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ピアニスト・藤田真央エッセイ #26〈響きのないステージと傾いたピアノ――イタリア・ツアー始動〉

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「ニーハオ、ニーハオ」
 イタリア・ミラノの青空の下、大聖堂の近くを歩いていた私は見知らぬ黒人男性に声を掛けられた。しばらく無視していたが、「コニチワ、コニチワ」と片言の日本語に切り替えられたので、思わず足を止める。すると彼は「トウキョ? ホンダ、ナガトモ、私たちはフレンドだ」と親しげな笑みを浮かべ、私に腕を差し出してグータッチをしようとしてきた。何もそれくらいは断ることもあるまいと、私も腕を差し出す。その瞬間を待っていたのだろう。あっという間に私の手首にはミサンガが巻かれ、気付けば人通りの少ない路地に連れ込まれていた。すっかり声色を変えた彼は「ミサンガをあげたんだから」と、20€をせびってきた。やってしまった……私は心底落胆した。

 海外では常に気を張り、このような詐欺まがいの行為には気を付けていたつもりだったのだが、いとも簡単に引っかかってしまった。
この類の失敗は何度か経験したことがある。まだ10代だったころ、ある空港のフードコートで食事を終えて座っていると、大柄の男性が私の食器を片付けてくれた。こんな若者に丁寧に接してくれたことがうれしく、「Thank you」と連呼していたら、「Thank youはいらない、お金をくれ」と言われたのだ。あの時も非常に失望したものだった。

 さて冒頭の悪徳商法というか、自分の至らなさを突き付けられたのは4月21日、スカラ座に向かう朝のことだった。ちゃちなつくりのミサンガを手首から外してため息をつくも、落胆している暇はない。数十分後にはリハーサルが始まってしまう。
 今回は約1年ぶりのミラノ・スカラ座管弦楽団との共演。指揮はこの連載ではお馴染み、リッカルド・シャイーだ。今回私は彼らと共に5都市を巡るヨーロッパツアーのソリストとして迎えられた。コンサートは各都市で開催されるが、リハーサルはスカラ座管弦楽団の本拠地、スカラ座で行われる。
スカラ座は巨大な建物で、劇場の他にも複数のリハーサル室や舞台装置を収納する倉庫、衣装さんが働く裁縫室など沢山の部屋があり、オーケストラ団員、歌手、合唱団、舞台美術さん、衣装・メイクさん……などなど多くの人が出入りしていた。
 スカラ座の楽屋口のゲートでは、まるで東京駅の改札のように切れ目なく人が流れている。ゲートにはバレエダンサーの姿もある。入館パスをタッチしようと一瞬立ち止まった彼女の足元がハの字になっているのを私は見逃さなかった。

ミラノ・スカラ座

 リハーサルはスカラ座の6階に位置する「Sala prova orchestra」で行われる。この部屋は昨年シャイーと初対面を果たした場所だ。当時は未だコロナウイルスが猛威をふるっていて、スカラ座は感染対策に非常に気を配っており、入館者は2階に設けられた特設抗原検査場で陰性が確認されなければ劇場内を自由に歩けなかった。私はリハーサルを含めて3日間、毎日左の鼻の奥に細長い綿棒を入れられて、苦しみもがいた。最終日にはスカラ座へ入館する際に抗原検査を受けたあと、日本帰国時に必要なPCR検査をするために電車で30分の場所まで行った。ミラノの中心部には日本推奨のクリニックがなかったためだ。日本入国のためには細かく規定された方法でPCR検査を受けなければならず、それを現地のお医者さんに伝えるのに苦労したものだ。いつしか私の左鼻の奥も非常にスムーズに綿棒が入るようになっていった。

 そのようなことを思い出しているうちに、いよいよリハーサルが始まった。今回の演目は、1年前にもスカラ座管と共演した《ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番》だ。オーケストラによる前奏は2小節しかないため、私は慌ててスイッチを切り替えた。スカラ座管は明るくカンタービレに満ちた音色を持つ楽団で、非常にロマンティックなラフマニノフを奏でている。
 この日のシャイーはルツェルン音楽祭やコンセルトヘボウでのリハーサル時とはいささか様子が違った。彼は母語であるイタリア語で団員と親密に接し、一方で音楽創りにおいては容赦のない要求を繰り返した。例えば〈2楽章〉の冒頭の弦アンサンブルの場面では彼の求める音になるまで何度も演奏させた。また、ある木管楽器の音程がずれているときは、自分の耳に手を持っていき、その大きな耳たぶをつかむジェスチャーをしながら、燃え盛るような目力でピッチのずれを指摘した。だがリハーサルが終わると表情豊かに団員と談笑し、私はその飴と鞭の使い分けの巧みさに驚きつつも、彼がこれほどまでに求心力をもつ理由が分かった気がした。

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