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ピアニスト・藤田真央エッセイ #42〈言葉を介さずとも〉

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  ベートーヴェン・ツィクルスの最終公演では《第5番 へ長調 作品24「春」》《第10番 ト長調 作品96》《第9番 イ長調 作品47「クロイツェル」》を演奏する。前回のデュオから1週間ほど間が空いたこともあり、テンポを落とし、全ての音の連なりを意識して丁寧にリハーサルをする時間を設けた。
 本番ではいつものようにマルクと舞台袖でグータッチをしてステージへ上がった。スプリング・ソナタの美しいメロディを、柔らかな木漏れ日のように豊潤な音色で支えていく。マルクとの信頼関係のおかげで、言葉を介さずとも相手の心のうちが伝わってくる。我々の相性は、マルクが「うどん」だとするならば私は「カレー」だろうか。力強くコシのあるうどんに、優しい出汁をベースにぴりりとアクセントのあるカレーが絶妙に絡み合って、絶品のカレーうどんが完成するのだ。
〈2楽章〉の美しいピアニシモで転調を繰り返す場面では、単旋律のヴァイオリンだけでは作り出せない喪失感と空虚感をピアノの音色で補っていく。〈終楽章〉では、停滞気味になりやすいこの曲の印象をくつがえすかの如く、マルクがどんどん曲を引っ張ってくれたおかげで華々しくエンディングを迎えることができた。
 つづく《第10番》はこれまでのベートーヴェンのソナタとは一線を画した幻想的な作品だ。これ以外のソナタは、ハーモニーや曲の進行がピアノに託されているため、ピアニスト一人で練習していても曲の全体像が摑める。しかし《第10番》だけはヴァイオリンと呼応させないとまるで作品の輪郭が見えないのだ。マルクと音を重ね合わせることで、点と点が線に繫がり、全てのモチーフやハーモニーがこの先のフレーズの伏線となっていることがよく分かる。
「私たちはアンバランスで面白いな。小柄なマオが大きなピアノを繊細に操り、身体の大きい私が小さいヴァイオリンを気持ちよく鳴らす」。かつてハンバーガーを頰張りながら彼は笑ってこう話していたが、まさに言い得て妙だ。二人でさまざまな音色の引き出しを探り、この孤高のソナタを表現する。休憩後はいよいよ我々のベートーヴェンの旅における最後の曲「クロイツェル」だ。テンポをどっしりと構え、一音一音の重みを保つことで、厳格なキャラクターを際立たせていく。〈2楽章〉では常に流れを意識し、停滞しがちなこの曲に新たな息吹きをもたらした。そして〈終楽章〉では思い残すことなくこれまでの集大成を見せることができた。

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