫌悪感、そうした小賢しい正解を嘲笑うことの快感と優越感、その優越感を隠さない姿勢。こうした「中二病」的な特徴もまた、デフォーという人物を成り立たせていた核の部分なのでしょう。
「当時を振り返るとき私は常々そう思う」などと他人事のようにサラリと言ってのけていますが、デフォー自身は死ぬまで中二病だったという事実を知ってしまうと、過去を反省しているというよりも、当時を懐かしんでいるようにしか見えません。
「#別冊文藝春秋」まで、作品の感想・ご質問をお待ちしております!