朝倉かすみ「よむよむかたる」#008
喫茶シトロンの窓から店内を覗き込む若い女性。
安田が見咎めると、彼女は開き直ったように口を開いた。
七節で「ぼく」は三人のこぼしさまと話をする。彼らがなかなか姿を現わさなかったのは「ぼく」という人物を調べていたからだと知る。八節で時間は一年後に飛び、「ぼく」は就職を機に小山を正式に借りる。寝泊まりする小屋を建てるつもりである。さらに池も作りたいと小山の持ち主に申し出た返りがこの台詞だ。
「こいをかうんだな。こいはいいぞ」
マンマが読み上げると、クスクス笑いがさざ波のように立った。
「こいはいいよネェ!」
ひらいた本を胸にあてがい、マンマが言うと、シルバニアが呼応する。
「きすもなかなかどーしてですので!」
魚が喜ぶと書いて鱚、と意味ありげな口調で続けると、マンマが「女が喜ぶと書いて嬉しい」と応じ、おでこをくっつけ合うようにしてクックックッとやっていたら、
「しめすへんに喜ぶと書いて禧い」
蝶ネクタイも参加したのだが、マンマとシルバニアが「え」とちいさく声を揃え、なんか違うんですけど、という空気を発した。取りなすようにシンちゃんが空中に「糸」の字を書きながら、
「いとしいとしというこころ、で恋」
と言い、「旧字体、旧字体」と身を乗り出してノートに大きく「戀」と書き、安田に見せた。と、さっきスベった蝶ネクタイが、
「二階の女が気にかかる」
と「櫻」をノートに書き、満面の笑みで安田に「ネッ」とうなずくと、会長が入ってきた。
「しかばねに!」
と「尸」と指を動かす。
「水と書いて尿!」
みんなのリアクションが薄いので——安田も微笑んではいたが、とても急、というような戸惑いがあった——会長は焦れったそうに声を張りあげ、「しかばねに米と書いて屎、ヒをふたつ書けば屁!」とまさかの連続技を繰り出し、「寅さんですよ、寅さん。記念すべき第一作の」と元ネタを披露、憤然と腕を組み、「話にならない!」とふんぞり返った。蝶ネクタイが「致し方なし」のニュアンスで会長にアピールするように大きくうなずく。会長はフンッ、と強い鼻息を吐き、プイッ、とそっぽを向いた。蝶ネクタイが醸し出すスベった者同士の連帯感みたいなものを断固拒否したように見えた。少し下唇を出し、「んー」と歯を食いしばっている。
わりと見慣れた表情だった。けっこうな頻度で会長はこういう顔をする。安田は、つい脳内で会長の横に仮装大賞の審査パネルを置いてしまう。得点が加算され電子音とともにゲージの目盛りがあがっていくアレだ。15点に達するとファンファーレが鳴る。会長でいうと、キレるシーンである。
や、と安田は首を振りたい気分になった。会長の感情の抑えられなさを弄っているようで気が引ける。キレる会長を見るのは真実、嫌だ。安田はそもそも遠くの怒鳴り声でもキュッと身が竦むほうである。でもそんなことより会長の場合、興奮のあまりどこかの血管が文字通りキレて卒倒するのが怖い。胸が締めつけられる思いもする。会長は傷ついているのだ。おそらく一軍の人生を送ってきた人だろう。いわゆる陽キャで、こどもの頃からずっと人気者だったのではないか。リーダーとして集団を率いることに慣れていて、座持ちのよさ、仕切りのうまさにも自信を持っていそうである。だからこそウケなかったりスルーされたりすると大いに傷つくとともに忿懣ゲージがみるみる上がるのだろう。
「はあっ」
大きなため息が聞こえた。まちゃえさんだ。
「『こいはいいぞ』ってかい」
夢のなかを歩くような目をしている。マンマが読み上げた箇所で時間が止まっているようだ。
「明典がネ、美智留さんバ連れてきたのサァ。ウン、突然。や、ああゆう明けっぴろげな子だから友だち多くて、こどものときから誰か彼かウチに遊びにくるか泊まるかしててネ。ンッと、男の子も女の子もないんだワ、みんな一緒くたに友だちダァってね。さすがに女の子は明典の部屋でなくて客間で寝てもらったけどネェ。だからあの子が女の子のお客さん連れてきてもコッチは『ハイハイ』ってもんで、『いらっしゃい』って言って『なに飲むー?』なんてネ、訊いたりして。したら明典がいつものあの大きいからだに似合わないプクプクーとした童顔バそよ風サ吹かれたみたいにしてニコーとさして『母さん、おれ、この人と結婚するから』ってサァ、ほんっとに優しい、男らしい声で言ったのサァ」
胸に手をあて、そこを温めるように撫でさする。
「恋はいいネェ」
安田はゆっくりと視線を落とし、「……ああ」と思った。まぶたの裏にまちゃえさんの瞳が残っている。エモーショナルな思い出話をしているのに感情の色のない白濁した黒目である。「いいよネェ」「いい、いい」と同意の声をあげたのはマンマとシルバニアで、「ねー」と言い合い、お椀をそっと伏せるように口をつぐんだ。一呼吸置いて、さりげなく話題を変えようとしているようだ。
「ちょっとアンタね」
会長がふんぞり返ったまま腕を伸ばし、まちゃえさんを呼び寄せるような動きをした。
「なに言ってんの?」
ネェ、と、のっそりと上半身を起こし、
「自分がなに言ってんのか分かってんの?」
ネェ、ネェ、と尻上がりに声を荒く太くしていった。非常に小刻みに顔が揺れ、目の玉の力が凄まじい。耳から聞こえる自分の声に煽られ、怒りがみるみる滾っていくようだ。
「よくマァ、言ったシリからポンポンポンポンでまかせが言えるもんですネェ! えぇ? アンタついさっき言ったことドンガラガッチャァってナシにして、平気で違うこと言ってんですよ、ネェ、ネェ、分かってます? 分かってないでショ。分かってない顔してるもん、アンタはね、まったく分かってないの。だからまたドンガラガッチャァにして、平気の平左でスグ違うこと言いだすんですよ、そうでしょ? ネ?」
アーッくだらない、と会長は音を立てて背もたれにからだをあずけた。
「付き合わされる身にもなってくださいよ」
憤然と腕を組む。組んだ途端にほどき、かぶりつくように身を乗り出し、吠えた。
「コッチは先が長くないんダッ!」
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