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ピアニスト・藤田真央エッセイ #47〈異次元の演奏――ルツェルン音楽祭〉

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 翌9月2日。ゆっくり起床し、朝10時過ぎに会場入りするとすぐさまステージへ向かう。ここで私を待ち受けていたのは、有難いサプライズだった。なんと、KKLのスタッフが去年の公演時に使用したピアノの機種を覚えてくれていたのだ。私はきらきらと音の飛びやすい新しいピアノより、味のある古いピアノを好む。彼らは前回私がセレクトしたものと同じピアノを既に会場にセッティングし、笑顔で迎えてくれた。このステージへの想いが、私の片思いでなかったような気がして嬉しく、俄然張り切ってリハーサルに臨んだ。

 今回、通常の公演と異なるのは開演時刻が16時であること、そして休憩がないことだ。つまりは一時間、ノンストップで演奏しなければならない。この日の演目はショパン《ポロネーズ 第1番 作品26-1》《ポロネーズ 第2番 作品26-2》《ポロネーズ 第3番 作品40-1》《ポロネーズ 第4番 作品40-2》《ポロネーズ 第7番 作品61》、そしてリスト《ピアノ・ソナタ ロ短調》。普段このプログラムの公演では、休憩を取った後に30分間にわたる大曲のリスト《ソナタ》に挑んできた。
 インターバル無しの条件のもと、ポロネーズ群から継続してエネルギーを放出できるのかが心配だ。ただでさえ、檜舞台ルツェルン音楽祭での演奏となるとプレッシャーのレベルが違う。今年の本音楽祭においてKKLホールにてソロリサイタルを行うのは、サー・アンドラーシュ・シフ、ヴィキングル・オラフソン、ダニール・トリフォノフ――そして藤田真央。私なんぞがこの豪華な布陣に入り込んでしまった。極度の緊張から固形物を胃に入れることが困難で、旅のお供アルファ米おにぎりにも手をつけられず、ただただ緑茶を流し込んでいた。

 さあ、いよいよ開演時刻だ。袖から舞台へと上がると、広々としたステージの真ん中にピアノがポツンと一つ、360度お客さんに囲まれている。昨年はオーケストラ公演だったため、舞台上にはオーケストラ団員、指揮台にはシャイーが居た。しかし今回はただ一人きりで最後まで戦い抜かなければならない。いつものように、握りしめていたタオル生地のハンカチをピアノに置き、勢いよく最初のポロネーズを弾き始めた。

《作品26》と《作品40》はどの曲も繰り返し指示が書かれている。同じフレーズでも、それぞれ異なる音色や表情、雰囲気を引き出すよう試みた。それが今回のピアノでは大成功し、どの瞬間もどの音も尊く、私の思い通りに如何様にも変貌を遂げていく。
 真骨頂は《幻想ポロネーズ》だ。この作品はショパンのポロネーズ作品群の中でいかに異質であるか。主音がなかなか現れないことでもたらされる浮遊感の漂う曲全体に、生き生きとしたポロネーズのリズムが散見される。ポロネーズという舞曲を凌駕し幻影の世界でもって丸め込んでしまったのだろうか。

 複数のポロネーズを年代順に演奏して発見したことがある。ショパンは「ポロネーズという舞曲を書く」という当初の目的を達成し、次第にポロネーズの書法を会得し、終いにはそのリズムとキャラクターを下敷きにして新たなテーマ「幻想」を描き出している。つまりポロネーズという文法を自身の引き出しに加えることに成功したショパンは、それを効果的に使って幻想曲を書き上げた。ショパンがポロネーズに向き合った果てに開拓した境地を、この日は説得力をもって表すことができたように思う。

 ポロネーズを演奏後、一旦舞台袖に帰り、一つ深呼吸をして再びステージへ戻る。次に待ち構えているのは懸念していたリスト《ピアノ・ソナタ ロ短調》だ。

 この曲の最初の一音目の「ソ」を絞り出すのには相当苦労した。たった一音で、会場の雰囲気を一変させなければならないのだ。正確に説明するならば、これは三オクターブにわたる三つの「ソ」のユニゾンである。私は左手の一番低い「ソ」を主軸にして、右手の上二つの「ソ」を倍音によって響かせるように弾いた。まるで無の中から誰かがその音を囁くように奏でるのだ。ここで右手の一番高い「ソ」を主軸にしてしまうと、より現実的な音色になってしまうし、はたまた真ん中の「ソ」を中心にしてしまえば響きを揃えるのが技術的に難しい。加えて「ソ」はこの後3回繰り返される。同じ音とてそれぞれ意味合いが異なるし、最大限の表現をせねばならない。しかし演奏家泣かせなことに、付された強弱記号はppである。
 情けないことに、この日もがきながら出した最初の「ソ」は不完全な形で発せられてしまい、2回目の「ソ」を弾く瞬間、手汗脇汗が一気に溢れ出たことを感じた。頭が真っ白になり、直後の四分休符の時間は無限に感じるほど長かった。しかし3度目の「ソ」は、思い描いた通りの音が出てきて安堵した。

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