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第一信「旅の支度」――『ロビンソン・クルーソー』再読(文・池内さん)

WEB別冊文藝春秋

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 私はいま、何年振りかで『ロビンソン・クルーソー』を読み返しています。

 デフォーの『ロビンソン・クルーソー』自体は過去に読んだことがある作品ですが、いま私の手元にあるのは2018年8月に光文社から出たばかりの新訳版(唐戸信嘉・訳)なので、また新鮮な気持ちで読み直すことができそうです。

 光文社の古典新訳文庫は、古典らしくない前衛的な表紙デザインが特徴的で、書店の棚でもひときわ目を引くシリーズです。なかでも私は『ロビンソン・クルーソー』の表紙が妙に気になっていました。

 その表紙絵は実に単純な、毛羽だった黄緑色の線のみで描かれていて、一人の人物が左手に何かを抱え、右手で鞭のような道具を振るっているように見えます。一見しただけでは、この図柄が何を意味しているのかを推測することは困難に思えます。

 しかし私にはそれが、太古の文明が残した未解読の象形文字のように見え、その瞬間、さまざまな想像が頭の中を駆け巡るのを感じました。

 本というものは、一度読み終えて何年も経ってから読み直したとき、思ってもみない発見や新たな感動があったりするものです。
 時の経過と新たな翻訳が、思いもよらない発見をもたらしてくれるかもしれない……そんな思いから、私はこの本を手に取ったのでした。

 有楽町の書店を出て、駅までの道すがら表紙をめくると、英語の原文で‟ROBINSON CRUSOE / 1719 / Daniel Defoe”と書かれているのが目に入り、さらに出版時につけられたとてもとても長いタイトルが続いていました。

 小説の本文にたどり着くまえに、すでにCRUSOEという綴りの奇妙さに興味を惹かれ、同時に初版の出版年が約300年前、1719年であることに改めて驚くのです。

 また、原著には著者としてデフォーの名はなく、「ロビンソン・クルーソー本人による手記」という体裁がとられていたことも、そのタイトルから読み取ることができます。

 少し長いですが、当時のタイトル(和訳)を書き写しておきましょう。

船が難破し、ただ一人生きて陸にたどり着き、
オリノコの大河の河口近く、南米大陸沿岸の無人島で
二十八年の歳月をたった一人で暮らした、
ヨークの水夫
ロビンソン・クルーソーの人生
および驚嘆すべき冒険の数々
そしてまた、その後、奇妙な経緯により
海賊に助け出された事実の記録

本人著

 タイトルでありながら極めて饒舌な筆致、その「アオリ」の現代性もさることながら、「事実の記録 本人著」と謳うあたりには、本のセールスを気にする出版社の事情が見え隠れしています。

 続く序文では、「この話の語り手は、控えめかつ真面目であり、賢明な人々がいつもそうするように、遭遇した出来事から人々のためになる教訓を引き出すべく努めている」とか、「ここで述べられていることは、事実の正確な記録であると編者は信じる」といった記述まであり、あくまでクルーソー本人が語った実話であるという点が再三強調されているのです。

 これほどの大作、名作であるにもかかわらず、なぜ著者であるデフォーは堂々とその名を名乗ることをしなかったのでしょうか?
 デフォーは当時、作家というよりも政治的な活動家やジャーナリストとして著名な人物だったといいます。今となっては確認のしようもないことですが、ひょっとすると彼は過去の著述の経験から、一人称の視点で描かれた「事実の正確な記録」にこそ魂が宿るのだと考えていたのかもしれません。
 あるいは、18世紀初頭の英国では、小説をフィクションとしてありのままに楽しむという文化が、まだ存在していなかったからだとも考えられます。

 つまり、筆者の空想から編まれたフィクションは、いわば「根なし草」あるいは「夢想」であって、その価値は「事実の正確な記録」に比べて一段劣るものである。そうした漠然とした思い込み、あるいは固定観念が、当時の英国社会を覆っていたとすればどうでしょう。

 デフォー自身は、小説ないしフィクションの価値を信じていたが(いやむしろ信ずればこそ)、その価値の本質を損なわないために、敢えてこれに「ロビンソン・クルーソー本人による事実の正確な記録」という衣を被せたと考えることもでききるのではないでしょうか。

 現実には、デフォーの「夢想」は300年もの歳月を生き残りました。初めて世に出てから300年の歳月を経てなお、遠く離れた異国の地で新たに翻訳し直され、書店の棚に並ぶ本などそうあるものではないでしょう。
 このページの先には、300年もの間多くの人を魅了し続けた「何か」、そしてまだ私が見落としている「何か」が眠っているに違いない。

 その時、私はふと思ったのです。『ロビンソン・クルーソー』の実態がファンタジーであるとしても、想像の世界を机上で冒険することは「現実に」できるのではないかと。
 私の仮説によれば、良い物語には必ず、その中心に現実と通底する原理のようなものが含まれています。それは人の心理の動きだったり、地理や気象や自然科学的な要素であったり、社会的な問題であったり、その他さまざまなものであり得るわけですが、その「原理のようなもの」が具体的に言語化されることによって、現実の世界と響き合うという現象が起きるはずではないか。
 読書が「机上の冒険」であるとしても、その内なる「原理のようなもの」を見出して書き記し、それを誰かに伝えること(今後、このような作業を「観測」と呼ぶことにしましょう)ができたならば、本来フィクションであった小説は本の世界を飛び出し、数多くの読者を巻き込んで、現実の物語の一部となるのかもしれない。

 つまり、ファンタジーはその読者により「観測記録」が記されることによって現実に組み込まれる。
 これはここ数年間の私の読書経験から得られた仮説であり、この仮説の成立過程には『熱帯』という作品が深く関わっているのですが、ここでこの点について深入りすることは避けることにします。

 結論からいえば、私はここで上記の仮説を自ら証明するべく、ファンタジーを「観測記録」として具現化する装置、つまり「観測者」たらんことを望み、その決意と覚悟をここに宣言するのです。

『熱帯』が佐山尚一による『千一夜物語』とその世界の観測記録だとするならば、これから私が書いていく手記は、私自身による『ロビンソン・クルーソー』世界の観測記録です。少々乱暴に表現すれば、それは『熱帯』と同じ起源を持つもの、つまり『熱帯』の異本となるものだと言えるでしょう。

 ……深入りは避けるといいながら、少々熱くなり過ぎました。これでは何のことか分かりませんね。しかし『熱帯』との関係については是非、ここで最初に述べておきたかったのです。この長い手記を読み進める過程で、あなたは私がここで予言したことの意味を知ることになるでしょう。

 前置きが長くなってしまいましたが、私は今日から、愛用のノートに読書メモを記しつつ、『ロビンソン・クルーソー』の世界を再発見していこうと思います。そして今回の「観測」作業については、いままで見落としてきたような些細な発見や違和感、気づきを見逃さず、そのつど納得がいくまで「寄り道」をしながら進めていくつもりです。

 私が「寄り道」を大切にする理由については思うところがあり、いろいろ説明を考えてみたのですが、どう工夫してもかなり冗長な話になりそうです。この点については、必要が生じた時点でおいおい語っていくことになるでしょう。

 これは長い旅になる予感がします。
 この船が目的地の港にたどり着く保証はありません。
 難航が予想される旅ですが、しばしお付き合い頂ければ幸いです。

 吉報をお待ちください。

第一信・了
[次回: 2022年3月はじめに更新します]
看板イラスト:内山ユニコ

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