ピアニスト・藤田真央エッセイ #46〈憧れの大舞台が‶ホーム”に――ルツェルン音楽祭〉
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まだヨーロッパでのキャリアの浅い私は、生まれて初めて訪れる土地で公演を行うことが多い。常に異邦人として旅する心細い日々の中、稀に「ただいま」と見知った場所を訪れると、オアシスの恵みを見つけたように感じる。
2023年9月2日、100年近い歴史を誇る、伝統あるルツェルン音楽祭で2度目の公演を行うこととなった。昨年は協奏曲のコンサートだったが、今年はリサイタルでの登場となる。音楽祭の芸術主幹ミヒャエル・ヘフリガーが、昨年のリッカルド・シャイー指揮、ルツェルン祝祭管との演奏を高く評価してくれ、公演からそれほど日が経たないうちにリサイタルのオファーを頂いたのだ。
昨年のあの演奏、そしてあの時間は、私の中で今もなお特別な感触と温度を保っている。そんな思い入れのある舞台にもう一度立てると思うだけで胸がいっぱいだ。喜びと期待をキャリーケースに詰め込み、私は公演前日にルツェルンへ旅立った。
しかし、もはや定番の趣すらあるが、またしてもベルリン―チューリッヒ間のフライトが遅れている。この日の晩は音楽祭のメインホールKKLにてヘルベルト・ブロムシュテット指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるブルックナー《交響曲第7番》を聴く予定だ。なんとしても19時半の開演に間に合いたいが、飛行機の遅延のせいでルツェルン行きの列車を一本逃してしまった。慌てて次の電車に飛び乗ったが、ルツェルン駅に到着するのは19時24分。駅からコンサート会場まで、私には6分しか与えられない。
窓から見える景色に耽るはずが、悶々と「ブロムシュテット御大は高齢のため幾分開演時間が遅れてはくれまいか……」など一人考えているうちに、恋い焦がれた終点ルツェルンに到着した。コンサートが行われるKKLは駅からは目と鼻の先だ。だが音楽祭が用意してくれた列車の一等席は、駅の改札から一番遠い号車だった。私は映画「ホーム・アローン」さながら、大きなスーツケースを引いて駅構内を全力で走る。
改札を抜け、宝石箱のような湖畔の景色を一瞥する暇もないまま、荷物をホール受付に預けて首の皮一枚でどうにか入場できた。汗だくの私が客席に滑り込んだ時には、既にオーケストラがチューニングを始めていたため、息を整えながらただただ幸運を実感した。そうして私は遂に初めてマエストロ・ブロムシュテットのご尊顔を拝むことができたのだ。マエストロがコンサートマスターの腕を借りながら共にステージへと歩を進める姿はなんとも神々しく、すでにブラボーの声が会場中に響き渡っていた。
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