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ピアニスト・藤田真央エッセイ #43〈ファインダー越しの会話〉

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世界中で撮影された公演&オフショット満載でお届けします。

 8月2日、ついに夏の旅の終着点、フランス南部・プロヴァンス地方にある田舎町ラ・ロック=ダンテロンに着いた。マルセイユ空港から車で1時間ほど、のどかな道を抜けたところにある小さな町だ。この地で行われるラ・ロック=ダンテロン国際ピアノ音楽祭に参加するのは去年に続き2回目である。
 到着翌日の朝10時からピアノ選定が始まる。昨年と同様、ステージ上には5台のピアノがずらっと並んでいた。スタインウェイ2台、ベヒシュタイン2台、そしてファツィオリが1台。この日は珍しくスタインウェイの状態が優れなかったため、ベヒシュタインのうち1台とファツィオリを30分ほどかけて試弾した。途中まではベヒシュタインを好んで弾いていたのだが、次第にどっちつかずの曖昧な音が気になり始める。野外コンサートということもあり、今回は思い切ってピアノの特徴がはっきりしたファツィオリを選択することにした。この楽器は音色が底抜けに明るく、かつ僅かなタッチにも敏感に反応し、万華鏡のように音色を変えることができる。ファツィオリはコンサートで使用するどころか、これまで触れたことさえなかったため、その性格をいち早く手の内に入れたいと、プログラムを全て本番さながらに練習した。やがて南仏の陽が照ってきたので11時にリハーサルを終える。相棒ファツィオリとは本番までしばしお別れだ。

 その後、ヴェルビエ音楽祭ぶりに文藝春秋チームと合流し、写真撮影会が始まった。彼女たちがこのラ・ロック=ダンテロンを取材の場に選んだアイディアには大賛成だ。この音楽祭のステージは大きな森林公園の中に設営されている。プロヴァンスの大自然を背景に、今時の言葉で言えば「盛れた」写真がたっぷり撮れるのではとわくわくした。
 ラ・ロック=ダンテロン音楽祭は今年で43回目の歴史ある音楽祭だ。野外会場の敷地内には、過去に出演した偉大なアーティストたちの大きな写真パネルが展示されている。スヴャトスラフ・リヒテルを始め、コチシュ・ゾルターン、ヴラド・ペルルミュテール、マルタ・アルゲリッチら、私が子どもの時からCDで聴き漁っていたレジェンドたちだ。

 今回のカメラマンはパリ在住歴30年の小野おの祐次ゆうじさんだ。小野さんは穏やかな笑顔と柔和な口調で、まるでスタジオアリスのカメラマンのような優しい佇まいだが、一度カメラを構えれば、ファインダーを覗く鋭い眼差しはパリの芸術写真家そのもの。小野さんが「どうしても案内したいところがある」と言って、我々は音楽祭の会場から車を5分走らせ、シルヴァカンヌ修道院へと向かった。彼はこの修道院に魅せられて、プライベートで7度も訪れて写真を撮っているのだという。教会堂は12世紀に建設が始まり、ロマネスク様式を基本とした簡素で洗練された構造をしている。小野さん曰く、教会愛好家は最初ゴシックやルネサンス様式に熱狂するが、やがて教会美探求の道の果てたるロマネスク様式に辿り着くのだそうだ。私もかつてはヴィルトゥオーゾの技を華麗に披露したがったが、今は研ぎ澄まされた音楽を求め、技巧はその手段に過ぎないと考えている。どこか通じるものがあるのだなと、彼の話を大変興味深く聞いた。
 修道院の静謐な雰囲気に魅了されていると、来訪者がグレゴリオ聖歌を歌い始めた。人の声が教会中に反響し、メロディが天井へ高くのぼっていく。敬虔けいけんな雰囲気は熱苦しい外気さえも鎮めるのだろうか、不思議なことに会堂は冷んやりとしていた。
 カメラを構えると、小野さんは「トレビアン!」「アンコール!」と連発した。教会堂からつづく白く美しい回廊に進み、撮影を続ける。南仏の日光が肌に心地よい。驚いたことに小野さんは、今回初めて回廊へ足を踏み入れたのだという。何度となくシルヴァカンヌ修道院を訪れているのだが、いつも教会堂だけで胸がいっぱいになってしまうそうだ。こんな風に、日常の中で置き去りにしてしまいそうなピュアな感性を大切に携えている小野さんとのファインダー越しの会話はとても楽しかった。時には庭園の池に落ちてしまいそうな体勢で、夢中でシャッターを切っていく。彼の情熱は、写真撮影が決して得意ではない私のぎこちなさを吹き飛ばし、自然な笑顔を引き出してくれた。
 その後、我々は噴水のある可愛らしい広場でひと休みしたり、ラ・ロック=ダンテロンの街を散策したりした。旅行計画ではなかなか候補に挙がらないような知らない街の魅力に出会えるのも、ピアニストという仕事の愉快なところだろう。

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