【4夜連続公開】朝倉かすみ「よむよむかたる」#009
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5 冷麦の赤いの
夕方から立て込んで、店を閉めたのは夜八時すぎだった。
夏休み旅行がピークに差しかかる八月最初の金曜日。
客はツーリストがほとんどで、喫茶シトロンの店内ではちょっとしたお国訛りの競演となった。きっかけはサッちゃん。最初は関西弁の二人連れに「おおきに」と言ってみるくらいだったのだが、テーブルごとに「ありがとない」だの「だんだん」だのと教えられて広がった。「シェーシェ」の家族連れもいて、サッちゃんはそこん家の五、六歳の息子のツーブロックを「かっこいいね」と誉めていた。
美智留がやってきたのは、サッちゃんが退けるのと同時だった。玄関で顔を合わせ、「あらやだ久しぶり」、「元気だった?」とからだを入れ替え、立ち話をするふたりを安田はカウンターを拭く手を休めて眺めた。「ゆっくりできるの?」、「それがすぐ帰んなきゃなのよう」、「なにそれ束縛?」、「まさか。離れたくないのはコッチのほう」、「一瞬たりとも的な?」、「たりとも、たりとも」とげらげら笑い、「時間あったら遊びにきてちょ」、「LINEするねー」と手を振り合った。
「冷麦買ってきたよ」
美智留が北欧柄のエコバッグを掲げながら歩いてくる。大きく咲いたダリアのように笑っている。サッちゃんと話していた表情のままだった。
「ゆっくりできないって?」
訊くと、「弾丸よう」と答え、カウンター席に腰を下ろした。「ん」と安田にエコバッグを受け取らせ、シルバーのトートバッグからタブレットを取りだした。「早速?」と安田。美智留は「アイスコーヒー」と言ってから「ちゃっちゃとやっちゃいましょ」とタッチペンで画面を上げ下げし、「えっと、まずアナタが謎の熱意で導入したがってるソフトクリームメーカーについてなんだけど」と言った。「ソフトクリームはないんですか、ってしょっちゅう訊かれるんだよね」と安田が答え、オーナーと雇われ店主による、およそ十か月ぶりの直接ミーティングが始まる。
「おとぎばなしのおうじでも、むかしはとてもたべられない」
美智留が鼻歌しながら蛇口をひねった。寸胴に水を入れている。なみなみと張ったのを火にかけ、まな板を用意した。
「ネギ」
カウンターに置いたレジ袋を指差す。スツールに腰かけた安田が取り出して渡すと、「ありがと」と受け取った。ざっと洗ってダダダッと刻みながら訊く。
「どう最近?」
安田は瞬時に天井を仰ぎ、「だいぶ慣れたよ」とうなずき、顎を撫でた。
「この地に根を下ろしつつあるくらいだ」
「へえ」
美智留がからかうような目をした。「意外な展開」とつぶやき、刻んだネギを皿に移す。
「ペースができてきたんだよ。周囲に振り回されて——巻き込まれるだけでなく、こっちから首を突っ込んだりして、ぐんぐん面倒臭い状況になっていく中、ぼくは、なんと、かなりいい感じのマイペースを獲得しつつあるんだ。『マイ』すぎないマイペースというか」
安田は両手のひらを歩かせる身振りをした。
「ほう」
美智留は包丁の刃にくっついたネギを皿に落とし、「それは結構。こっちに引っ張ってきた甲斐があったよ。茗荷」とまたレジ袋を指差し、安田から受け取って「ありがと」と言った。
「こちらこそ」
ありがとうございます、と安田はわざとしゃっちょこばって頭を下げ、「ソフトクリームメーカーも」と言い足した。美智留の手元を見て、カウンターに生姜を置いた。
「気がきくじゃん、ありがと」クイッと眉毛を動かす美智留に言った。
「読む会ってさ、一月と八月は休みなんだってね。知らなかったよ、ノートに書いといてくれなかったから」
「あー……」
美智留は調理台の下の引き出しを開け、手探りで円形のおろし器を見つけ出して水洗いしながら答えた。
「かならずお休みするってわけじゃないんだよね。わたしがいたときは日にちをズラして集まってたけど?」
安田はかぶりを振った。
「おショーガツ月とおボン月はお休みだヨゥ、昔っからそう決まってんのサァ、って、真顔で言ってたよ、みんな」
「集まるのが億劫になってきたのかな。うーん、やはりお歳を召されてしまったかぁ」
コロナ期間の影響もあるんだろうなぁ、と美智留が生姜をすりおろした。
「……実はさ」
安田が声を低めた。
「先月の例会でちょっとあったんだよね」
「あったとは?」
あとアナタ生姜たっぷり派? と訊く美智留に「うん」と答え、安田は語った。
七月の例会は通常開催された。第一金曜の午後一時、喫茶シトロン集合だが、会員たちはいつものように三十分以上早く集まりだした。去年までの一番乗りはもっぱら会長で、「ヤァヤァ、どうも」といい声を響かせていたものだが、この頃では遅刻か、時間ギリギリにやってくるのが恒例となっていた。
この日もそうだった。集合時間を十五分過ぎても現れなかった。もうみんな慣れていて、「あと十五分待って来なかったら始めよっか?」、「ヤーもちょっと待ったほうがいくないかい?」、「会長の顔ば立ててやらないとってかい?」、「なんぼほど待つのサ?」、「一時間?」、「四十五分?」、「三十分?」、「んーじゃモー始めていんでない?」とガチャガチャやってたら、喫茶シトロンの玄関ドアが開いた。客だ。安田はすぐに立ち上がった。
「あーすみません」
四時まで貸切りなんですよ、と玄関まで歩いていって、ドアにぶら下げたプレートを指し示そうとしたら、客の女性が「いえ、違うんです」と顔の前で手を振った。
「大槻克巳の娘で、入谷と申します」
いつも父がお世話になっております、と頭を下げ、レジ袋を差し出した。会長さんの娘さんか、とレジ袋を反射的に受け取った安田が、ホタテの干し貝柱か、と手土産を確認しつつ、
「いえ、こちらこそいつもお世話になって……」
と挨拶し、訪問の用向きに思いを馳せていたら、「アーッ」と店の奥から声がした。安田が振り向くと、皆、中腰でこちらを見ていて、「ユリちゃんでない?」、「ユリちゃんだ」、「アレェ、久しぶり」と口々に囀り出した。
「会長、今日、なしたのサァ」
マータ具合悪いのかい? とまちゃえさんが声を放った。
「入院したんですー」
ユリちゃんは手メガホンで応じた。「えーっ?」と訊き返され、「にゅ、う、いーん」と声を張った。今度は届いたらしく、みんな、一斉にどよめいた。安田もだ。「えーっ」と思わず声が出た。
「いい機会ってわけでもないんですけど、今日は皆さんにお願いがあって伺いました」
ユリちゃんが安田に言った。会長によく似た丸顔に、困ったような笑顔を浮かべている。安田に案内され、皆と同じ席についた。ショートカットの横の毛を耳にかけながら、物言いたげな全員にひとりずつ目で挨拶し、厨房に立つ安田の背中に「お構いなく」と声をかけた。安田が運んできたアイスコーヒーをストローでカシャカシャッとかき回してから、語り始めた。
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