一穂ミチ「アフター・ユー」#004
夢か、それとも、俺の頭がどないかなってしもたんやろか。夢やとしたら、どっからや。
『青さん?』
受話器の向こうからは、確かに多実の声がする。ありえない。
『どうしたの? 何かあった?』
「多実」
そろりと口にした。通話相手が多実であると認めてしまった瞬間に、夢から覚めるとか、電話ボックスが消え失せて受話器を握ったままのポーズで青吾だけが間抜けに取り残されてしまうとか、何かが起こるのではないかと思いながら。
『うん?』
いつもと、今は戻れなくなった「いつも」と変わらない、のんびりとした多実の相槌が返ってきた。手足の先が、熱さとも冷たさともわからない感覚で痺れる。心臓の鼓動より、体内を流れる血のざーざーという音がうるさかった。空いた片手で電話機の本体を摑めばがっしり硬い。ちゃんと存在している。これは現実や。自分より多実の声より、この電話ボックスは信じられる気がした。
「……今、どこにおる?」
そろりと発した問いに、けろりと返ってきた。
『駅だよ? 何で?』
言われてみると確かに、誰かの話し声や、アナウンスらしきものが漏れ聞こえてくる。
『何かデパートで買ってきてほしいものあった? あしたでもいい? あ、催事で、おいしそうなさんまの棒寿司見つけて買っちゃった。日本酒も買えばよかったね。コンビニでいっか』
わけがわからない。多実が帰ってこなかった日から、ずっとだ。なのに多実の声で聞く「あした」という言葉だけは生々しく胸に刺さり、そこから寂しさがどっと漏れ出し潮のように体内に満ちて言葉が出なくなった。
『あ、もう電車来るから切るね。コンビニで要るものあればLINEして、じゃあね』
「多実、待ってくれ」
ぷつ、という断線の音。それから、ツーという発信音。送話口の細かな黒い穴を見つめる。電話というのは、こんなにも呆気なく、すべての気配が消えてしまうものだったか。受話器をフックに戻した途端、ピピー、ピピー、ピピー、ピピー、と甲高い音とともにテレホンカードが突っ返された。この狭い箱を突き抜けて静寂を破ってしまいそうな音量に思わず外を見たが、相変わらず人っ子ひとりいない。雨の筋が残る透明な壁には自分の間抜け面と二重写しになった闇夜がくろぐろと広がるばかりだった。
青吾はカードを引き抜き、再度挿入した。デジタルの残度数表示は『48』。減っている。少なくとも、どこかに繫がったのは確かだ。時報や天気予報相手に妄想の多実としゃべった可能性を考え、背すじが寒くなる。公衆電話だと発信履歴を確かめることができない。
もう一度、ゼロ、キュウ、ゼロ、と声に出しながら、ゆっくりとボタンを押す。押された回数がいちばん多いのはどの数字やろか、なんてのんきな疑問をなぜかうっすら抱きながら。
『おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません』
ああ、いつものやつや。その後も三回試したが結果は同じだった。カードを財布にしまって外に出ると、涼しい風が額を撫で、自分が汗をかいていたことに気づく。波音は聞こえなかったが、そこここから虫の声が耳をくすぐってくる。しっとりと湿った緑の匂い。絶対に夢ではない。でも現実であるはずもなく、さっきの通話をどう受け止めればいいのか、まだどんな感情も追いついてこない。「狐につままれた」とはこういう心境か。こんな田舎やったら、人を化かす狐や狸がおってもおかしない——いや、絶対おかしい。呆然としたまま車に戻り、運転席でしばし放心していたが、ふと助手席に目をやると、シートの上に砂粒が散っている。
瞬間、沙都子のことを思い出した。きっとあの白浜でひとりになった時、砂浜に座って海を見ていたのだろう。あかん、戻らな。車も、信号すら見当たらない道路を、必要以上に安全運転で走った。今、何より安全じゃないのはきっと自分だから。無事駐車場に帰還し、昼間の十倍くらい鬱蒼と感じられる小道を進めば、敷石の上に佇む沙都子の姿が、琥珀色のアップライトでぼうっと浮かび上がっていた。
それがあまりに、生命力を感じないほど儚く見えたので、とっさに「ひっ」と後ずさった。
「あ、すみません、驚かせてしまいまして」
また謝らせてしまった。猛然と自己嫌悪が押し寄せてくる。
「いえ、こちらこそ……さっきも、すんませんでした」
自分と沙都子はいわば同志のような間柄だから、改まった謝罪などは却って疎外感を覚えてつらいのだ、という心情をきちんと説明せねばと思うのに、こうして冷静になってしまえば、筋違いの憤りを沸騰させて飛び出した自分の独りよがりが恥ずかしく、青吾はただ「ご心配をおかけして」とうなだれるほかなかった。
「とりあえず、中に入りましょう。夜はさすがに肌寒いですね」
沙都子がキッチンで湯を沸かし、ティーバッグで何やら薄黄色いお茶を淹れてくれた。くさい、というわけではないのだが、鼻がむずむずしてくるような香りで、酸っぱいような苦いような、一概にまずいともうまいとも言えない妙な味だった。何やこれ。味わっている青吾も妙な顔をしていたのだろう、向かいに座った沙都子がくすっと笑う。
「もう遅いので、カフェインを避けてハーブティにしたんですけど、苦手な男の人が多いみたいですね」
「いや、まずいわけでは」
「夫も同じこと言ってました。『まずいとかじゃないんだよ』って。わたしが飲んでたら『俺にも』って言うくせに、いつも粉薬を飲まされる子どもみたいな顔して……それでちょっと腹が立って、知らんふりした時もあります。あれくらいのことで不機嫌になる必要なんてなかったのに」
沙都子がふっと目を細める。しみじみ振り返るほどでもなかったはずの些細なやり取りは日常が壊れてしまってから光り輝いて見えるし、後悔はいっそう苦い。そのまばゆさと苦さを、青吾もよく知っていた。
「川西さん」
「はい」
「さっき、謝られたくないっておっしゃいましたよね」
「はい」
「じゃあ今後、本当に一回も謝りませんけど、いいですか」
「はい」
「謝られたくないということは、謝罪の気持ちを抱いてほしくないということだと解釈して、川西さんや多実さんに申し訳ないと思うのもやめますけど、いいですか」
「は、はい」
「わかりました、ではそういうことで」
ここで時間を断つように、沙都子は宙で手刀を切る。「わたし、言葉をそのまま受け取りすぎてしまうんですよね。『お構いなく』とか『遠慮しないで』が地雷なんです。あっそうなんだ、と思ってそのとおりにしたら大抵叱られるか嫌われるか。今回はデリケートな問題につき、しつこく念を押しました」
「ああ……はい、大丈夫ですので」
つくづく、独特な人だと思う。でもこの、よくも悪くもまっすぐで正直なところに波留彦は惹かれたのではないかという気がした。本人には確かめようもないけれど。二口、三口と飲んでいるうちに、ハーブティの風味にも慣れてうまいと感じるようになってきた。でもたぶん、しばらく間を置いて飲めば舌の記憶がリセットされ、また「何やこれ」に戻るのだろう。馴染みきることはない味、とでもいうのか、波留彦も同じだった気がする。
ふしぎなもので、ことここに至っても波留彦への怒りや嫉妬心は湧いてこないどころか、淡い親近感さえ覚えている。もう生きてはいないだろうという諦めや哀れみが、感情の起伏に水を差しているのか、それとも。
母の顔が浮かぶ。と言っても、褪せたテレホンカードにある写真のように白くぼけて目鼻がはっきりと思い出せない。
あんなふうに、母のようになってはいけないと、無意識に自制してしまっているのか。
「さっきは、どちらに行かれてたんですか?」
沙都子の問いに口ごもる。公衆電話で多実としゃべった、なんて打ち明けたら、どんな反応が返ってくるだろう。正気を危ぶまれるのか、それとも、しばしば青吾が予想だにしない言動を取る彼女のことだから、あっさり「そういうこともあると思いますよ」と受け容れてくれる可能性は——……ないやろな。心配されるか気味悪がられるか、以外の選択肢はさすがになさそうだ。
「車で、適当に走ってました」
「いいですね、運転ができると。わたしも夜の道路をぶっ飛ばして気分転換とかしてみたいです」
「ぶっ飛ばしてはないです」
「当たり前ですけど高速道路もないし、東京みたいにいろんなとこに行けるわけじゃないですもんね。夜のドライブで何か発見はありました?」
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