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ピアニスト・藤田真央エッセイ #41〈アルプスで作り上げる音楽〉

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『指先から旅をする』が書籍化しました!
世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。

 凄まじい公演から一夜明け、7月25日はまる1日かけて文藝春秋の取材が行われた。
 いつもは日本に帰国したときに取材を行うのだが、今回は文春チームがわざわざ渡欧してくれたおかげで、ヴェルビエの素晴らしい風景とともに記録を残すことができた。彼女らを歩いて案内していると「Mao ! Bravo」と街ゆく人々が立て続けに声をかけてくれるので、ヴェルビエ・ファミリーの仲間入りができたようで嬉しくなる。

 おやつの時間には、街の中心部にあるミルクシェイク屋さんに立ち寄った。ここは私がアカデミー時代に足繁く通った場所で、ミルクシェイクはもちろん、クレープも絶品のカフェだ。店内にはキーシン家族やマケラ&ユジャカップルもいて、思い思いに楽しんでいるようである。
 この店のシェイクにはたくさんのフレーバーがあり、一夏ではとても試しきれないほどだ。ほとんど全て11スイスフランなのだが、1つだけ13スイスフランのものがある。それはオレオ味だ。アカデミー時代にはバニラを愛飲していたが、今日のお会計は文藝春秋が担ってくれることをこっそり期待し、2スイスフラン高いオレオ味を注文させてもらった。味は言うまでもない、美味の極みだ。オレオのザクザクとした食感が、新鮮なミルクの甘みとまろやかにマッチしたこのシェイクを、アルプスを眺めながら楽しむ幸せはここでしか味わえないだろう。文春チームも喜びいっぱいの表情で勢いよく喉に流し込み、あっという間に皆のコップが空っぽとなった。

 次に私たちはリフトに乗り込んだ。ヴェルビエの街は標高1531mの山中にあるのだが、そこからリフトを乗り継げば3330mの山頂まで登ることができる。去年は日の出を見ようとダニール・トリフォノフやセルゲイ・ドガージン、アレクサンダー・マロフェーエフらロシア人演奏家とともに、朝6時半にリフトで頂上を目指した。7月といえどもヴェルビエは涼しく、特に山頂の気温は1桁台となる。残念ながら曇天だったため、思い描いていたような日の出は見られなかったが、山頂にあるカフェで皆でワインを片手にチーズフォンデュで暖をとった思い出は忘れられない。

 今回は山頂まで行かず、途中の見晴らしの良い場所で撮影をすることになったが、天候はまたしても曇天だった。夏のアルプスという最高のロケーションのはずが雲に囲まれ、ついには霧に飲みこまれ、5m先さえも見えなくなってしまう。山の天気が気まぐれなのは仕方がない。再びリフトで街へ戻り、今度は私の泊まっているシャレーへと文春チームを招待させてもらった。今回の私のシャレーは眺めの良い高台にあり、寝室が計4つ、バスルームも2つという規格外の広さだ。キッチン、バスタブ付きで、気ままに過ごすことができる。唯一、洗濯機が備わっていないため、毎度洗濯物の手洗いを強いられることだけは残念だったが。
 木目調の温かみのある内装で、居心地は最高だ。なんと言っても窓から見える景色が素晴らしい。横長の木製の窓枠はさながら額縁のようで、絶景が名画に変貌を遂げている。天気が変わるたびに、この絵画は一日に何度も筆触を変えて私を楽しませた。これまで独り占めしていた眺めを彼女たちに思わず鼻高々に紹介し、驚きと賞賛を得たのはなんだか気持ちがよかった。数時間シャレーに滞在してビデオ撮影を行った後は、ブラッド・メルドーのジャズ・リサイタルへ出かけて一日を終えた。

 7月26日、この日は私のソロ・リサイタルだ。私のシャレーには電子キーボードが備え付けられてはいたが、これでは大して練習することができない。そこで私は日々シャレーから練習場に移動し、スタインウェイを使って練習に励んでいた。ヴェルビエでは、夏季休暇中の小学校が練習室としてアーティストに開放されており、そこに行くといつも誰かしらに出くわす。先日はマケラとプレトニョフがラフマニノフ《ピアノ協奏曲 第2番》をリハーサルしている現場に遭遇したので、教室にお邪魔して見学した。どこからリハーサル日程を聞きつけたのか、続々とアーティストが集まってくる。皆、音楽家プレトニョフがいかにリハーサルを行い、ラフマニノフを料理するのか目したいという一心だったのだろう。
 今日も練習室で耳をすませていると、隣から難解なピアノ曲が聞こえてくる。一体誰がと覗きに行くと、私の師のキリル・ゲルシュタインだった。ジェルジ・リゲティの《ピアノ協奏曲》を弾いていた彼は、「今まで取り組んだことのある曲で一番難しい」と笑っていた。多忙なキリルとベルリンのレッスン室で会える機会は少ないのだが、かえって遠征先の方が顔をあわせるチャンスが多い。

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