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ピアニスト・藤田真央エッセイ #48〈いちばん楽しんでほしかったひとは――初の中国ツアー〉

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『指先から旅をする〈愛蔵版〉』

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〈豪華特典〉
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 指先から旅をする、といってもどこへでも好き放題に出かけられるわけではない。たとえばビジネス目的での入国に厳しいアメリカ、ロシア、そしてこのたび訪れることになった中国ではビザが必須である。ビザ申請のためにおもむく大使館では、いつも圧迫感を覚え、ストレスが募る。今回も、ベルリンの強い日差しに汗を滴らせながら、高身長のドイツ人たちに囲まれて在独中国大使館の列に並んだ。無事にビザを手に入れ、晴れて中国へ入国できる資格を得たわけだが、現地空港にて厳しい入国審査を受けるのかと思うとまた憂鬱になってしまう。ちょうど福島第一原発の処理水問題で日中関係に緊張が走っていたこともあり、もしかしたら私は別室で拘束、なんてことになってしまうかもしれない。指先から旅をするにも、政治からは逃れられないようだ。

 2023年9月上旬にルツェルンでの演奏を終えたその足でジョージア・ツィナンダリに向かい3公演、さらにイタリア・パドヴァでの3公演を盛況のうちに終えた。その後すぐに、中国でリサイタルツアーを行うため、いざ飛行機に飛び乗った。
 中国を訪れるのは、プロ・ピアニストとしてキャリアをスタートさせてからは初めてだ。新しい出逢いにワクワクする反面、6日間で5公演という強行スケジュールに不安を感じてもいた。

 食事や言語のことなど、心配ごとは尽きない。高校生の頃、私はマカオにほど近い珠海ジユハイで行われた国際コンクールに参加し、優勝のご褒美として同地でコンツェルトを演奏したことがあった。その際は母親と現地に2週間弱滞在したのだが、母が毎朝食べていたオムレツの卵の衛生状態が悪かったらしく、集団食中毒に当たってしまったのだ。一人で海外の病院など行けない母が部屋でもがき苦しんでいたのを今でも覚えており、軽いトラウマである。
 広州グアンジヨウへ到着し、入国審査を行う。悪いことをしているわけではないのに、いつもこの瞬間はナーバスになる。しかし処理水問題の影響もなく、ものの数秒でパスポートにスタンプが押され、私はすぐに解放された。拍子抜けしつつ到着口を出ると、そこには今回の中国ツアーの全行程に付き添ってくれるワンさん(彼女はこの後も度々登場するので覚えておいてください)が❝Welcome MAO❞のボードと大きな花束を手に待っていてくれた。特別なお出迎えに高揚しながら、用意された豪華な車に乗りホテルへと向かう。私は普段あまり契約書を読むさがではなく、言われるがままにサインしてしまうが、今回の契約書には「飛行機はすべてビジネスクラス、滞在先は5つ星ホテル、車移動は運転手付き」と記されていたため、二度見どころか三度見、四度見、いや九度見ほどしてしまった。その契約書はもちろん嘘ではなく、何不自由ない愉快適悦な旅が始まったのだ。


 9月25日、初日は時差ボケに抗えず朝まで眠ることができなかった。AM6時に食事を摂って寝てしまうという昼夜逆転ぶりだ。しかしこの日の夜に公演が控えているため、どうにかして体をいやさなければならない。するとワンさんが昼食を手配し部屋まで運んできてくれたではないか。お陰で私はベッドから一歩も動かずとも高層ホテルの窓から景色を眺めつつ腹ごしらえすることができた。至れり尽くせりとはまさにこのことで、極端な貧富の差が存在するこの国で華やかな「富」の洗礼を受けた。そしてまた、度が過ぎた富は人をダメにさせることを初日にして痛感した。

 午後に会場へ向かう道中で、ワンさんに中国のクラシック音楽事情を聞いてみた。彼女いわく、徐々に発展しつつあるが、スポーツほど国民的なものではないという。だが最近は30~40代のお母さんが小さい子供を連れてコンサートを訪れる光景をよく見るとのこと。だからこそ、今回の私のショパンとリストのプログラムは、クラシックに聴き馴染みのない人たちにはありがたい選曲だと喜んでくれた。そして彼女は、「中国の観客はあまりマナーが良くないかもしれないけど嫌いにならないで欲しい」と続けた。なるほど、私も客としてあやまちを犯した苦い過去があり、比較的寛容なスタンスなので問題ない。
 そんな現地の様子を聞いて、今日は自分の音楽に執着しすぎず、その場の雰囲気を大事にして、求められている音楽にふさわしい表現をしようと考えた。実際、広州公演のお客さんはよく音楽に集中していて、私自身も演奏に没頭することができた。極度に緊張したり臆したりすることなく、ナチュラルに曲の有り様を伝えられたと感じる。会場は大盛り上がりで、アンコールでは指笛まで鳴り響いた。

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