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ピアニスト・藤田真央エッセイ#25〈完璧な響きの中で――ベルリン・フィルハーモニー・デビュー〉

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 ミラノの後はベルリンに帰り、4月1日のコンサートに向けて、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第3番》の練習に集中した。《第3番》は演奏する機会が非常に多いが、何度弾こうとも緊張する。毎回楽譜を丁寧に読みこまないと、ラフマニノフが細かく記したフレージングや強弱を忘れて、自分の好きなように気持ちよく弾きがちなので、自分自身を戒めながら練習に取り組んだ。

 リハーサルは公演前日の午前中で、GP(ゲネプロ:最終リハーサル)も同じ日の午後だという。本番の舞台上で初めてオーケストラの団員や指揮者とも会うというのは、些か不思議な感覚だったが、ヨーロッパではよくあることらしい。

 今回の会場はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、ベルリン・フィルハーモニーだ。紛らわしいがオーケストラはベルリン・ドイツ交響楽団との共演だ。

 私が中学生の時に初めて訪れたこのベルリン・フィルハーモニー、当時の音楽監督のサー・サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィルでシューマンとブラームスの《交響曲 第4番》を聴いた。会場の最後列に位置する立ち見席だったが、繊細なピアニッシモのピッチカートの美しさを今でも鮮明に覚えている。いつか自分もこの場所で弾きたいと熱望するのに時間はかからなかった。

 それから数年、早くもその夢を実現させることとなった。リハーサルで初めてフィルハーモニーの舞台に立ち、オーケストラとピアノの響きを楽しんだ。ベルリン・フィルハーモニーは世界でも珍しく五角形のホールで、チューバやトロンボーンなどが作り出す金管のハーモニーもはっきりと聞こえ、非常に立体的な響きがもたらされる。

 リハーサルが終わると昼食休憩を挟んでGPが始まる。昼食は舞台裏に位置するカンティーヌで各々食事をする。パンやフルーツ、ケーキは勿論、肉料理や揚げ物と野菜を組み合わせたランチプレートまである非常に充実した食堂だ。サントリーホールの裏にもこんな素敵なカフェがあれば良いのに。団員は長テーブルにずらっと並び、短い休憩時間に慌てて食事を済ませていた。私はポモドーロスープと豚肉のソテー、じゃがいもの付け合わせを急いで飲み込んだ。

 午後のGPはラジオ収録のリハーサルも兼ねていた為、この大曲をカデンツァも含めて通して弾かねばならなかった。非常に疲弊したが、今回は私にもドライバーがついているので、リハ、本番ともに家からフィルハーモニーまで送迎してくれる。疲労困憊した後もバスや地下鉄を使わず帰れるのはありがたい限りだ。

 本番当日はGPがないため調律が仕上がるタイミングで会場を訪れた。すると運命的な再会を果たした。なんと今回の調律師さんが、〈モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集〉のレコーディングを担当してくれた方だったのだ。久しぶりの再会に心が弾みつつ、しっかりとピアノに対する要望を伝えた。

 本番が始まり、満員(しかも、ステージ上にまで5列余りの客席を増設している)の観客に迎えられ、私はとうとうベルリン・デビューを果たした。演奏中一つ気になったのは、五角形をしたホールの設計故に、お客さんが様々な角度からこちらを向いているので、果たしてどこを向いて弾いているのか見失う瞬間があるのだ。真っ直ぐ向いているつもりでも、上を向くとステージの方向に斜めに座っているセクションや、私の真正面に座っている人と目が合ったりして、他のホールでは感じたことの無い不思議な感覚だった。

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